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心の講話

     
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● こころのはなし(第64回)2005.12.15

平成17年も残すところ二週間余りになりました。お寺では22日に冬至祭が行われます。護摩の修行をして来年の吉祥を祈るのです。この日は前日から檀家の方や信者さんが、たくさんのカボチャを調理し、それを大釜で炊き、翌日の冬至の日に不動明王のご宝前にお供えして参拝した方々にお接待いたします。
 昔から冬至にカボチャを食べると中風にならないといわれています。今はマーケットに行きますと、新鮮な野菜が沢山並んでいますが、昔は豊富に野菜がなかった時代です。どうしてもビタミンや鉄分などが不足してしまいますから、先人の知恵で不足するカロチンやビタミンをこの時期に補給する意味があったのではないでしょうか。また冬至にはおそばを食べる風習があり、参拝するすべての人にお接待いたします。寺はこの冬至が一年で一番賑わう時です。中国ではこの冬至のとき柑橘の金柑を食べたり、鉢植えの金柑を買い家に飾る風習があります。金柑もビタミンの補給の意味があるのでしょうが、もうひとつは金柑が金がなるという福財をイメージするからです。
 弘憲寺では二ヵ月をかけて金銀融通守りという護符をつくります。このお守りは寺独自のオリジナルで、お金が融通できるというお守りです。他には一切効力がありません。ところがこのお守りは来年の恵方の方に向けて貼りますが、貼るときが限られています。冬至の夜12時、大晦日の夜中12時、春分の日の夜中12時だけに貼らなければいけません。購入した人にノルマがあるのです。
こうした行事が終わってからやっと年賀状を書かなければいけないという慌しい年末です。

諺に「時人を待たず」という言葉があります。時間は私たちの生活に関係がなく流れていきますよ、という意味です。
今まで歩んできた自分の人生を振り返ってみますと、アッという間に過ぎ去ってしまったという思いを強くいたします。また歳をとるごとに一年が早く過ぎていくように思われます。そうした中で私の残されている人生で一番の願いは何かというと、心安らかな一生を送りたいなということです。安らかな一生というのは何もしない、何もないという消極的な生き方ではありません。
心安らかな生活を送るために目標を立て、その目的のために努力をすることです。「一年の計は元旦にあり」と言いますが、これは自分がこの一年このように生活をし、充実した人生を送ろうと言う目標設定です。

わたしの心安らかに生活するための目標は「七仏通戒偈」です。
諸悪莫作     もろもろの悪をなすことなく
衆善奉行     もろもろの善を実行し
自浄其意     自らその心を清くすること
是諸仏教     これがもろもろの仏の教えである
この七仏通戒偈は中国・唐の詩人で白楽天(白居易)が道林禅師に会って、「仏教というものはどんな教えですか」と尋ねた時、この七仏通戒偈を示されました。すると白楽天は「そんなことは三歳の幼児でも知っている」と笑いました。ところが禅師は「三歳の幼児でも知っているが、八十歳の老人でも行うことは難しい」と答えました。もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を実行する。そして自らのこころを浄くする。これを実行することは大変難しいことですが、いつもこのことを心にとどめ努力していきたいと思います。

       
   

● こころのはなし(第63回)2005.12.01

11月29日30日の二日間、兵庫県須磨区にある大本山須磨寺で全真言宗教誨師大会が開催されました。全真言宗というのは高野山真言宗、真言宗東寺派、真言宗醍醐派、真言宗大覚寺派、真言宗御室派、真言宗泉涌寺派、真言宗善通寺派、真言宗智山派、真言宗豊山派などの代表する本山があります。これらの宗派に属している教誨師は刑務所、あるいは少年施設に出向いて、被収容者の更正のため教誨(きょうかい)活動を行っています。教誨というのは更正に向かっての導きです。ですから施設におもむいて心の話や、心の悩みを聞き指導したりいたします。この全真言宗教誨師大会というのは上記の真言宗各派に所属している教誨師の研修大会です。

この研修会大会が行われた須磨寺(すまでら)は真言宗須磨寺派の本山です。仁和2年(886年)といいますから、今から1119年前に聞鏡上人が勅命を受けて、聖観音を本尊として奉祀したのがはじまりで、正式には上野山(じょうやさん)福祥寺といいます。
古くから「須磨寺」の名前で親しまれています。

須磨寺で有名なのは平家の平敦盛(たいらのあつもり)の首塚があり、源平ゆかりの寺として有名です。境内には芭蕉の句碑、「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」がございます。
平敦盛は平安末期の武将で参議経盛の子。一谷の戦いで熊谷直実に打たれました。そのとき敦盛は年十六、七ばかりであったそうです。そして容顔まことに美麗の公達であったそうです。
また敦盛は横笛の名手でありました。名勝一谷須磨の海岸で討ち死にするまで青葉の笛を肌身離さず身につけていたということです。その青葉の笛は現在須磨寺の宝物館に収められています。

皆さんは「青葉の笛」という唱歌をご存知でしょうか。明治39年尋常小学唱歌[敦盛と忠度(ただにり)]として知られています。一番は、討ち死にの直前に「青葉の笛」を心ゆくまで吹いたという平敦盛、二番は出陣の前夜、「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵のあるじならまし」という歌を師に届けた平忠度の悲劇を描いた歌といわれています。青葉の笛を紹介いたしましよう。
1  一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁寒(あかつきさむ)き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
2  更(ふ)くる夜半(よわ)に門を敲(たた)き
   わが師に託せし 言(こと)の葉あわれ
   今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌

なんと美しくもの悲しい歌でしょうか、ちょうど研修の合間をぬって須磨寺の管長様のご配慮で、須磨寺に伝わる一絃琴(いちげんきん)を鑑賞する機会を頂きました。演奏してくださったのは
須磨寺の先代住職の奥様を中心に5人の師範の先生方です。
一絃琴は在原行平が須磨の地に流された時に創始した琴。一枚の板の上に一本の絃を張っただけの素朴な楽器です。
その音色は素朴で、初冬の澄み切った空気に溶け込み、お堂の御香の香りが流れ、若くして散った平家の公達をお慰めするかのように静に心打つ演奏でございました。
境内は紅葉が美しく、美しい演奏とともにこころみたされた一日でございました。


 

       
   

● こころのはなし(第62回)2005.12.01

心のページを11月15日に内容を変えようと思いましたが、1週間も遅れてしまいました。お詫び申しあげます。

今月の16日に兵庫県淡路島七福神霊場の大黒天のお寺であります八浄寺で淡路檀信徒(だんしんと)大会と50年振りに血縁灌頂(けつえんかんじょう)が開かれました。

始めの檀信徒大会は淡路島にございます高野山真言宗寺院の檀信徒の総代をしている役員の人たちが集い、セレモニーの後で私が「仏さまの心」という演題で記念講演を1時間させていただきました。

この大会が終りますと結縁灌頂が開筵(かいえん)されます。結縁灌頂と申しますのは真言秘密最上の教えです。灌頂というのは頭の頂きに水をそそぐということです。
 むかしインドで一国の皇太子が王位につくとき、その皇太子を金銀で飾った立派な白象の座に座らせまして、その周囲に大きな幕を張り巡らし、綺麗な幡(はた)を立て並べ、香りのよい香を焚き、美しい花を散らし、音楽を奏でながら、東西南北の海から汲んで来たところの海水を金瓶に入れて置きます。
王様はその瓶をとって皇太子の頂きに四海の水を潅ぎますと、それで即位式が終わります。これが灌頂の始まりです。

また釈尊がルンビニー園でご生誕になられたとき、天の竜王が人類の救世者であるブッタの降誕を祝福して、甘露水(かんろすい)をふらして釈尊のお体に潅いだと伝えられています。そのことから4月8日の花祭りには御堂をつくってその中に誕生仏を安置して、甘茶を潅ぐようになりました。これも灌頂の儀式が取り入れられました。
 お弘法大師様が伝えられました真言密教の灌頂はもっとも意義深い神秘的な宗教儀式でして、インド、中国、日本と三国にわたり代々の祖師が嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう){正統の教えを受け継ぐこと}して今日まで伝えられました。

この灌頂を受けることによって人間がみな持っている五欲、物が欲しい、男女間の性欲、食欲、名誉を求める欲、眠りたい欲、この五欲が大日如来によって清められ、凡夫の身体のままで仏の位にのぼることが出来る儀式です。

この血縁灌頂は誰でもが受けることができます。結縁とは読んで字の如く、縁を結ぶことです。自身が仏になろうという心をおこし、老若男女の別なく、だれでもが入壇して曼荼羅の中の仏様とご縁を結ぶことができます。どのような縁を結ぶのかといいますと、私たちは大宇宙の生命を受け継ぎながら私の生命まで受け継がれてきました。大日如来という仏さまはこの大宇宙を仏格化した仏さま、言い換えると大宇宙がそのまま大日如来という仏なのです。その大宇宙の構成要素(六大といい地、水、火、風、空)を私たちも動物も植物も兼ね備えています。いいかえれば大宇宙(大日如来)に対して私たちは小宇宙です。マクロに対して私たちはミクロなのです。
ようするに大宇宙が大日如来という仏なので、私たちは仏の子です。それをこの結縁灌頂という儀式でははっきりと自覚させてくださるのです。
春秋の彼岸に和歌山県高野山の金堂で結縁灌頂は開かれます。一度参加されてはどうでしょうか。


 

       
   

● こころのはなし(第61回)2005.11.01

尸迦羅越六方礼経(しからおつろっぽうらいきょう)という経典があります。後漢の安世高の訳です。このお経は長阿含善生経(ちょうあごんぜんしょうきょう)の訳本です。
 普通このお経は善生経といい、経典の内容から六方礼経(ろっぽうらいきょう)といっています。

あるとき善生童子が、バラモンの教えにしたがって意味がわからないまま毎朝身体を清めてから六方を礼拝していました。
 お釈迦様はこれを見て、仏の教えにもとづいて六方を礼拝する意味を説いたのがこのお経です。
 ここで少しバラモンについて説明をいたしましょう。バラモンとは祭司者をいいます。インドのカースト(階級制度)の一つです。またバラモン教といってインドのバラモン階級を中心として発達した民族宗教の一つです。ヴェーダを宗教聖典として、バラモン(司祭者)中心の階級制度を規程し、祭式を尊重し、神々の讃嘆、供養などをもって天に生まれることを願う宗教です。

この善生童子はバラモンの教えである六方を礼拝する事を続けていたのですが、お釈迦さまは仏教の教えで、六方を礼拝することはどのようなことなのかを説いたものが六方礼経なのです。

その六方を礼拝するという事は、まず父母を東方といたします。
師を南方といたします。妻を西方といたします。親族を北方といたします。自分を支えてくれる人々を下方といたします。祭司をつかさどる人を上方といたします。このように六方を礼拝すれば、
死して生天するだろうと説いています。

この六方礼経に次のような言葉があります。
「次ぎの四種の友はこころよきものと知るべし。
すなわち、力ずよきたすけとなるもの、
喜びにも苦しみにも、常に変わらざる友、よき言葉を語る友、
同情ある友など、これなり。」

よく「類は友を呼ぶ」という諺があります。その人と同じようなレベルの人があつまってくるということでしょう。ふだん交際している仲間がどのような人かである程度、人物評価ができるのではないでしょうか。

2002年8月に千葉県松戸で小型モーターの世界的なトップメーカーであるマブチモーターの社長宅で妻子が殺害され放火された痛ましい事件がありました。二人の自白によると、1989年殺人事件で服役中に知り合い、「刑務所にいるころから資産家を狙っていた」と供述しています。まったく類は友を呼ぶで、なんとおそろしい相談をしていたのでしょう。

私たちの一生の間に数多くの友を持ちます。しかしお互いが高めあうような心の友は何人いるでしょうか。昔から「順境は友をつくり、逆境は友を試みる」といいますが、艱難に(かんなん)にあったときにかけつけ、励ましてくれる友は本当に少ないものです。

孔子は付き合ってためになる人、ならない人、それぞれ三種類づつあげています。
「剛直な人、誠実な人、教養のある人、これは付き合えばためになる。
易(やす)きにつく人、人当たりばかりよい人、口先ばかりうまい人、これは付き合ってもためにならないと言っています。(論語)この孔子の言葉がよき友を選ぶ一つの基準になるのではないでしょうか。

       
   

● こころのはなし(第60回)2005.10.15

13日に高松刑務所の運動会が刑務所内の運動場で行われました。教誨師をしている関係から毎年運動会に招待されます。
13日は晴天に恵まれ、紺碧の空の下、午後1時に入場行進が始まりました。
 入場門から一糸乱れぬ統制の取れた選手達(被収容者)が、マーチに乗って行進してきます。先頭に立つ者が班旗を持ち整然と居並ぶ中、それぞれの班別の選手達が班旗のもとに整列いたしました。この班別の構成はどのように決めるかと申しますと、刑務所の施設の中には工場があります。
 収容されている者は必ず就労しなければなりません。そして当然その報酬を受けます。
第1工場は石材関係の仕事をしています。香川県は有名な庵治御影(あじみかげ)が産出されます。その関係からか施設の中には石材加工の工場があります。石灯籠・石碑・墓石類などの石材加工製品の製作をいたします。

第2工場は折込公告・各種書類・文芸誌などの印刷、製本などを行います。

第3工場は衣類と枕の制作。

第4工場は作業衣の制作

第5工場、第6工場は手提げポリ袋の制作

第7工場は下着類の制作

第8工場は丸盆・菓子器・茶たくなどの讃岐漆器製品の製作

第9工場は金属・溶接加工製品・木工製品加工など

第10工場は書籍・洋服タンスなどの木工家具の製作

11工場から13工場までは紙加工製造・化学製品製造をいたします。このほか洗濯工場があり所内生活に必要な衣類や寝具などの洗濯や修理作業を行っています。刑務所の中にこのような多くの工場があるなんて信じられないと思います。
 またこの他建物などの保守・保全などの建築家・左官科の職業訓練などを施します。このように実にきめ細かに更正のための職業訓練などを行っています。このような行政的配慮は日本の刑務所が一番充実していると思います。
それぞれの工場で造られた製品はキャピックという商標名で販売しています。
 身近なところでは各県にある矯正施設で矯正展として手ごろな値段で販売をしています。こうした矯正展は矯正行政の現状を一般市民の方々に理解していただくために「社会を明るくする運動」に一環として開催しているものです。
もし皆さんのお近くにこのような催しががありましたら是非お足を運んでいただきたいと思います。

       
   

● こころのはなし(第59回)2005.10.01

「日々是好日」という禅語があります。このことばは約千年前に
雲門禅師というお坊さまが碧厳録(へきがんろく)を著しました。その中のことばです。よく床の間の掛け軸や、色紙にかかれているのを目にいたします。
このことばが人々に親しまれるのは、今日もよい日でありますようにという意味を汲み取るからだと思います。
ところがこの日々是好日ということばはごく平凡に聞こえますが、一つの悟りの境地を言い表しています。

私たちは一生の内ですべてが幸福であつた、災難も無く苦しい事も無く、順風満帆の人生だったと思える人はまずいらっしゃらないと思います。時の移ろいの中では喜怒哀楽があり、苦しみもあり、不幸な事も起こります。そうした色々ある人生の中で全体を観察し、真理、道理を見極め、何事にも同じない心境にいたり、日々是好日、日々是平安と達観するまでになるまでにはよほどの修行と信念が無ければ至らない事です。なぜ私たちは今日無事、日々是好日と生きていけないのでしょうか。

それは欲望が強すぎるからです。「私が、俺が」という自我が強すぎるからです。そして自我に執着し(執われ)、何でも自己中心に物を考えるようになります。そこに欲が起こるのです。欲望はいくら満たしてもそれで解決する事はありません。むしろ満たされるほど人間は貪欲になるのです。

昔から人生の書といわれる中国の菜根譚に次のようなことばがあります。

 「滅亡して廃墟と化した西晋(せいしん)の都は、茨(いばら)がぼうぼうと生い茂っている。それを目のあたりにしながら、それでも人々は戦いをやめようとしない。やがて死ねば北忙(ほくぼう)の墓地に葬られて、狐や兎の餌食となる運命にある。それを知りながら、それでも人々は利益にこだわり続ける。」

 古語にも「どんな猛獣でも飼いならせるが、人の心だけは始末におえない。どんな深い谷間でも埋め尽くせるが、人の心だけは満たせない」とあります。
まさに菜根譚は人間の欲望だけは際限が無く、満たすことが出来ないといっています。
今の世の中は欲望だけが突出している世界です。この人間の欲望を抑えない限り人類は破滅の道を歩む事になるという事に気が付かねばなりません。

       
   

● こころのはなし(第58回)2005.09.01

9月13日高知文化プラザかるぽーと大ホールに近松門左衛門原作の曽根崎心中の舞台を鑑賞に行ってまいりました。このフラメンコ曽根崎心中はプロデュースが阿木耀子さん、音楽監修・作曲が宇崎竜童さんです。主演振り付けがフラメンコの第一線で活躍する舞踊家であり振付家の鍵田眞由美さんがお初の役です。
また徳兵衛役に日本のフラメンコを牽引する舞踊家であり振付家の佐藤浩希さんです。

この舞踊団に毎月第一日曜日に行っている弘憲寺密教禅塾の会員にフラメンコをしている女性が参加しています。彼女はスペインにフラメンコを勉強するために留学している時に、昨年の3月にフラメンコの殿堂であるフェステバル・デ・ヘレスでこの曽根崎心中の公演と出会いました。彼女は感動して帰国後すぐにこの舞踊団のオーデションを受け、今ではこの舞踊団には無くてはならない1人です。彼女はこのフラメンコ曽根崎心中の群舞を担当しています。その彼女からご案内を頂きました。

パンフレットには鍛えぬかれた肉体と表現力で、統制美を実現しながら一人一人の個性が光る実力派集団と評価されています。

ストーリーは3幕からなっています。筋書きは次のようです。
醤油屋平野屋の手代・徳兵衛と天満屋の女郎・お初は、将来を誓い合った恋仲。だが、徳兵衛の主人は、商売熱心な徳兵衛と義理の姪との結婚話を進めていた。主人は、快い返事をしない徳兵衛に業をにやし、徳兵衛の継母に二貫目の金を渡し話しをつける。それを知った徳兵衛、自分の妻はお初しかないと、継母のもとに駆けつけ、やっとの思いで金を取り戻した。
 その帰り道、徳兵衛はばったり会った親友九平次に、金を貸して欲しいと懇願される。友の大事に、徳兵衛はやむなくその金を貸す。だが、約束の日を過ぎても、九平次は金を返しにこなかった。
一方お初にも、身請け話しが持ち上がっていた。それぞれの運命に追い詰められた二人が、久しぶりに生玉本誓寺で再会する。会えない辛さを言うお初、無沙汰をわびる徳平衛。だが、求め合う二人の心は一つだった。(プログラムよりの抜粋)数々の運命に翻弄されながらついに二人は店を抜け出し、天神の森へと向かう。
そして、あの世で夫婦となることを固く誓い合い、心中を果たしたのだった。
 この三幕からなるストーリーをフラメンコ音楽にのせてギター、シンセサイザー、カルテ、パルマにさらに琵琶、和太鼓、篠笛などを加え、全編にわたって日本語の歌詞を用いて、鍵田眞由美さんと佐藤浩希さんのフラメンコによって、徳兵衛、お初の悲恋を情熱的にあるときは激しく、また運命に翻弄され苦しむ心情を切々と画いていく。私の知る範囲ではこのような見事な舞踊劇は見たことがありません。

この舞踊団の表現力とテクニックを備えた踊り手たちの今までの努力は並大抵の物ではなかったと思います。フラメンコの基礎を確りと学び、そのうえに修練と忍耐力を持って今日の舞台があると思います。だから多くの人を感動させ心をつかんで離さないのだと思います。今回、素晴らしい舞台を堪能させて頂き、多くの事を学ばせていただきました。
 
 

       
   

● こころのはなし(第58回)2005.09.01

七十二候は中国の民が一年の自然現象、草木、作物、虫などを観察し、一年を七十二に季節を表現したものです。
ちょうど9月の2日から7日頃までを、禾乃ち登る(か、すなわちのぼる)と表現しています。禾とは稲のこと、登るとは成熟することをいいます。ちょうど9月の今ごろは稲や粟が実る時期なのです。この頃になると台風がよくやってまいります。

9月の末には台風11号、12号とほぼ同時にやってきて、11号は東海、伊豆房総半島を直撃いたしました。また13号は8月の27日に発生して沖縄から中国大陸に向かっています。
11号の台風は久々に四国を直撃して、大雨を期待したのですが、一向に雨が降りません。その結果、四国の水が早明浦ダムは
貯水量が減る一方です。8月の18日に甥の2人が水不足を心配して、神奈川県藤沢から丹沢の名水をポリタンク18個、車に積んで高松の弘憲寺まで届けてくれました。また東京の知人から山梨の尾白の水という名水を託送してくださいました。本当にありがたいことです。何とかこの危機を脱したいものですが、
この讃岐は昔から水不足に悩まされてまいりました。お蔭で水を確保するために溜池を掘り農業用水といたしました。その溜池の数は現在16、158にも及びます。
 
讃岐、香川県で代表される溜池はなんといっても周囲23キロにも及ぶ満濃池です。この満濃池は文武(もんむ)天皇の時代(683〜707)、国守(くにのもり)道守朝臣(みちもり あそん)によって初めて造られました。初めは真野ノ池といいました。

元来、この地方は水利の便が悪く、いつかも晴天が続けばたちまち旱魃となり、三日も雨が降れば洪水になるという厄介な土地であったようです。そこで道守朝臣はこの地方の農民の苦しみに同情し、ここに貯水池を築いたのです。しかし、しばしば堤防が決壊し、そのたびに多額な費用と使役を必要としました。

ところが、弘仁9年の夏に至って、堤防の大決壊があり、国守は直ちに復旧工事に取り掛かりましたが、その一方根本的な改修工事の必要を認めたので、築池使の派遣を朝廷に願い出たのです。
ところがそれでも工事は一向に進まず、ついに国守、郡守らと相談の結果、この工事を指揮するのは弘法大師空海和上以外にないとの結論に達し、朝廷へ願書をもって届けでたのです。

それが有名な「伝燈大法師位(でんどうだひっしい)空海を万農池を築く別当に宛てんことを請(こ)う状」です。
この願書は「日本紀略」に次ぎのようにあります。

「讃岐国言(もう)す。去年より始めて万農池を?(つ)くも、工(わざ)大にして民(たみ)少なし。成功、未だ期せず。
僧空海は此の土(くに)の人なり。山中に坐禅せば、獣(けもの)馴(な)れ鳥狎(な)る。海外に道を求め、虚しく往(ゆ)きて実(み)ちて帰れり。茲によって道俗は風を欽(ねが)生徒(しょうと)は市をなし、出ずれば則ち追従するもの雲のごとし。今旧土をはなれて、常に京に住す。百姓(しゃくせい)、恋慕すること父母のごとし。もし師来ると聞かば、必ず履(くつ)を倒(さかさ)にして相迎せん。伏して請う、別当に宛て、その事を済ましめんことを。これを許す。」
この願文を見ると、いかに空海が民衆から敬慕されていたかが分かります。この空海の人望が多くの人々を集めて僅3ヶ月で完成を見るのです。

       
   

● こころのはなし(第57回)2005.08.15

暑い暑いといいながら8月15日を迎えました。もう一月も讃岐は雨が降らず、四国の水がめ早明浦ダムが18日には水が底をついてしまいます。その結果18日からは夜間断水が始まります。

ちょうど新暦の八月の13日から17日頃を暦の七十二候では「涼風至る」と表現しています。涼しい風が立ち始める時節です。8月18日から22日頃を昔の人は「寒蝉(かんぜみ)鳴く」と表現しています。寒蝉とはひぐらしのことです。また秋に鳴く蝉のことをいいます。むかしはクウラーも無い、冷蔵庫も無い時代に季節の移ろいを肌で感じ季節感を言葉で表現していたのでしょう。讃岐は連日の猛暑、毎日うだるような暑さの中、お盆の檀家まわりに走っています。今の感想は只々一雨来るのを祈っています。

今日8月15日は60回目の終戦記念日です。先の太平洋戦争の戦没者は310万人、また空襲などによる一般市民の犠牲者は50万人といわれています。終戦から60年が経った今も心身ともに傷付いている人がいるということを忘れてはいけません。

私の寺には香川県庵治産出の庵治御影石でできた高さ17メートルの世界一大きい五重塔がございます。
前住職長尾義典僧正が心血を注いで昭和24年に建立したものです。
この五重塔は大正天皇即位の御大典記念に庵治町の石工5人によって石鑿(のみ)と金槌だけで5年の歳月を掛けて作り上げたものです。五重塔の各層には天女の透かし彫りがあり、この技術を持っている人はもういないと聞いています。
この塔が完成し、はじめは皇居に建てることを希望したようですが、当時は高松から東京まで何百トン、何千トンあるかわからぬ塔を運ぶ輸送手段がありませんし、聞くところによると宮内庁から断られたとも聞いています。
この五重塔はそのまま建てられることも無く、庵治の海岸にそのままになっていました。その後太平洋戦争がはじまり、五重塔は忘れられていました。そして広島に原爆が投下され10数万人の命が奪われました。原爆によって奪われた多くの命の慰霊のためにこの五重塔を建てようとしましたが実現しませんでした。

終戦の年は全国各地混乱を極めていました。そのような時に、戦地で戦い亡くなられた四国出身の戦没者の遺骨が高松港に帰ってきました。高松は昭和20年7月4日の空襲のため灰燼にきしましたが、幸いにも弘憲寺は空襲の難を逃れました。高松港に帰った戦没者の遺骨は一旦弘憲寺に安置され、一霊一霊と遺族のもとに帰っていきました。しかし最後に百体余りの遺骨が寺に残されたのです。

義典僧正はこのことを悲しみ、異国の地で戦い亡くなられた方々を慰霊しなければいけないと思い立ち、庵治海岸に放置されていた五重塔を寄付していただき、物も何も無い時に苦労して建設資金を作りました。義典僧正は建立資金を得るために、人から誹謗されながらも阿波踊りを呼んで入場料を徴収しその資金を作り、また芸人を頼んではその収益を建設資金に当てていきました。

そのような苦労の末、昭和24年どうやら五重塔は全容をあらわし、この五重塔は戦没者の慰霊塔として、また二度と愚かな戦争をしてはいけないという願を込め、平和塔と名づけました。
以来今日まで先の住職の意志を継ぎ、毎日欠かすことなく慰霊を続けていますが、60年という歳月は年代わり、人代わりして戦争のことは風化しつつありますが、戦場で多くの命が失われ、また本土空襲のため亡くなられた方や、まだ先の戦争のため心傷つき、苦しんでいる人がいる事も忘れてはならないと思います。

       
   

● こころのはなし(第56回)2005.08.01

前回はお盆のお話しをいたしました。お盆とはサンスクリットで
ウラバンナーといいます。漢訳すると倒懸(とうけん)といいます。逆さに吊るされた苦しみという意味です。このウラバンナーが盂蘭盆(うらぼん)となり、お盆となったのです。

逆さに吊るされた苦しみとはどのような意味なのでしょうか。餓鬼の世界、は貪(むさぼり)りのために落ちる世界です。貪欲(どんよく)のためにその結果として苦しむ世界です。

この餓鬼界に落ちるとやせ細って飲食することができないほど、常に飢渇に苦しむという世界です。その苦しみはあたかも逆さに吊るされるほどの苦しみだというのです。インドでは、子孫にまつってもらえない人の霊は逆さに吊るされるほどの責め苦にあうという伝説があるのです。

人間の責め苦の中で逆さに吊るされると血が下がり、顔がうっ血して極限に至ると死を招くほどの苦しみだといいます。そのような苦しみを受けるのが餓鬼の世界なのです。

ではこの餓鬼の世界から救われるのはどうしたらよいのでしょうか、それは施餓鬼法会を勤めることです。施餓鬼とは餓鬼に飲食(おんじき)を施す法会です。

この法会を通して亡き人に飲食を施し、供養するのが狙いです。
物欲しみをしない。喜んで人に布施する心を育てるのがこの法会の眼目です。

普通に布施と言えば人に金銭や財産の一部を施すことです。わたしはあの人にしてあげたという心があっては布施になりません。
させていただいたという謙虚な気持ちが真の布施だと思います。
布施を行う心得として三つのことを心がけなければなりません。

1、 自分はこれだけの施しをしたという自惚れをおこさない。
2、 誰に施したという施しの相手を忘れること

3、 何を施したということを忘れる事です。

布施をする条件とはほんとうに難しいですね。この三つの布施の心を育てるために先ず自身の貪りの心を捨ててしまう事なのです。
施餓鬼法会とは亡き人のためのもののようですが、実は私たち貪欲な心を捨てさせるための教えなのです。

       
   

● こころのはなし(第55回)2005.07.15

お 盆
今から13年前、わたしの母は膵臓癌で亡くなりました。
生前、母は何気なく「昭和35年ごろ、お寺は生活が苦しい時だったよ、農地解放のために土地を失い、おまえが丁度大学に入る事になって、入学金をどのように工面しようかとお父さんと相談し、お父さん名義のわずかに残っていた土地を手放して入学金に当てたんだよ」とホツリといいました。
 わたしは今までそのようね事実があったことも知らず、大きな衝撃を受けました。
 
『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』に「おのれ生ある間は、この身に代わらんことを念(おも)い、おのれ死に去りて後には、
子の身を護(まも)らんことを願う}とあります。まさに両親の子を思う心は、いつの世にも変わるものではありません。
 
お釈迦さまのお弟子である目連尊者は、生前やさしかった母親は、今どの世界に生まれ変わっているだろうと、神通力をもって透視したところ、餓鬼という苦しみの世界に墜ちていました。
 何とか母を救いたいという一心でお釈迦様に相談すると、「全国をまわって布教している僧たちが雨季の間、祇園精舎に帰り修業する。その修行が終る7月(8月)13日から15日までの三日間、修行僧に布施(ほどこし)をしなさい。その功徳によって、
母親とすべての餓鬼達は救われるだろう」と告げられました。
 目連尊者はその通りに実行し、再び神通力によって見通すと、母親は極楽の世界に生まれ変わっていたのです。

 それ以来、毎年この7月13日または8月13日からの三日間は、盂蘭盆(うらぼん)といい、亡き人々に供物を献じ、冥福を祈るようになりました。このお盆の行事を通して感謝の心と慈しみの心を育てていきたいものです。
  
お盆行事
お盆に帰ってくるご先祖さんのために「迎え火」を焚きます。これは帰ってくるご先祖様の足元を照らすという意味があります。またその迎え火の火を目印にしてお帰りになるとも言われます。この迎え火は13日に焚き「送り火」は16日の日に焚きます。京都の大文字焼きなどはこの「送り火」なのです。

       
   

● こころのはなし(第54回)2005.07.01

高野山を開かれた空海、弘法大師は延暦16年(797)24歳のときから延暦23年(804)までの7年間は、全く歴史の中に登場いたしません。まさにこのときは「空白の7年間」なのです。

空海はご一生の間、いくつもの名前をお持ちです。入唐する前年までは空海と自ら名乗ったかは不明です。
空海の著した「御遺告」には、「三教指帰三巻を作り、近士(在家信者)となりて無空と称す。」と言っておられますし、また「名をば教海と称し、後にあらためて如空と称す。」とあります。

20歳の時に山林修行のグループに入り、山野を跋渉する空海にはこれでよいのかという煩悶があったはずです。
その心の迷いというか、真の教えにめぐり合えない焦りというものがあったかと思います。その迷いが幾度も名前を変えているということが、揺れ動く心を表しているのではないかと思います。 
空海は24歳の時、「三教指帰」を著しました。この著作は上、中、下に分かれ、儒教の思想、道教の思想、仏教の思想をそれぞれ登場人物がでて物語を展開していきます。文体は四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれています。

四六駢儷対というのは漢文の一体ですが、漢、魏に源を発し、六朝(りくちょう)の時代から唐に流行しました。4字6字の句を基本として、対句を用いて口調をととのえるのが特徴で日本においては奈良時代、平安時代の漢文の多くはこの四六駢儷体を用いました。

空海の書いた「三教指帰」も文体を用いています。それまで物語文学がない時代に、注目するのは戯曲の体裁をとっていることです。戯曲とはご存知の通り演劇の脚本形式をとって書いた文学、劇文学です。24歳の空海がこれを著したということは驚異に値します。

さて、空海は24歳から31歳までの空白の時期はどのように過ごされていたのでしょうか。それを窺い知ることの手掛かりはありませんが、「紀伊国伊都郡(いとのごうり)高野の峯において入定の処を請(う)け乞うの表」に次ぎのように述べています。

「空海少年の日、好んで山水を渉覧(しょうらん)せしに、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること両日にして、平原の幽地あり、名づけて高野という。(後略)」とあります。

空海少年の日の少年とは20歳を指します。空海20歳の時、吉野、熊野、葛木山系を歩き巡っていたことが分かります。19歳で大学を去り、20歳から山林修行に入っています。空白の7年間はこうした山林修行の延長ではなかったかと思います。

空海は最終的には高野山を開かれ、高野山を入定の地と定められたことは、大自然(大宇宙)への回帰ではなかったかと思います。

       
   

● こころのはなし(第53回)2005.06.15

讃岐平野も梅雨の時期を迎えましたが、ほとんど雨も降らず今年は空梅雨になるのではないかと心配しています。四国の水がめである高知県早明浦(さめうら)ダムの貯水量が平年値89.2lなのに現在61.2lになってしまい、1次取水制限に入りました。今後まとまった雨がないと20日ぐらいに2次取水制限に入る予定とのこと、高松地方気象台によると、四国地方は19日から22日にかけて天気が崩れるがまとまった雨は期待できないとのこと、これから田植えをする農家の方は心配な事と思います。
 

さて、私は数年前、郵便を出しに近くの郵便局に行った際、一人の中国人と出会いました。私が最初に声をかけますと、私を福建省の中国人だと思ったらしく、彼女も気軽に話し掛けてきました。このようなご縁で中国語を習うようになりました。
彼女の名前は呉 暁華といい、香川大学大学院生で国際経済を専攻していました。とても優秀な人でもちろん日本語はなにも問題はありません。
今年3月に香川大学から金沢大学の大学院博士課程に進もうとしましたが、指導教授の推薦を得られなかったためと、ビザが切れる事もあり止む無く4月に帰国いたしました。
以前から彼女からふるさとである江西省南昌市に是非お越しくださいとのお誘いがあり、6月1日から6日までの日程で南昌市を訪問いたしました。

南昌市は上海から飛行機で一時間、3方を武夷山などの3000b級の山に囲まれた広大な盆地で、こうした地勢から亜熱帯気候に属します。近年、鉄道・高速道路の開通が相次ぎ、江西省への観光アクセスは飛躍的によくなりました。

南昌市は高松市と友好都市として交流を続けており、私が宿泊したところが中日友好会館で,
この館長さんが韓立生さんという大変気さくなかたでした。、呉さんの義理の兄さんにあたる人とでしたので、色々と気を使っていただきました。
滞在中は呉さんのご両親とも楽しい会食をし、和やかに過ごす事が出来ました。また南昌市から10キロ、高速道路で2時間、奇岩絶壁の盧山に登ることができました。盧山は1996年世界文化遺産の指定を受けたところです。

詩人李白は「盧山の瀑布を望む」という詩を読みました。

日は香炉を照らして紫煙を生ず
遥かに看る瀑布の前川を掛くるを
飛流 直下 三千尺
疑うらくは是、銀河の九天より落つるかと

また盧山は中国共産党の盧山会議の遺跡や白居易の書とされる「花径」の文字が刻まれた花径亭などがあり、史跡も数多く、「春山は夢の如く、夏山は滴の如く、秋山は酔の如く、冬山は玉の如し」といわれ四季折々の自然が楽しめる風光明媚の地です。
この他、陶磁器の町である景徳鎮も訪ねました。この一週間の間、呉さんや皆様に心暖まる歓迎と接待を受け、心に残る時を過ごさせていただきました。

 

       
   

● こころのはなし(第52回)2005.06.01

法句経の第3番に次のようなお釈迦様のお言葉があります。

「かれはわたしをののしった
 かれは私を害した
 かれはわたに勝った
 かれは私から強奪した」と
 くやしさをもって怨みずづける人には
おこりはついに鎮まることない。

中国の呉儀副首相は世界でもトップクラスの輝く女性だそうです。呉副首相は、愛知万博の中国ナショナルデー開幕式典のため5月17日に来日いたしました。訪日した日のその姿が放映され、がっちりとした身体で胸を張り、いかにも自信に満ち溢れたという印象を受けました。

河野洋平衆議院議長との会談や、日本経団連の奥田会長主催の昼食会に出席、予定通りスケジールを消化していたかに見えましたが、24日小泉首相との会談を予定していたにもかかわらず、突然キャンセルし23日帰国しました。
 24日の新聞はこれを大きく取り上げ、急遽帰国した事は外交ルール無視と報じていました。

このような中国側の対応に対して外務省首脳は「一国の首相が会う日程を組んでいるのに、理由もよく分からずに土壇場でキャンセルする。(中国側は)理由をちゃんと説明すべきだ。先の大使館破壊活動と一脈通ずるところがある」と述べ、「一連の中国側の姿勢は、国際ルール無視に加え、外交儀礼をも無視したものだ」と指摘いたしました。このことは小泉首相の靖国神社参拝を牽制する狙いがあるのではないかとの憶測が流れました。

そして25日の朝刊には中国側のスポークスマンによる発言があり、「副首相訪日に日本の指導者が参拝問題で中日関係改善のためにならない発言をしたことは遺憾で、非常に不満だ」との談話を発表し、小泉首相ら政府・自民党首脳の姿勢を公式に批判したとあります。

この問題はすぐには決着するのには大変な時間がかかると思います。それぞれの固執はお互いが歩み寄らなければ解決しません。
真の平和と友好を願うならあらゆる対立の要因を捨てないかぎり歩み寄る事さえも不可能です。
両国の固執を仏教の言葉でいうと「執着」です。すべての争いはプライドがあるから起こるのです。このプライドを捨ててしまう事こそ大切な事なのです。

 


       
   

● こころのはなし(第52回)2005.05.15

5月14日15日の両日、和歌山県の高野山に行ってまいりました。全山新緑に覆われ新緑の薫りを胸一杯に吸い込んでまいりました。
 このたびの高野山への登山は中学の同窓会で、一度世界遺産に登録された高野山に行って見たいという事から実現いたしました。参加者11名を関西空港に迎えるため、私は前日の13日に大阪に一泊する事にし、高松から難波行きの高速バスのチケット販売窓口に行きました。私は高野山大学の非常勤講師を昨年まで勤めていた関係からよくこのバスを利用していて、窓口の受付の女性とは顔なじみにでした。
 乗車券を注文し受け取った時に彼女は「私、今日で退社するのです。出産のためです。今日最後にあなたにお会いできて良かった」というのです。私は「それはおめでとう、無事に出産してくださいね」と応え、チケットを受け取りバス乗り場の方に歩き始めました。 時計を見るとバスが来るまでに10分ぐらいあります。とっさに彼女の退社と出産を兼ねたお祝いを何か出来ないかなと考えました。
 すぐ目の前に日航クレメントホテルがあります。そこに行けば
花屋が有るかも知れないと考えて急いでホテル内を探しましたがありません。目の前にケーキ店が有ったので手ごろなケーキを買い、急ぎチケット販売窓口まで戻り、彼女に「お元気で」とい言って手渡しバスに乗り込みました。
 縁というものは本当に不思議なもので、彼女の名前も知りませんけれど、無事出産し幸福な家庭を築いていってほしいものだと思い、走る車上から祈りました。何か心温かいものが何時までも心に残りました。
 次の日神奈川県藤沢から来る同窓生11名を関西空港に迎えました。南海電鉄高野線が橋本駅を過ぎ、そろそろと山にかかると山々の新緑は美しく、快い薫風が車窓から吹き込んできます。
高野山極楽橋に到着し、ケーブルカーに乗り換えて急斜面を登っていくと、両側にちらほらと石楠花の薄ビンク色の花が咲いています。ケーブルが高野山上駅に着くと山上の霊気が伝わってきます。
バスに乗り換え弘法大師ご入定の奥の院に向かい、一の橋で下車して奥の院まで苔むす何十万基という墓石群と老杉の間を歩むうちにいつしか幽玄の世界へと導かれるようです。
弘法大師ご入定の奥の院ご廟に参拝し、金剛三昧院の天然記念物の石楠花を観賞して宿泊する槙の湯温泉に入りました。
15日には高野山真言宗の総本山である金剛峰寺を参拝し、境内に群生する石楠花の美しさに歓声を上げながら伽藍、宝物が展示されている霊宝館を拝観し、大師教会で全員が受戒を受けて身も心も清らかになり下山をいたしました。
難波駅で同窓の友と別れそれぞれが帰途につきました。
旧友とともに弘法大師の霊場高野山を参拝して、充実した日を過させていただきました。

 

       
   

● こころのはなし(第51回)2005.05.01

百花繚乱の季節となり、寺の庭に昨年植えたチューリプの花が終ろうとしています。そして、弁天堂の池のまわりにはつつじがいま満開です。4月29日は高松の気温が30度を越える真夏日になりました。
 今年の4月29日は旧暦の3月21日に当たりました。今から1170年前、承和2年の3月21日寅の刻、午前4時に高野山を開かれた弘法大師空海和尚が永遠の定(じょう)に入られ、仏として昇華されました。そして大師は永遠をかけて私たち衆生をお守りくださっています。これをご入定(にゅうじょう)と申します。
 
少しこのご入定についてお話いたしましょう。お大師様がご入定の時期をお定めになられたのはご入定より数えて4年前のことです。
「吾(わ)れ去(いん)にじ天長九年十一月十二日より、深く穀味(こくみ)を厭(いと)うて専ら禅定を好む。
みな是れ令法久住(りょうぼうくじゅう)の勝計(しょうけい)にして、末代の弟子門徒等(もんとなど)のためなり」

大師は天長九年十一月十二日より、お米のご飯をめしあがらなくなりました。それは真言の教法を永久に栄えしめて、末代の弟子や信者たちの幸福をはかるというおぼしめしからです。
そして専ら禅定を好みましたのは、禅定に達しますと生死に自在をえることができるからです。このように穀物をとらず、野菜や木の芽などを召し上がられたのです。それでも大師はご健康で、ご入定の前の年まで京都と高野山との間を何回となく往復されています。

御入定の前年、承和元年2月には奈良唐招提寺の写経供養の導師をお勤めになり、3月には比叡山へ登られ落慶供養の呪願師(しゅがんし)をつとめ、5月28日には弟子や門徒のためにご遺告一巻をお作りになり、引き続き高野山の梵鐘鋳造の勧進文をお書きになられました。
 そして9月1日にはご自身で入定の場所を決定するために調査が行われました。

いよいよ予告されたご入定の日がせまりましたので、弟子たちを呼び寄せ、いよいよ入定の日が一週間後にせまったことを宣言され、二十五ケ条のご遺告の巻物一巻をお弟子様に読み聞かせたのです。
それが終りますと、香水(こうずい)をもって身を浄められ、浄らかなお部屋に入られたのです。それから飲み水も断ち結跏趺坐して大日如来の定印を結び、弥勒菩薩の三昧にお入りになりました。
 定室のうちには香煙が立ちのぼり、弟子達は悲しみに胸ふさがるばかりでございましたが、ご定床の前後を取り囲み静に弥勒菩薩のご真言を夜となく、昼となく夜となく、おとなえいたしました。
このようにして時間がしだいに移って七日目の寅の刻になりますと、温容に慈悲をたたえながら静におん息が止まったのです。おん年62歳でございます。

 大師は49日が終った翌日、50日目の夕方にかけてからお定めになっておられた奥の院の霊窟にご定身をお納め申しあげ、四方に石壇を組んでその上に五輪塔を建て、さらにその上にお堂を建てたのです。
以来、毎年ご入定の3月21日の正御影供には真言末徒は弘法大師空海和尚に報恩感謝のまことを捧げるのです。



       
   

● こころのはなし(第50回)2005.04.15

今年は桜の開花が大分遅れ、お寺の桜も13日までは満開でしたが、今は桜吹雪の真最中です。後の掃除が大変だなと思いつつ散ってゆく桜を眺めています。
私は10日から13日まで熊本におりました。熊本城の桜もほとんど散ってしまい、今は八重桜が見頃を迎えていました。
 熊本県玉名市に蓮華院誕生寺がございます。誕生寺は昭和5年に完成し、昭和53年に奥の院が完成しました。その誕生寺にダライ・ラマ法王がお越しになり、説教をされるというので行ってまいりました。
 誕生寺は比較的に新しい寺院です。しかし、誕生寺の活動は「れんげボランティア会」を設立し、25年間にわたって同じ仏教国に「仏教精神に基づくボランティア活動」を続けられている素晴らしい寺院です。
例えば
タイ国のスラム支援、人形劇・読み聞かせ活動、移動図書館。
カンボジアにおいては植林活動、日本語寺子屋教室、里親・里子奨学金制度、
スリランカでは少年の家、心の里親制度図書館支援、小規模水力発電プロジェクト、
チベット難民居住地における家屋改修事業、飲料水事業、チベット難民書籍出版事業、チベット医療ボランティア、
ミャンマー難民キャンプ支援などを行っています。
4月12日誕生寺の五重塔の特設会場に5千人の方々が、ダライ・ラマ法王の説教を聴聞しようと集ました。
午後1時半、法王はお出ましになり、2時間にわたって仏の教えを説かれました。
その説教の内容は釈尊が説れた縁起の法と、般若心経に説く「空」についてでありました。相当難しい話でしたが、ほとんど人が席を立たずに聞き入っていたのが印象的でした。
 ダライ・ラマ14世法王は、6歳の時より僧院での学習をはじめられ、23歳で最高位のゲシェの学位で仏教哲学の博士号を受けられました。
 1949年にチベットへ中国が侵略し、1959年中国軍がついにラサ市民の武装決起を弾圧しました。ダライ・ラマ法王は国外への脱出を余儀なくされ、現在まで45年間インド北部ダラムサラにおいてチベット亡命政府の元首として、人々の平和のために非暴力による闘争を選択され、チベットの平和と自由のために、
また世界の平和のために活動をされています。
1989年にはノーベル平和賞を受賞されています。法王は苦難の道を歩まれながら、仏の教えをバックボーンとして法を説き、真に人々のために祈り、活動する姿は尊い菩薩の姿で御座いました。



       
   

● こころのはなし(第49回)2005.04.01

毎月1日と15日はホームページの内容を変えていましたが、パソコンの調子が悪く、皆さんに心の講話をお届けすることが出来ませんでしたことをお詫びいたします。
また3月10日から大分県下の寺院を廻りお説教をしながら廻っていましたので、お寺を不在にしていましたので、ホームページに新しい情報を入れることが出来ませんでしたことを、お許しください。
さて、お四国八十八箇所を巡拝いたしますと、四国遍路の方が被っているものに網代笠があります。また托鉢をするお坊さんが被っています。道中照りつける日差しをよけるためにつけるのと、もう一つは、托鉢修行中に布施して下さる方の顔を見ないためだと思われます。顔を見るといろいろな思いが沸いてくる事を避ける意味も有ろうかと思います。
さて、この網代笠を良く見ると、網代笠の上に何か文字が書いてあります。その文字を「四句の偈」といいます。

迷うが故に三界の城あり
悟が故に十方は空なり
本来東西なし
いずくにか南北あらん

と書いてあります。この四句の偈のことについて、高野山が発行している高野山教報の3月15日号に、高野山奥の院維那(ゆいな)である日野西眞定僧正が次のように書いておられます。
この四句の偈の出典はどこか分かりません。五来重先生の「葬と供養」には日本の禅僧の中に生れた「禅語」と考えられ、無常を説く偈として鎌倉時代に流行したものらしいとあります。
 この笠は葬式にも使われ、死者が白い帷子(かたびら)を着け、この笠をかぶってあの世に旅立つと信じられています。四国遍路も同じ装束で歩きます。「山中他界」ということばがあり、聖なる山には、先祖の霊が篭もる死の世界があるという信仰を述べたことばです。四国にもこの信仰をもって建てられた寺が多くあります。
大きく言えば四国という島は、本土から離れた向こうにある「他界」だという信仰もあったと思われるといわれています。
人々が生活している「生」の世界から、「死」の世界に往き、また「生」の世界に帰って来ることは、信仰的に「生まれ変わり」の意味があると日本人は信じています。つまり、これまで身につけた罪、穢れを祓い落とし、清らかな身体になって帰ってくる。さらには山には強い霊力を持った「山の神」から力を頂くのです。四国遍路も同じ目的をもっています。と書かれています。大変興味深い説だと思います。


   

● こころのはなし(第48回)2005.03.01

二月がアット言う間に過ぎ去ってしまいました。この二月の寒かったこと、私の住んでいる高松では滅多に雪が降ることはありませんが、つい先日二度も雪になりました。
しかし、もう3月、嬉しいですね、何となく胸が躍る気がいたします。3日は節句、節供とも書くそうです。

節句は五節句あり、普通、節句というと五節句あり、節句というと旧暦の3月3日と5月5日の端午の節句を思い浮かべます。
この五節句は
人日(じんじつ)正月の7日
上巳(じょうし)3月3日
端午(たんご)5月5日
七夕(しちせき)7月7日
重陽(じゅうよう)9月9日
をいいます。
これは旧暦ですから一月ぐらい遅くなると思います。
3月3日は女性のお祭り、ひな祭りです。中国ではこの日、川で身を清め不浄を祓(はら)う習慣があったといいます。
これが平安時代に取り入れられ、宮中で曲水の宴を張り、祓(はらえ)を行うようになりました。
やがて曲水の宴はすたれましたが、上巳(じょうし)は巳の日の祓いとして貴族の間に定着していきました。
祓いのときに用いた紙の人形・人形(ひとがた)として人形をつくり、それに穢れを移して川や海に流し不浄を祓ったのです。
 各地にのこっている流し雛の風習はこれに当たります。
江戸時代以降は、雛祭りとして急速に庶民の間に広まり、後に上巳(じょうし)は3月3日の雛節句を指すことばに使われています。
このひな祭りは桃の花を活け、何か華やいだ雰囲気があります。

私は兄弟が男ばかりの3人兄弟でしたから、一度も雛壇のそばで甘酒を飲んだ記憶はありませんから、母は一度も嫁入りに持参したであろうお雛様を飾ることはなかったと思います。
さて、弥生は旧暦の3月の異称ですが、弥生とは木草弥生(きくさいやお)い茂る月、つまり草木のいよいよ生い茂る月の意味だそうです。「きくさいやおいずき」が詰まって弥生となったという説が有力だそうです。この頃になると雁が北へ帰っていくのでしょうか、本当に暖かい春が待ちどうしいですね。

       
   

● こころのはなし(第47回)2005.02.15

 

2月12日に「みんなでこどもを育てる県民運動」香川県民大会が高松市の文化芸術ホールで行われました。
基調講演にノンフィクション作家である柳田邦男氏が「電子メディアと子どもの心」サブタイトルとして「少年事件が問いかけるもの」と題して講演されました。
最近少年による重大な事件が多発して、社会全体に大きな衝撃を与えています。柳田氏は長崎県佐世保で起きたクラスメイトを殺傷した事件を取り上げ、その加害者の心理を分析しながら、この事件の異常性を語っておられました。
その講演を掻い摘んでご紹介したいと思います。
 先ず、最近の事件は異常と普通の区別がつきにくいと指摘されました。奈良県の新聞配達員による小学生殺害事件も性犯罪の異常な事件ですが、犯人の社会生活の中では、異常な人だという見分けがつかない。事件が起きてしまって本人の異常さに気づくのです。

 柳田氏は最近の青少年犯罪には、電子メディア(媒体、情報伝達の手段や方法の意)に拘わる事件が見受けられるといいます。
2月14日に大阪寝屋川市の市立中央小学校で教職員3人が殺傷され、17歳の少年が逮捕されました。
少年の小学校時代の同級生によると、少年は兎に角テレビゲーム好きだったのを覚えているといい、教室で机が近かったという同級生は、少年がゲームの話をする時だけ無邪気に笑うのを憶えています。といっています。
佐世保の事件も加害者の少女はインターネットの関連性が指摘されています。また普段の生活でテレビ漬けであったといいます。
この電子メディアによる弊害が次のように考えられるといわれました。

1、 自分の心の中にある曖昧な気持ちを分析して、整理して人に伝えるそうした言語化が苦手であるということ、自分の気持ちが相手に伝わらない。言語化しないとカオスの状態である。
(注)カオス ギリシャ語、初期状態のわずかな違いにより、その後に生成されるものが大きく異なるような現象をいう。

2、他者に愛着という感情を持てない。
  愛着というのは、妊娠時胎児は羊水の中に包まれているヌクヌク育った状態、胎児の時代、母親の心が安定している事が大切です。胎児は母胎の中でお母さんの感情を読んでいる。赤ちゃんは自分が守られているという実感が必要だといいます。その実感を言葉で、行動で示す。

3、 会話、文章を読んだときに全体を理解することが苦手である。一部分にこだわる。
その表れが寝屋川市での事件で「いじめを受けた時たすけてくれなかった」というこだわりとして表れたのでしょうか。

4、 怒りの感情を整理して表現できない。
  色々な感情、喜び、悲しみなどの微妙な感情を整理できないといっています。
現在の子どもの80%が自己中心的で、すぐパニックになり、暴力的になるという5年前の調査があります。何故このようなことになるのか、それは家庭環境の変化です。価値観が変わってしまった。昔は大勢の中で触れ合う、グループや集団でぶつかり合った。また現在は親との接触が希薄になった。それに代わり電子メール、テレビ、ネット、携帯電話、テレビゲーム等が子どもの遊びの主流になってしまい、上記の1から4までの事象が表れたのではないでしょうか。 今こそ家庭のあり方を見直すときではないでしょうか。

       
   

● こころのはなし(第46回)2005.02.01

 

1月も駆け抜けるように終わり、2月の声を聞こうとする時、寒波の襲来です。讃岐平野も強い西風とともに少し雪が舞います。
そのような中で裏庭の隅の方に植えてある蕗の根本を見ると、たくさんの蕗の薹が顔をだしていて、大分大きく膨らんでいます。
そんな中に一つだけ先が少し開いているのがあり、それをそうーと摘み取って、夕食の吸い物の中にいれました。なんともいえない春の香が漂ってきます。そして淡い緑色がなんともいえぬほど美しく、しばらくお椀の中の春を見つめていました。
  
2月の4日が立春です。暦に本朝七十二候というのが「略本暦」にあります。この七十二候の候というのは、わずかに表面に出てきた兆しをいいます。または季節のあらわれをいいます。
ですから「時候」とか「兆候」といいます。またもう一つの
意味としては、あらわれるのを待ち受けるという意味もあります。
ですから、七十二候というのは一年の季節の変わり目を七十二で表現したものです。
 
この七十二の季節の表現で、一番多いのは鳥に関するもので、十二、次に風、雷などの自然現象が二十、草木・作物が十三、虫などが九、けものなどが六、魚が一、となっています。これを見ると分かるように一番多いのは鳥に関するものですが、これは鳥類が季節に先駆けて飛んできますし、飛び去っていくからその季節を知ることが出来たのでしょう。
前に書いた、略本暦(りゃくほんれき)というのは、本暦を基準として、一般の人に便利な事柄だけを抜き出した暦(こよみ)です。

 その中に立春のころをどのように表現しているかといいうと、「東風凍を解く」(とうふうこおりをとく)とあります。
東風とは東から風が吹き始め、厚い氷を解かし始める時節をいいます。この東から吹いてくる風を春風ともいいます。
昔の人は季節の移ろいの中で、その季節季節を敏感に感じ取り、暖かい春を待ち望んだのでしょう。私たちも家の近所で小さな春を見つけてみませんか。そこには小さないのちが一生懸命生きようとしている姿を見つけることができると思います。

 

       
   

● こころのはなし(第45回)2005.01.15

 

1月14日の新聞はスマトラ沖地震による津波によって死者が18万人を越えたと報じています。まことに筆舌に尽くしがたい未曾有の大惨事です。連日新聞やその他の報道によって詳細が分かるにつれて悲惨な状況が伝えられます。

 その報道の中で生存者の話が載っている事があります。そのひとつが津波が襲う前に、突然日本人の観光客を乗せた象が走り出し、高台まで一目散に逃げて命が助かったという記事がありました。動物には自然災害を予知する能力が備わっているのでしょう。この度のスマトラ沖地震の発生の前に、他の動物たちはいち早く予知して、吼えたり、あるいは山に逃げ込んだ動物がいたかもしれません。人間も本来こうした予知能力を備えていたのかもしれませんが、しかし快適な生活を営むようになって、その能力は無くなってしまったのかもわかりません。

もうひとつの記事は、昔から漁師の古老の話として伝えられていることに「海が大きく引いたら山に逃げろ」という言葉を護り、島民がいち早く高台に逃れて死者は一人だけであったと報じていました。島の名前も憶えていませんが、昔同じような災害があり、それを古老の言い伝えとしてきたのでしょう。経験からくる漁師の知恵です。
 
 2世紀中頃から3世紀中頃に、龍樹(りゅうじゅ)という高僧がいらっしゃいました。大乗経典の注釈書を多く著した人であります。龍樹の著書であります「智度論」に次のような言葉が書かれています。
「智目行足(ちもくぎょうそく)以(も)って清涼池(せいりょうち)に到る」
清涼池とは迷いを離れたさとりの世界を譬えたものです。このさとりの世界に到るのにはどうしても智目と行足が必要です。
 この智目というのは知恵の目のことです。つまり正しい認識、理論ということです。行足というのは正しい実践ということです。
どんなに素晴らしい理論であっても実践が伴わなければ何もなりません。この智目と行足があって初めて知慧となるのです。

仏教ではこの知慧に三種あると説きます。
聞慧(もんえ)・・・耳から聞いた知慧、聞きかじりの知慧です。

思慧(しえ)・・・思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧をもう一度考え直した智慧です。

修慧(しゅうえ)・・実践によってしっかりと理解できた智慧です。ようするに自らが行うことによって得た智慧です。
 このたびのインド洋津波で古老の実際の体験が、多くの人の命を救うことができた。これは全く修慧に他ならないのです。


 

       
   

● こころのはなし(第44回)2005.01.01

 

明けましておめでとうございます

昨年は本当に天変地変が多い年でございました。夏の猛暑、台風の襲来、新潟中越地震、年末にはスマトラ沖地震というマグニチュウド9・0という激震により津波を引き起こし、死者は10万人を越えるだろうといわれています。本当に悲しいことです。
多くの国が救援のために現地入りし、活動をしていますがまだまだ飲料水、食糧、医薬品が不足し、感染症の発生も憂慮されるところです。

アメリカはイラクでの戦争終結を宣言してから、自爆テロなどにより戦死者が増えています。一人の戦死者には家族、友人、知人と多くの人が悲しみにくれて苦しみます。いつまでもその悲しみは癒える事はないでしょう。本当に戦争は罪悪です。それなのにブッシュ大統領はこの戦争を正当化し、神のお加護をと祈っています。ブッシュ大統領は敬虔なクリスチャンだそうですが、悪である戦争を神はお許しになり、加護するのでしょうか。

お釈迦さまのお言葉に「勝つもの 怨(うら)みを招かん 人に敗れたもの 苦しみて臥(ふ)す」とあります。戦勝した国は敗戦した国民から怨みきらわれ、敗れたものはいつまでも苦しみ、敵国視し、また怨みを持ち続けるでしょう。パレスチナの紛争を見れば一目瞭然です。

アメリカはイラクから名誉ある撤退をする正当な理由づけが見あたらないのではないでしょうか。そうです名誉ある撤退です。

先ほどスマトラ地震に触れました。今インド洋沿岸一帯では地震により多くの人が苦しんでいます。今こそイラク戦争を止めてアメリカ軍の全兵士を被災国に救援のために差し向けてはどうでしょうか。そうすれば、イラク全面撤退の立派な理由づけができます。

平和の大切さは穏やかに生活できることです。生きとし生けるいのちが穏やかに生活できますようにと、毎日本堂に坐して祈っています。
至心発願(ししんほつがん)  こころをいたして願いを発(おこ)します。
天長地久(てんちょうちきゅう) この大宇宙が永遠でありますように。
即身成仏(そくしんじょうぶつ)  父母から頂いたこのみこのままで、最高の宗教的人格を完成いたしましょう。
密厳国土(みつごんこくど)  この地球が争いのない仏さまの居ます極楽のお浄土のようになりますように。
風雨順次(ふううじゅんじ) 災害がありませんように。
五穀豊饒(ごこくぶにょう)五穀穀物が豊に実りますように。
万邦協和(ばんぽうきょうわ)  世界が平和でありますように。
諸人快楽(しょにんけらく)  以上のことがすべての人々に
平等利益(びょうどうりやく) 平等にいきわたりますように。

これらの事柄をさらにこの一年只々静に祈っていきたいとおも
います。みなさまには穏やかな日々が続きますようお祈りいたし
ます。


       
   

● こころのはなし(第43回)2004.12.01

先月、家内の妹が乳癌のために手術をしました。早期発見が一番といわれているので几帳面な妹は毎年検査を受けていたのですが、手術を受ける前まで癌が発見できなかったのは甚だ残念です。
 
手術前に墓参を兼ねて里帰りした義妹を見ると、心なしか心配そうな顔をしていました。心の中では相当な葛藤があるのだろうと推測いたしました。癌は100k死にいたる病気ではありませんけれど、義妹に何と言葉をかけてあげたらよいか言葉に詰まりました。私としたら毎日の勤行の時にただただ手術が成功するようにと祈ることしか出来ません。やはり癌と聞くとただならぬ病気であるということで認識しています。私の知人にも何人かの方が癌の手術を受けた方がいらっしゃいます。最近は癌を発見するとほとんどのドクターがあなたは癌ですよと告げるそうですが、癌患者に対して医師も事実を語るべきか否かを、躊躇するのではないかと思います。

 人によっては告げられたことで意気消沈して、絶望に打ち沈む人もいるし、逆にその禍をバネにして自分を奮い立たせる人もいると思います。しかしほとんどの方が心穏やかにその事実を受け止めることは出来ないのではないでしょうか。ある高名な僧侶が「自分は修行を積んでいるので、どんな病気でもそれを受け留めることはできる。どうか病状を言ってください」ともうしました。
医師もはじめは迷っていましたが、このお坊さんは修行が出来ているので大丈夫と判断し、「あなたは癌です。」と告げると、とたんに顔が青ざめ、逆に死期を早めたというお話を聞いたことがあります。

 釈尊は人間が絶対に逃げることが出来ない苦しみに生、老、病、死の四つを挙げています。苦しみとは自分が思うようにならないことをいいます。これを不如意と申します。しかし、思うようにならないとは逆に、その人の心のありようによっては解決できるもの、心の苦しさから開放されるということでもあります。 

 長野県に水野源三さんという方がいらっしゃいました。水野さんは詩人です。
1937年、昭和12年に生まれましたが、小学校4年生、9歳の時に、赤痢にかかり、その結果、脳性麻痺のため、体中のほとんどすべての筋肉が麻痺してしまいました。手足を動かすことは勿論、頭を動かすことも、声を出すことも出来なくなってしまったのです。彼は六畳の部屋に寝たきりで、1984年に47歳で亡くなるまで、ほとんどその部屋で過しました。それはいったいどんな気持ちだったでしょうか。不平を言いたくても喋ることが出来ません。泣き出したくても声一つ立てることが出来ないのです。絶望しても、その部屋の布団の上から自分の力では一歩も外に出られないのです。全く想像もできないような絶望的な境遇です。彼に比べれば、恐らくどんな人であってもずっと恵まれているといわなければならないでしょう。

しかし、水野源三さんは、自らの生涯に全く絶望したわけではありませんし、人生を投げてしまったわけでもありませんでした。水野さんは詩人でした。ペンを持つことも出来ない、それどころか喋る事もできない、そんな水野さんがどうして作詞できたのでしょうか。実はそれには秘密がありました。
水野さんが詩を作る時には、お母さんが手伝いました。壁に五十音、「あいうえお」から始まる平仮名の表を貼っておきます。お母さんが「あ」の行から「か、さ、た、な」と文字を順番に指していきますと、あるところで、水野さんが「パチパチ」と目で合図します。すると今度は縦に「な、に、ぬ、ね、」とまた順番に指していきます。そうするとまたあるところで「パチパチ」と目で合図を送ると、お母さんはその時指していた文字を紙に書き留めていくのです。気の遠くなるような作業ですが、そうやって一文字一文字拾っていって、水野さんはたくさんの詩を作りました。

自分なんか何のために生きているのかわからない。と思う時、それは誰にでもあるのではないでしょうか。特別勉強ができるわけでもない、お金持ちだったり、人気者だったりするわけでもない。私一人が居なくても、何も変わらないのではないか。むしろ私など居ないほうが周りに迷惑をかけないのではないか。そんなふうにもし思うことがあったら、水野さんを思い出していただきたいのです。私一人が生きるために、多くの人が沢山な思いを込めてくれております。
お父さんお母さん、おじいさん、おばあさん、友達、先生方、先輩達、それから奥さんや子どもたち、誰の世話にならず生きてきた人は居ません。
自分がつまらない、役に立たない者だと思った時、是非、水野さんを思い出してください。

 

       
   

● こころのはなし(第43回)2004.11.18

11月15日のホームページ書き換えが大幅に遅れました。と申しますのは、丁度15日から大和長谷寺に行っていまして、自坊に帰ったのが18日の夜でしたので今になってしまいました。

このたびの参拝は、全真言宗教誨師(きょうかいし)大会が長谷寺で開催されました。この全真言宗教誨師会と申しますのは、真言宗には多くの宗派がございます。因みに真言宗には29もあります。特に18の大本山が横のつながりと親睦を深め、18本山共通の事業を主宰するために結束しています。

そうした中で、教誨師会も各派バラバラに収容者の教誨に当たるのではなく、弘法大師様のみ教えを頂いて、被収容者のニーズに答える教誨を目指しています。そのため毎年それぞれの本山をお借りして研修と親睦を深めています。
今回の研修会はそうした意味合いから、真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山であります長谷寺にお邪魔いたしました。

長谷寺は山号を豊山(ぶざん)といい、寺号を長谷寺といいます。お寺は奈良盆地の西、万葉の時代から神が舞い降りるとされた信仰の山、三輪山の東に、初瀬山と与喜山の穏やかな渓谷が広がる。その山間をはうように流れる発瀬川、この山と川にかこまれた穏やかな地に建つのが長谷寺です。

この寺は奈良時代の僧、道明上人と徳道上人によって創建されたといわれています。ご本尊は十一面観世音菩薩さまです。
この十一面観世音菩薩様は1018、0センチで日本最大の木彫で、楠の木造り、右手に錫杖、左手に水瓶をもって方形の台座の上に立っておられます。この本尊様は室町時代の1538年に大仏師運宗らによって造立されました。
十一面観音様とは、サンスクリット語でエーカーダシャ・ムカで十一の顔をもつものを意味しています。私たちがお唱えする観音様のお経は「観音経」です。このお経は妙法蓮華経(法華経)の普門品が「観音経」として流布しています。この「普門」のサンスクリット語の原語はサマンタ・ムカといいます。意味はあらゆる方向に顔を向けたもの、という意味です。この意味はあらゆる方向に顔を向けて、苦しむ人々を救ってくれるということです。ですからあらゆる方向に顔を向けなくとも、顔を沢山もっていればいいわけで十一面観世音菩薩様が十一のお顔を持っていらっしゃるのはそのような訳があるのです。

長谷寺のお慈悲あふれるお姿を拝し、御足に触らせていただき
ゆっくりと回廊を下りてまいりますと、回廊の周辺に牡丹の苗木が所せましと植えられています。来春この牡丹が一斉に咲き始めると、さながら浄土のようであろうと思いながら、紅葉の始まった寺を後にいたしました。


       
   

● こころのはなし(第42回)2004.11.01

毎月の第1日曜日に阿字観による坐禅会を開いています。名づけて「密教禅塾」といいます。密教禅塾というぐらいですから、密教の坐禅、密教瞑想です。この坐禅の特徴は大宇宙との融合、言い換えれば大いなる命(大宇宙)と自心と融合し、一体になるための瞑想法です。これを阿字観(あじかん)といいます。また月輪観という瞑想法を用います。
この瞑想法はインド、中国、を経て弘法大師空海によって日本にもたらされました。なぜ禅宗の禅のように大衆に知られていないのかというと、ほとんどが僧侶の修行法の一つとして組み込まれていたことと、師から弟子へ伝えられたために、一般に知られることがなかったわけです。
昭和40年ごろから当時高野山の管長様であった、四国屋島寺の住職であった故中井龍瑞貎下が一般の人にもこの阿字観禅を広めようと努力されました。ちょうど修行を終えた私に、坐禅布教のために全国を巡わる中井貌下のお付きをしなさいと言われ、お付きをしながらこの阿字観を学びました。
一カ寺の住職になったら是非ともこの阿字観禅を広めようと考え、月に一度の密教禅塾を開設し、今日に到っています。
この坐禅会の特徴は、約30分の坐禅の後、朝粥を出し仏様の教えに叶った食事をいたします。これを食事作法(じきじさほう)といいます。配膳された食事を前に、偈文を唱え、配膳されたお膳にあるお粥、煮付け、香の物、お茶を作法に則って食していきます。その基本はすべての生きとし生けるいのちと恵みに感謝することです。それには食事そのものに集中して、自分の口に入る食事がどれだけの人の手を経て私まで来たのか、果たして今自分がこれらの食事を食すだけの資格があるのだろうか、などなど思いをめぐらしながら頂くのです。
最近はどの家庭でも、食事は楽しく雑談をしながら頂く家庭が多くなりました。昔は食事をしながら食べると親に「話をするな、静に食事をしなさい」とたしなめられたものです。
これは食事の時は心を散乱させず、食事に集中して感謝の心を忘れるなという教育の一つだったのでしょう。それは仏教の食事方法の教えが根底にあったものと考えられます。

このように食事に集中しますと、口に入れたものはよく噛みますし、粗食であっても十分に栄養が取れるわけです。逆に小食でも体を十分に維持できるわけです。

今は逆に栄養価の高いものを摂取します糖尿病が増えているのです。
10月23日の朝日新聞ビーオン・サタディにドクターの日野原重明先生は「粗食で上手に年をとる」で次のように書かれています。
寿命を延ばす研究で唯一確実と考えられているのは、食事の摂取カロリーを制限する方法だといいます。ネズミやハエなどさまざまな生物で、カロリー制限により寿命がのびることが証明されました。またアメリカのウィスコンシン大学では15年も前から、人に近いアカゲザルを使って実証実験が行われています。ビタミンなどの栄養素は充分に保ちながら摂取カロリーを30%減にすると、皮膚のシワや白髪も減少して若々しく見えるようになったそうです。摂取カロリーを減らすと、細胞内のミトコンドリアで作られるエネルギーや活性酸素が減り、老化のスピードが遅くなるといわれています。因みに厚生労働省から年齢に応じた日本人のエネルギー所要量が発表されています。男性では50〜69歳が一日当たり1750`カロリー
70歳以上が1600カロリーだそうです。
 日野原先生は今年93歳になられます。日本人は昔から腹八分といわれてきましたが、先生は腹7分目にした生活を送りながら10月4日で93歳にお成りになられたそうです。
これからは「仏教的食事法」粗食・小食・感謝の心の三本柱で実行していきたいと思っています。

       
   

● こころのはなし(第41回)2004.10.15

先週、宗教教誨師(しゅうきょうきょうかいし)の全国大会が仙台で行われ、それに参加するために雨の高松空港を飛び立ちました。出発前から仙台空港は天候が悪いため、岩手県の花巻空港か山形空港に下りるか、最悪の場合高松空港に引き返しますとの放送があり、不安なまま離陸しましたが、幸にも仙台に下りることが出来ました。
仙台は大雨で、レンタカーを借りてその日の宿泊地である秋保(あきう)温泉に泊まり、翌日大会会場である仙台駅前のホテルに入りました。
全国から教誨師の先生方430名が集まり、第30回全国教誨師大会がスタートいたしました。記念講演に小説家の五木 寛之氏による「慈のこころ,悲のこころ」と題してお話くださり、感銘を受けました。このあとそれぞれの研究部会にわかれ、研究討議がなされました。このように隔年に全国大会が開かれ、その間に地方での研修会がもたれます。

皆さんにはこの教誨師(きょうかいし)という仕事をご存知でしょうか。この教誨師という仕事は本当に地味な仕事で、一般の方々にはほとんど理解されていないと思います。
教誨の教とは「おしえる」「さとす」「みちびく」という意味がありますが、誨は「おしえる」物事をよく知らないものをおしえさとすの意味があります。

具体的にいうと、刑務所に入っている被収容者(受刑者)を訓(さと)し、善に立ち返らせるために、刑務所におもむき宗教的な導きによって受刑者の改善更正を期待するものです。

この宗教教誨は完全なボランティアで行われています。現在の行刑施設(刑務所、少年刑務所、拘置所)などで教誨に当たっている宗教教誨師は約1600人です。この中には少年院、医療刑務所、少女の家、交通刑務所なども含まれています。
私の所属している刑務所は高松刑務所ですが現在14名が奉仕しています。大きく分けますと仏教、キリスト教、神道、に所属している宗教家がその信条にしたがって活動しています。

 この教誨師の活動の歴史は古く、天慶元年といいますから西暦938年、今から1066年前といわれています。また徳川時代には心学者寺島堵庵(てらじまとあん)の高弟である中沢道二が約80年間講義を行っています。

明治に入り、明治5年にロンドンで第一回万国監獄会議が開かれ、刑務所は宗教と教育と労働が基本をなすものと決定されました。
日本も徐々に西洋の知識を取り入れだし、その後各宗の志あるかたが教誨事業に協力し、教誨師という名称が用いられたのは明治14年からです。

その後、幾多の変遷を経ながら今日に至っています。本当に教誨師の方々は民間の宗教家であり、奉仕で行われ、ほとんど一般の人の目に触れられることはありませんが、地道な活動によって
罪を犯した人たちが少しでも心情が安定し、更正の道を歩んでくれたらと思い、活動を続けています。


 

       
   

● こころのはなし(第40回)2004.10.01

9月28日は中秋の名月でした。あいにく台風21号の影響で月を見ることができませんでした。少し淋しい気がいたします。
 毎年この中秋の名月の前日、宵待ち月にはお寺で宵待ち月コンサートとを18年間も続けてきましたが、8月の30日に台風16号が四国を通過し、高松では高潮と満潮が重なり、水害のために多くの家が浸水の被害を受けました。お寺も海に近かったこともあり、水害の難に遭いました。
 
夜中に寝ているとどこからともなく水の音が聞こえてきます。何だろうなと電気を点けようとしましたが停電です。玄関まで出て行きますと既に水浸しです。履物などは水に浮いています。しかしどうすることもできません。まあ水が引くまで待たなければと思い、そのまま寝てしまいました。

翌朝10時ぐらいには水が引きましたので、庭に出てみると、近所の漂流物がお寺の庭に散在しています。また車も海水に浸かり修理が効かず廃車することになりました。エヤコンも室外機が外にありますからこれも使い物にならず、大きな被害を受けました。しかし、お寺の床は民家と比べて高く造ってあるものですから床上浸水まではいかず、安堵した次第ですが、檀家の方々の内何軒かは床上浸水の被害を受けました。 そのようなわけで今年はコンサートでもあるまいということで中止にいたしました。

今年は台風21号の影響で満月を見ることが出来ないことは本当に淋しい限りですが、十五夜はお月見・名月・中秋の名月と呼ばれ、古くから観月の好季節とされ、月下に酒宴を張り、詩歌を詠じ、ススキや月見団子・里芋・枝豆・栗などを飾り、神酒を供えて月を眺めたものです。
現在では家庭で月見をすることが少なくなりました。古来から行われてきた行事が廃れていくことは残念なことです。
昔の暦は旧暦・陰暦を用いていました。そしてこの暦は人々の生活にはなくてはならないものでした。例えば暦を見てその日のお日柄や、農作業や婚礼などの生活設計をいたしました。暦で八十八夜を見て農作物の晩霜の被害に気をつけたり、二百十日を見ては台風に備えました。古来から日本人は月の満ち欠けによって、凡そ月日を知り、十五夜の満月の夜には祭儀が行われる大切な節目であった訳です。

中秋の名月を鑑賞するようになったのは、中国では唐の時代だといわれていますが、日本では平安時代貴族の間で行われるようになりました。唐の時代には日本から遣唐使船が行き来し、その頃の日本はすべて唐の文化の模倣でしたから、当然名月を鑑賞するのも中国からの輸入であったと思います。その後武士や町民へと広がっていったものです。特に農民の間では農耕行事と深く結びつき、収穫祭の意味合いを持つようになったと考えられます。

中秋の名月はまたの名前を「いも名月」と呼ばれています。この頃に、里芋とか薩摩芋など収穫できてその感謝祭が中秋の名月と結びつき、「いも名月」といわれるのではないかと思います。
四国の愛媛県や香川県の西のほうでは河原で「芋焚き」を行う行事がが現在まで残っています。それが中秋の名月の頃です。
笑い話ですが、祖母がこんな話をしてくれたことがあります。
蛸を捕るには中秋の名月の時が一番いいというのです。
蛸は里芋が大好物で、その里芋を食べに浜辺に上がり、畑までやってきて大好物の里芋を食べるのです。月明かりの中で里芋を食べている蛸を難なく捕ることが出来るというのです。
蛸が里芋が大好物という証拠に、里芋と蛸を一緒に炊くとこれがほんとうに美味しいということです。
また密教の世界では、にごりのない清らかな仏の心を満月で表現いたします。これを「心月輪」(しんがちりん)といいます。

       
   

● こころのはなし(第40回)2004.9.15

よく「禍福はあざなえる縄の如しといわれます。人間の一生の中で順風満帆の人生なんてめったにあるものではありません。
幸せの人生を送っていても、いつ何時災難や不幸がやってくるかもわかりません。また不幸は何時までも続くものではありません。吉事と凶事とは常に入れ替りながら転変するものだと古人は説いています。
このような人生の中で私たちに一番大切なものは何かというと、それは心のあり方です。苦しみがあれば苦しみをつくるところの心の原因があり、幸福なときには幸福が生まれる心の原因があります。すべての幸不幸は自身の心に起因するのです。

石川洋さんの詩に「自戒」があります。

辛いことが多いのは
感謝をしらないからだ

苦しいことが多いのは
自分に甘えがあるからだ

悲しいことが多いのは
自分のことしかわからないからだ

心配することが多いのは今をけんめいに
いきていないからだ

いきずまりが多いのは
自分が裸になれないからだ

この詩を読ませていただくと自身の心のありようによって世界が変わるということがおわかりいただけると思います。
先年、高野山に南正文(まさのり)さんという日本画家が講演をされました。
 南さんは昭和26年9月に大阪堺に生まれました。父親は製材業をしており、両親は朝早くから夜遅くまで一生懸命に働いておりました。子どもなりにも正文さんは親の姿を見ていると手伝わざるをえません。
嫌々ながらも仕事を手伝っていました。
 始めの内は、危ない機械が沢山あり気をつけてやっていましたが、しかし、だんだんと慣れてくると、危ないことが危ないと感じなくなっておりました。嫌々ながら手伝っている時、ふと、ベルトが廻っている機械のところに片手を持っていきました。するとあまりにも動力が強いものですから、片手を取られて、その手を取ろうとして、両方の手を肩から無くしてしまいました。
 
 たまたま家の前にトラックが止まっていて病院まで運んでくれました。運ばれた時には九分九厘出血多量でだめだろうと宣言されましたが、九時間かけて手術を受けました。
 そして、二週間生死をさ迷い一命を取り留めました。それから少しづつ快方に向かいましたが、自分の手はどうなっているのかと母親に聞きますと、「両手を怪我して、後ろ手に縛って治療しているのだよ」といいます。そのときは納得したのですがだんだん日が経つに従っておかしいなという思いがでてきました。

ある日自分の手はどうなっているのか、目隠しの間に隙間を作り治療を受けました。すると、肩から両手がなくなっていて、血と膿と肉とが目の前に現れたのです。そのときの正文さんは目の前が真っ暗になりました。次の日には、これはきっと夢を見ているのだ、次の日にはきっと手がついている思っても、やはり同じ光景が現れます。そのときは言葉に表せない程のショックを受けましたが、無事に退院して家に帰るとトイレに行きたくてもできない。食べたいな飲みたいな、服を脱ぎたいなと思っても何もできない。皆さんだったらどうでしょう。汗が流れてきても普通に拭けたり、鼻の先がかゆいと思ってもすぐに手でかけます。南さんはトイレに行こうと思ってもなかなかできない。できないできないということが次々でてくる度にイライラして、不満を親にぶつけて困らせるのです。また友達の前に出て行くと上から下までジロジロと眺めながら「手無し人間」「手無しロボット」とからかって逃げるのです。その悔しさ、惨めさは口では言い表せません。
 手のある状態と手が無くなった状態で環境も心も全てが変わったのです。それを心配した母親が買い物に引っ張りだしてくれますが、通りすがりの子どもずれの人が南さんを見るなり「あんた、言う事を聞かなかったら、あんな子になるんやで」という言葉が聞こえてくるのです。いよいよ家に閉じこもって死んでしまいたいと考え、本当に足で包丁を持って、喉に突き刺そうとしたこともありました。

 そうしているうちにあまりのショックが大きいものですから、学校の担任の先生が養護学校を勧めてくださって、二年遅れで四年生から行くことになりました。そして通学するうちに足で鉛筆を持ち字を書くことを覚え、口と足、肩を使って勉強と生活訓練に励みました。

 十四歳の時、近所の方から「京都に大石順教さんという尼さんがいるから訪ねてみたら」と勧められました。自分と同じように両腕を失いながらも立派に僧侶となって多くの人を救っている大石順教尼のもとを訪ねました。
 順教尼は明治21年大阪道頓堀に生まれ、本名を「妻吉」といい、17歳の時、舞踊の修行を指導していた養父の中川万次郎が狂乱の末、一家5人を斬殺。巻き添えとなり両腕を失う受難に遭いましたが奇跡的に生還します。そして絶望と周囲の好奇の目に耐えつつ巡業芸人生活を始めます。
芸人生活はじめたある日、仙台の旅館で、軒下で飼われているカナリアの親子を見てくちばしで雛を育てている姿に目覚め、これをきっかけに口に筆をくわえて字を書くことを始めます。その後、画家と結婚し2児を出産、離婚などを経て高野山で金山穆韶(かなやまぼくしょう)師により得度を許され「順教」となります。48歳の時、京都山科勧修寺(かんしゅうじ)に日本で初めての身障者厚生施設「自在会」を設立し、73歳の時には「宗教法人仏光寺」を建立いたします。福祉活動に貢献する一方、口で筆をとり絵画、所に励み、口筆般若心経で日展に入選し、昭和37年には世界障害者芸術家協会会員として東洋初の認証を受け、従六位勲六等宝冠章を授与され、昭和43年八十歳にて死去されました。

南さんはその大石順教さんに師事し、口に筆をくわえて必死になって日本画を学びました。それと同時に心の師として指導を受けられました。順教尼は「それこそ体はいくら障害があっても、それはいたし方がない。手を付けろといっても付けられない。それはいたし方がないけれども、心の障害者になってはいけないと諭されました。
 また「形ある財産よりも形のない財産を作りなさい」とよく言われましたと南さんは語っています。形ある財産は物や金、名誉、地位、いろいろあります。それを貯めれば貯めるほど、人はつい守りに入って、人を蹴落としてでももっともっとというよくがでてきます。またかねの、ある間は名誉がある間は人にちやほやしてもらえますが、それがなくなると、みな蜘蛛の子を散らしたようにいなくなります。また泥棒や火事に遭ってしまったら、すべてなくなります。。
 しかし、心の財産は積めば積むほど、人は喜び、豊な生活ができる。自分のことはそれぞれ大事ですが、人の立場に立って、その人のことを思うと、かえっていろいろなことを教えていただけたり、また、本当に幸せだと感じることがあるわけです。泥棒や火事があっても、誰も盗る事はできないわけです。
貯めれば貯めるほど、人は喜び、自分も豊な生活ができるのです。

南正文さんは両手を失ったことが不幸の条件ではなくて、両手を失ったことが幸せの条件になるように頑張りたいとお話くださいました。

先ほど順教尼の言葉の中に、心の持ち方で幸せになったり、不幸になったりすると言われましたが、人間は不幸に遭えばそれこそ下を向いて、自分ほど不幸な人間はいないと、そんなことを思ったりします。しかし、そうゆう苦しみを乗り越えた中で、そうじゃないんだ、今、自分はこうゆう事を与えられて、もっと強くなれといっていたんだと、心の切り替えをしますと、また新しい道が開け、そして、そのことが幸せになってしまう。心の持ち方で、幸せにも不幸にもなるとお話くださいました。
 どうかこころの世界を大切にされ、希望を持ち、さらに心豊に過されますことを願っています。


 

       
   

● こころのはなし(第39回)2004.9.01

今月偈文は法句経の54番目にある言葉です。

華のかおり香は風に逆らっては行かず
栴檀(せんだん)も多掲羅(たから)も
末利迦(まりか)また然り
されど
よきひと善人の香りは風に逆らいつつもゆく
善き士(ひと)の徳は
すべての方(かた)に薫る

先月26日から29日まで秋田県由利郡矢島町に生駒高俊公の墓参に行ってまいりました。町村合併のため由利郡矢島町は来年から由利本庄市になりますので、合併前にということで高松友好親善団として訪問をいたしました。
その途中秋田大曲市花館の長福寺へ参拝いたしました。このお寺には香川県出身の奈良専二(1822〜1892)が祀られています。彼は現在の木田郡三木町で生まれ日本の三大老農家といわれた一人です。老農家というのは経験を積み、精通した大家という意味です。
彼の業績は農業改良、増産の改良に尽力して県の勧業係になり、品質改良に尽くしました。少年時代から今源内といわれるほどの発明・考案好きだったといわれています。とくに少年の頃から稲の品種改良に力を入れて種の選別が重要だと綿密に交配いたしました。これによって奈良稲、奈良麦を作りました。
明治10年第1回内国勧業博覧会にさい砕どき土器を作り出品し入賞しています。砕土器は堅い土地の開発に威力を発揮いたしました。
奈良専二の発明品には糸引車、精米機の改良、害鳥虫獣捕獲機、猫車などがあります。猫車とは土砂運搬機で箱の前の部分に車輪が一個あり、後部の2本の柄で押していく車です。私たちは一輪車といっているかもしれません。また盗難よけのセンサーのようなものを作っています。
この他鳩麦の栽培法の著作があり、コンニャク、クワイ、麻、砂糖黍の普及にも尽くしています。他に著作に食用兎の普及、誘蛾灯の理論も表し、砂糖締め機は平賀源内のものを改良したといわれています。
奈良専二はある日ちょっと神戸に行くといって出て行ったまま帰郷せず、上京して千葉、茨城で活躍し、その後秋田に赴き、おおまがりはなやかた大曲花館に行って農業改良に当たりました。この時種籾を持参、サツマイモの栽培も指導しました。現在でも秋田農業の大功労者として知られています。また稲を植えるとき定規を使う正条植えというのは讃岐(香川県)が発祥の地とわれ短冊植えや定規植えを普及させました。
秋田の地にこれだけ農業指導した人はおらず大曲市花館の長福寺には墓碑、顕彰碑があります。故郷の三木町に池戸八幡にブロンズと顕彰碑があります。
(文・高松短大津森明)三木専二のことは今香川県ではほとんど知る人がいないと思いますが、秋田の地でいまでも語り継がれていることにただただ驚くばかりです。
お釈迦さまは次のように説かれています。花の香りというものは風に乗って流れます。決して風に逆らっては流れません。これと同じように道をおさめた立派な徳のある行いは風に乗って流れるだけでなく、風に逆らっても遠く四方に広まっていくものだとお釈迦さまは説かれました。


       
   

● こころのはなし(第38回)2004.8.13

残暑お見舞い申し上げます。
 七十二候の新暦の8月13日から17日頃は「白露降(くだ)る」といって秋の気配がやや強くなり、朝きらきら光る露が降り始めている時節といわれています。ところが今年は殊のほか暑く、猛暑が続きます。この時期は檀家を一軒一軒巡り、仏壇に向かいその家のご先祖にお経を読誦して回向いたします。これを棚経(たなぎょう)と言ったり盆経(ぼんぎょう)と言ったりします。地方によっては言い方が変わるかもしれません。ただただ霊よ安らかにと成仏を祈ります。
 この時期ほど故郷の郷愁を誘う時は他にはありません。都会に出ている方が里帰りし、先祖のお墓参りをし、花を手向けて、香煙漂う中で一心に祈る姿は美しいものです。

またこの時期に何年ぶりかで同窓生と会えるのも帰省の楽しみの一つです。お互いに竹馬の友ゆえに遠慮なく話し合えることは素晴らしいことです。職場仲間ではこうはいきません。利害関係や上下関係があり、お互いに遠慮する部分があってもう一つお互いに踏み込めないところがあります。

また故郷は夏祭りの季節。四国では高松の高松祭り、「一合まいた」という郷土民謡を振り付けしてそれぞれの連がメインストリートを会場として踊ります。この「一合蒔いた」と言う歌は本当にローカル色豊です。「一合蒔いた籾の種、その桝有り高は、一石、一斗、一升、一合と一尺」と言う歌です。皆さんはこの歌の意味がわかりますか?
これは一合蒔いた籾の種から1石、1斗、1升、1合と1尺収穫できると言う歌なのです。 本当にお米はそれほど取れるのでしょうか。確かなデーターではないかも知れませんが、本当は1石3斗収穫できるといいます。

皆さんは一粒の籾を春に蒔いて、秋の収穫で何粒の籾が収穫できると思いますか。
答えは1300粒です。その1300粒の籾を二年目の春に蒔いて、秋収穫すると169万粒になります。この169万粒を3年目の春に蒔き、秋に収穫すると21億9千7百万粒になります。この21億9千7百万粒の籾を4年目の春に蒔き、その年の秋に収穫すると2兆8千5百61億粒になるといいます。

讃岐の民謡である「一合蒔いた」の歌は水不足であえいだ農民が
一粒の米でも無駄にしないようにと唄ったものかもしれません。

今年は台風のお蔭で讃岐(香川県)では水は満水状態です。そして連日の猛暑です。このまま災害がなければお米は豊作でしょう。

このお盆は釈尊の弟子である目連尊者が、自分を苦労して育ててくれた母親が死後、餓鬼道に落ちて苦しんでいる。何とか母を助けようと釈尊に相談すると、「雨季の間多くの僧侶が修業している。その修行が終る7月15日に僧侶達に供養の品を布施しなさい」と教えます。
 目連尊者はその通りに実行すると苦しみの世界に堕ちていた母は救われたのです。またこの様子を固唾を呑んで見守っていた大勢の僧侶達は、目連尊者の母が救われたことを喜び、小躍りしたといわれています。これが盆踊りのもとになったのです。

このお盆をサンスクリット語でウラバンナーといいます。逆さに吊るされた苦しみと訳します。死後地獄の世界に堕ちた者の苦しみは、あたかも逆さに吊るされた程の苦しみだと説きます。この旧7月13日から15日に果物や季節の野菜を供え、今はなき人を供養する日になったのです。

       
   

● こころのはなし(第37回)2004.8.01

エルニーニョ現象とかで異常な暑さが続きます。皆さんにはお変わりはございませんか。連日の暑さのためダムの貯水量が見る間に減少し、第一次取水制限が出される寸前に、大型の台風10号が伊豆諸島から西よりのコースを辿り、四国を直撃する様相を見せ始めました。どうか逸れてくれるように祈るばかりです。

さて、8月に入ると忘れてはならないのが終戦記念日です。1945年8月15日、今から59年前になります。NHKのラジオ放送は天皇陛下の肉声によって日本国民は日本の敗戦を知りました。この日を太平世戦争の終結として終戦記念日といたしました。

太平洋戦争で亡くなられた戦病死者は155万人、一般国民の死者は30万人といわれています。弘憲寺がある高松はその頃、B29の度重なる空襲によって町全体が灰燼に帰し、見るも無残な姿になってしまいました。

奇跡的にも弘憲寺は寺の門の前まで焼けてきましたが火災を免れ、今に昔の姿を留めています。戦後戦地で亡くなられた戦死者の遺骨が遺族の下にお帰りになられます時に、空襲で焼け残った弘憲寺に一旦遺骨が安置され、そして四国4県の遺族の方々に引き取られていきました。そうした中で引き取り手のない遺骨が百体余り残されました。

これを哀れんだ先代の住職が、これはなんとかしなければいけない。日本の平和の礎になられた方々の遺骨をこのままにしてはいけないと思い立ち、何とか慰霊が出来ないものかと思案していると、ちょうど大正天皇のご即位の記念にと、庵治町の木内さんという方が高さ17メートルの巨大な庵治御影石の五重塔を制作し、この五重塔がもう何年も建たないまま庵治町の海岸にそのままになっていました。
そこで先代住職はこの五重塔を寄贈してもらい、これを建立して
戦没者の霊を祀ろうと決心をしたのです。

しかし、戦後すぐのことでこの巨大な五重塔を建立する資金がありません。先代住職は多くの人に呼びかけ、また阿波踊りの連を呼んでその入場料を建設資金に当てたりして、幾多の艱難辛苦を乗り越えてやっと昭和24年に完成したのです。毎年終戦記念日の次の日8月16日に高松仏教会の僧侶をお招きして、盛大な法要を営みました。その戦没者追悼法会には県下一円から集まった何千という灯ろうを五重塔から吊るし、法要が終ると船をチャーターしてその灯ろうを瀬戸内海に流し、戦没者を供養したのです。
 
 ところがはじめの頃は遺族や一般の人たちは、英霊のため、戦没者のためとそれは真剣に参加してくださいましたが、時が経つにつれて戦没者の遺族の高齢化とともに参拝者もだんだんと少なくなり、戦争に対する考えも風化していきました。もう戦後59年も経ちます。風化するのは当然のことですが、何とか戦争の悲惨さを次世代に伝えてゆき、8月16日には先の大戦で亡くなった155万人の戦病死者と30万人の戦災横死者の霊に正午の時報とともに黙祷を捧げようではありませんか。

 

       
   

● こころのはなし(第36回)2004.7.15

四国は11日に例年より早く梅雨明け宣言をいたしました。
四国の水がめである高知の早明浦ダムは早々と満水になり、これで一夏は水不足の心配はないと喜んでいます。
 面白いもので梅雨明けを宣言したその日から一斉に蝉が鳴き出しました。いまこうしてホームページの原稿を書いていても、うるさいほどに鳴いています。蝉の声で余計暑さを感じます。

最近は子どもたちの蝉とりの姿を見かけなくなりました。どうしたのでしょうね。私の子供の頃は蝉取りに熱中しものでした。
蝉を取り家に帰ると親から「生き物を取るのではないよ、蝉にも命があるのだ、可愛そうなころをするのではないよ、離しておやり」こう言われて渋々逃がした想い出があります。このような一寸した親の注意が心に留まり、自然に命の大切さを学んでいったのではないかと思います。今の子どもにはこうした部分が欠落しているのではないかと思います。

また昔の子ども達はお寺の墓地に入り込んでかくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたりして遊びました。少々の悪さは住職も大目に見ていましたし、時として目に余るときはしかる時もありました。子ども達はそのスリルを楽しんでいるかのようでした。
こうした思い出が大きくなってもお寺に親しみを持ち、何時までもそうしたことを覚えています。

今年も7月盆がやってきました。来月は月遅れのお盆です。このお盆の月はお坊さんにとっては命を削るような思いで炎天下を檀家周りをいたします。一軒一軒お伺いして精霊棚の前でその家のご先祖様を供養いたします。しかし、時代の波で現在ではこの精霊棚を仏壇とは別に祀る家がなくなってしまいました。精霊棚を祀るとお盆が今年もきたなという思いを一層強くするのです。
家の門口には茄子や胡瓜にオガラで(植物で乾燥させて使う)
手足をつけ、馬に見立てて素麺で手綱をつけ、その前でご先祖さんを迎えるための迎え火を焚きます。これがお盆の風物詩でした。こいう伝統や習慣もなくなりつつあるのは寂しい限りです。

お盆はサンスクリットでウラバンナーといい、このウラバンナーを音写して盂蘭盆(うらぼん)といいます。ウアラバンナーは懸倒といい逆さに吊るされた苦しみと訳します。餓鬼道に落ちた者の苦しみは逆さに吊るされた程の苦しみを味わうとされています。 

もともと「仏説盂蘭盆経」という経典がもとになって生れたものです。釈尊に目連という弟子がいて、あるときその目連が「死んで餓鬼道に堕ち、苦しむ母を助けるのにはどうしたらよいか」と釈尊に尋ねたところ、釈尊は「おまえの母親は罪業が深くて、一人の力では助けることが出来ないから、大勢の僧を招いて、沢山のご馳走をお供えし、回向を頼むがよい。そうすればお前のお母さんは餓鬼道から救われるだろう」と説きました。
目連はその教えの通り、多くの僧に供養したところ、母は餓鬼の苦しみから救われたといいます。このお話しから、祖先の霊を家に迎えて供養を捧げ、また仏の世界に返っていただく盂蘭盆の行事が行われるようになったといわれています。普通お盆は13日を「迎え盆」といい16日を「送り盆」といい、その期間、家に精霊棚をかざり、僧侶にお経をあげていただき、お墓まいりをします。お盆には迎え火を焚き、送り火を焚きます。これは精霊が
無事にたどりつくための目印になるものです。讃岐高松周辺では
灯ろうを吊り迎え火、送り火とします。京都の大文字焼きもこの送り火なのです。

       
   

● こころのはなし(第35回)2004.7.01

長野県に長野県立こども病院があります。この子ども病院に長期入院している子どもたちが学ぶ院内学級があります。入院している子どもたちは日々病と闘っています。

この子ども病院で治療を受けた子どもたちや、今も治療を受けている子どもたちの父兄の会である「すずらんの会」が「電池の切れるまで」副題は「子ども病院からのメッセージ」(角川書店)を出版して今話題を呼んでいます。
平成十六年四月から六月まで「電池が切れるまで」というタイトルでテレビ放映されていたので記憶が新しい方もおられると思います。
その院内学級で学んでいた今は亡き宮越由貴奈さんの「命」という詩があります。

「命」  
       宮越由貴奈(小学校四年)
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命はいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
いのちはそう簡単にとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも
「命なんかいらない。」
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたというまで
せいいっぱい生きよう

なんとこころを打つ詩でしょう。宮越由貴奈さんは五歳の時、神経芽細胞腫と診断され十一歳で亡くなりました。この詩は由貴奈さんの遺作になってしまいました。お母さんが言われるのには、院内学級で受けた理科の授業「乾電池の実験」直後につくられたということでした。

私たちは何十年生きていても、自分の命を見つめ、その大切さを自覚することはないと思います。毎日事故や災害や戦争などで多くの人々が亡くなっています。新聞などの記事を見ても、ただ他人の死という捉えで看過してしまいます。宮越由貴奈さんの詩は私たちに命の尊さを教え、精一杯生きようと訴えています。
由貴奈さんは重度の病気によって生死の境をさ迷い、真に命の尊さ大切さを覚られたのです。

また由貴奈さんは病という苦し身の中で、同じ苦しみの人を思いやる慈しみの心を持っておられました。同じ「電池が切れるまで」の本の中で、同じ院内学級のお友達である田村由香(小学校5年)さんが由貴奈さんの詩をつくっています。

ゆきなちゃん  田村由香(小学校五年)
ゆきなちゃんは
合計二年間も病院にいる
治療で苦しいときもある
それなのに
人が泣いているときは
自分のことなんか忘れて
すぐなぐさめてくれる
でも たまあに
夜 静かに泣いていたときもあった
いつもなぐさめていたゆきなちゃんが泣くと
こっちがどうしていいか
わからなくなる
ゆきなちゃんの泣いている姿を
ただ じっと見ているだけだ
ごめんね なぐさめられなくて
ゆきなちゃん ごめんね

由貴奈さんのやさしさが伝わってきます。自分の苦しみのなかで、友人のささえになってあげようとする姿は、まさに仏様の慈悲の心です。慈悲とは人に訴えられないほどの苦しみ呻き苦しんでいる人を自分の苦しみと捉え、無条件で救うという行為をいいます。由貴奈さんは大慈悲の心をもった仏様です。


       
   

● こころのはなし(第34回)2004.6.15

 6月にはめずらしい台風4号から変わる熱帯低気圧が西日本を通過し、その影響で梅雨前線は西から北上し活動が活発になり、11日には四国では激しい雨が降りました。
 ちょうどその折、母の法事で実家に帰郷するため、高松空港に行きましたが、激しい雨のために定刻間際まで状況待ちの状態で出発を待ちました。待ち時間に万が一欠航することを考え、寝台特急サンライズ瀬戸にすべきか、夜行の長距離バスにするか迷いながら不安な一時を過ごしましたが、幸にも出発定刻間際に飛ぶことが確認され安堵いたしました。
 私の実家は神奈川県藤沢市辻堂というところです。相模湾に面し、西に富士山、東南に緑の江ノ島を望むことができる風光明媚なところです。いま湘南の海はウエットスーツを着たサーフアーたちが、太平洋の波を捉えようと懸命に泳いでいる姿を見かけます。
私は土地の小、中学、高校と学び、都内の大学に通いました。卒業してからは和歌山県高野山での修行に入り、縁あって香川県高松市にある弘憲寺に入山いたしました。そしていつの間にか30有余年が経ってしまいました。その間母が亡くなり、今年で13回忌の正忌に当たり、久しぶりの帰郷となりました。
 有難いことに私が帰郷することを知って、小学校時代のクラスメートが他の旧友にも葉書で知らせ、急遽12日の晩に同窓会を開いてくださいました。急な案内にも拘わらず10名の友が出席してくださいました。
 メンバーは私を含め女性5名、男性6名でした。夜7時から11時まで時間が経つのを忘れ、ほんとうに楽しい時間を過ごすことが出来ました。皆それぞれの人生を歩んでこられてきたと思います。苦しんだこと、悩んだこと涙したこともあったと思います。その苦しみの体験はなかなか人に話せるものではありませんが、しかし、還暦を過ぎたいま、クラスメート達が集い何の屈託もなく笑い、談笑する姿を見ていると、全員が物の欠乏した戦後すぐのあの小、中学時代にタイムスリップしています。そして全員の顔が輝き素晴らしい表情をみせてくれました。
 菜根譚にこのような言葉があります。
 「新知を結ぶは、旧好を敦(あつ)くするに如(し)かず」
新しい友人を求めえるよりは、古い友人を大事にしたいという意味です。
 本当に私もそう思います。よき友人がいるということはこの上もない財産だです。法事が終った次の日、久しぶりに鎌倉を巡りました。極楽寺を廻り、次に美男におわす大仏に参拝して、傍らの木立の中を見ると薄紫の紫陽花がひっそりと咲いています。その静寂さに心打たれ鎌倉を後にいたしました。

     紫陽花や帷子時の薄浅黄     芭蕉


       
   

● こころのはなし(第33回)2004.6.01

 22日拉致家族五人の方々が帰国した。多くの日本人がこのたび小泉首相の北朝鮮訪問を注視していたのではないでしょうか。これによって蓮池さん、地村さんの子供らが日本に帰国できたことはなによりも喜ばなければいけないが、蘇我ひとみさんの家族が帰国できなかったのはまことに残念というほかはありません。
曽我さんはこの報をどんな思いで聞いたのかを思うと、心痛むおもいです。

また安否不明の拉致被害者の情報がなんらもたらされなかつたことで、特に拉致被害者家族会の人たちはその成果を一日千秋の思い出待ち望んでいただけに、その落胆振りは殊のほか大きかったのではないでしょうか。
そのことが二十二日における被害者の会のメンバーの発言に如実に表れています。
 特に拉致被害者の会、横田滋さんは「予想していた中で最悪の結果。裏切られたという感じ」
蓮池透さんは「また新たな悲劇が生れた。五人の間を引き裂き、いじめに等しい」
飯島繁雄さん「子供の使いに等しい。既成事実が次々でき、残念」増本照明さん「首相の能力のなさとしか言いようがない。ブルーリボンに前面解決の思いを込めたが通じなかった」
奥土一男さん「家族会には首相に感謝する声はない。孫も帰ってくる。うれしくないといえばうそになる」
などの発言が相次ぎました。このたびの訪朝で拉致被害者に関しては主だった成果がなかっただけに拉致被害者の会の人たちの思いは複雑であろうとおもいます。
この被害者の会の方々の記者会見での模様を私もテレビで見ていたしました。そのとき「あれまで厳しいことばで批判しなくてもいいものを」と感じたのは私だけでしょうか。
予期した通り、26日の新聞に「メール・電話で家族会を批判、首相面会時発言めぐり」という記事が出ていました。メール、電話の四分の三は「首相に感謝の言葉がない」、「拉致被害者の家族の帰国を喜ばないのか」などと批判する声だといいます。

本当にことばは難しいものです。良かれと思い使ったことばで人は喜んだり、怒ったり、傷ついたり、悲しみにくれたり色々です。百人いれば百人の取り方、解釈の仕方があります。だからことばは難しいのです。

釈尊が説かれた教えに法句経(ダンマパタ)があります。
ダンマとは真理または真実という意味があります。パタはことばという意味です。ですから法句経とは「真実の教えのことば」ということになります。その中に次のような詩があります。

粗なることばをはなすなかれ
言われたるもの またなんじにかえらん
いかりより出ずる言葉は げに 苦しみなり
しかえしかならず 汝の身にいたらん

粗(そあら)なる言葉とは暴言のことです。言葉による暴力です。言葉の暴力は人を傷つけ、立ち上がれないほどに打ちのめします。釈尊はみだりに暴言を吐いてはならない。暴言を吐けばかならずその人のもとに返ってくると説いています。日本人は本来思いやりの心を持っていました。その一つが人を傷つけてはいけないという思いやりの心です。
最近は先に言わなければ損をする。先に言った方が勝ちとばかり人を批判し、暴言を吐き、人が傷ついても痛みを感じない人が多くなったのではないでしょうか。もう一度釈尊の法句経の言葉を噛み締めてみたいと思います。

       
   

● こころのはなし(第32回)2004.5.15

 二三日前の新聞に、四国の水がめである早明浦ダムが満水になったと伝えていました。毎年渇水で苦労する香川県の生命線とも言える水がめです。高知県にあるこのダムから吉野川に水を流し、徳島県の阿波池田から阿讃山脈をくり貫いたトンネルで、香川県財田町まで導水し、讃岐の平野を潤しています。

 讃岐には空海が修築した満濃池がありますが、この水は二市四町の田畑を潤します。この満濃池のユル抜きは六月十五日、空海の誕生日に行われます。ユル抜きとは水門を開けることです。

この満濃池のユル抜きが始まると讃岐平野の田植えが始まりますが、最近では田植えは大分早くなって、もう4月の後半に田植えを始める農家もあります。前は暦の半夏生までに田植えを済ませてしまい、この後は田植えをしないとう習慣があったそうです。

この半夏とはもともと仏教の九十日にわたる夏安居(げあんご)の中間である四十五日目を指します。夏安居とは釈尊在世にインド各地に伝道に出ている僧侶が、雨季の期間に祇園精舎に戻り、静に瞑想をし、修行をする期間をいいます。

また半夏とは、水辺に生える「からすびしゃく」というドクダミ科の多年草の毒草のことで、六月頃、緑色をおびた鞘(さや)が出来ます。半夏生とはされが生える時期ということになります。
その塊根は生薬として鎮嘔薬・鎮吐薬に用いられるとあります。
(註)現代こよみ読み書き辞典 岡田芳郎、阿久根末忠編著
   柏書房
丁度五月二十日頃が二十四節季の内の新暦の小満に当たります。旧暦の小満は四月三日です。この小満は立夏後の十五日目に当たります。天文学的にいえば、太陽が黄経六十度のてんを通過するときを言います。また小満とは万物がしだいに成長して、天地に満ち始めるという意味です。麦の穂が成長し、野山の植物は花が散って身を結び、田に苗を植える準備をする頃がちょうど小満に当たります。ですから四月下旬に田植えをはじめるということは、昔と比べたら相当早くなっていることが分かります。

この小満の頃のことばで「苦菜秀(しい)ず」と表現しています。この頃は苦菜(にがな)がよく茂る時節と言われています。
この苦菜というのがどのような植物かは分かりません。「秀ず」とは植物がよく繁茂することと、花が開き実を結ぶという意味もあるといわれています。

このように日本人は四季の移り変わりを敏感に感じ、植物の生態をよく観察して生活設計をしていたことが分かります。
これは日本人の感性の豊かさであり、本来農耕民族であったことの証しでもあると思います。いま私たちは多忙な毎日を送り、心のゆとりが無くなってきました。時の移ろいの中で季節の花々、一木一草の命にも目を向けていくゆとりを失いたくないと思います。

       
   

● こころのはなし(第31回)2004.5.01

現在国会では「年金改革関連法案」が審議されています。難しいことは分かりませんが、与党の主張は年金の掛け金の値上げと、年金支給の減額だそうです。それに反対する与野党の攻防が争点となっているようです。
 このような時に、社会保険庁の広告に起用された女優江角マキコさんの国民年金未納にはじまり、ついに未納が三閣僚とさらに四人の閣僚に及び、それを「未納三兄弟」非難していた民主党の代表も未納であったという笑うにも笑えないことが起こりました。
それぞれ未納の議員の先生方は、釈明とお詫びを繰り返すばかりです。

中国の長江の流れ近くに金山寺というお寺がございます。その金山寺に時の皇帝がご行啓されました。皇帝は長江の流れが一望できる高楼に住寺とともに登り、長江の流れを見ていました。
 突然に皇帝は住寺に質問をいたしました。「この長江に一日どれほどの船が行き来するだろうか」、すると、「ハイ、一日の船の往来はたったの二隻でございます」と金山寺の住寺は答えました。
訝った皇帝は「いま長江を見ているだけで、何十隻という船が行き来しているのに、二隻とはどのようなことかと問いただしました。すると住寺は「一隻は利養の船、もう一隻は名利の船と答えました。
 人間は必ず二つの目的で働いています。一つは自分の利益を得るため、もう一つは自分の名声を得るためのみに働いています。と答えました。
 人間の目的がこの二つのためのみであったら寂しい限りです。
特に公職につかれている方は清廉でなければならないと思います。清廉とは心が清くて私欲がないことです。
十七世紀に中国に洪応明(こうおうめい)という人がいました。
洪応明は道教、仏教を研究し、「菜根譚」(さいこんたん)を著しました。菜根譚の菜根とは粗食ということで、粗食に耐えたもの、要するに苦しい境遇に耐えた者だけが大成するという意味を含んでいます。この菜根譚には人生如何に生きるべきかが示されています。その中に次のような言葉があります。

「官に居るに二語あり、いわく「ただ公なればすなわち明を生じ、ただ廉(れん)なればすなわち威(い)を生ず」

公職にあるときの心得に二つの語があります。一つは「公正であってこそ正しい判断が出来る」次に「清廉であってこそ威厳が生れる」という意味です。今の政治家には耳が痛いことばではないでしょうか。

       
   

● こころのはなし(第30回)2004.4.15

 私は週に2,3回の割合でフィットネス・クラブに行きます。
大分前に、椎間板ヘルニアを患い手術を受けました。椎間板ヘルニアとは、脊柱(せきちゅう)に連なっているつい椎骨と椎骨との間にあにある円板状の組織で、腹筋と背筋のバランスがくずれて円板状の組織が飛び出して、神経に当たるとものすごい激痛がはしり、それはもう耐えられない痛みをともないます。丁度ギックリ腰を想像していただいたらよいと思います。

手術から約50日間入院いたしました。手術は成功し完治したのですが、足の指先辺りに痺れのような後遺症が残りました。
生活には全く支障はないのですが、歳を経るに従ってしびれがひどくなってはいけないと思いリハビリと健康管理のつもりで
フィットネス。クラブに通うようになりました。

フィットネス・クラブはビルの3階にあり、ビルの向かい側は高松中央公園です。もう数年も通っていますと公園の四季の移り変わりがよくわかります。今は公園の樹木は新しい葉が一斉に成長し、見る間に公園一帯が新緑に覆われてきました。特に楠、銀杏、桜の木はつい先日花が散ったと思っていましたら、もう若葉が出ています。 季節がこれから5月、6月と移り変わると淡い緑が段々と濃くなり、真夏には我々に緑陰を与えてくれます。

 このような自然界のいとなみは実は大宇宙の大生命のいとなみなのです。宇宙とは何か考えると、宇宙とは中国の古書に「四方上下、これを宇といい。往古来今、これを宙という」とあります。宇とは限りない広がり、宙はかぎりない時間です。要するに無限の広がりがあり、その無限の広がりの中に森羅万象のすべてを包み込んでいます。その内容は天空にある無数の星座、天体をはじめ地球上に生息する人間や獣、魚類、虫類の生き物、草木などの植物、鉱物、土石類の数々、おおよそ生きとし生けるありとあらゆるものが、網のように連鎖している森羅万象があります。

しかもそのそれぞれが、生まれ変わり死に変わりながら、消滅変化して永劫に続いています。これらのすべてを内蔵している大宇宙は、実は唯一あらゆる対立を絶し、果てしなく広がり、しかも永遠に生き続く無限絶対の大生命体です。この生きている大宇宙は、そのまま仏様として仰ぎ拝むのが真言密教なのです。そしてその宇宙大生命を大日如来と名付け遍照金剛と呼ぶのです。

だいぶ難しい話になりましたが、一本の花も、路傍の草もすべて仏の命の顕われだと言うことです。

 

       
   

● こころのはなし(第29回)2004.4.01

昨年の十月に球根を植えたチューリップの花が開花し、参拝にこられる人の心を和ませています
 昨年「寺花いっぱい運動」と銘打って実行に移しました。この計画を坐禅会に参加しているメンバーに話したところ、私が堆肥を作っているから使ってくださいとトラックいっぱいの花崗土と堆肥を二十袋も持って来てくださいました。

 さー、これでは後に引くことができません。プランタンを買い込み、手始めにチューリップの球根を買い、頂いた堆肥で土作りから始め、出来上がったプランタンを玄関脇に並べ、管理しやすいようにしました。外出するときには必ずプランタンを覗き、土が乾いているようであれば水をやり管理をいたしました。
 すると早くも一月頃には芽を出したではありませんか。寒中なのに芽を出すなどということは今まで知りませんでした。

 春彼岸頃になると急に成長を始め、葉が伸びて花芽が大きく膨らんで、茎も伸び、三月二十七日に開花しました。本当に手塩にかけて育てたといっても過言ではありません。大切に育てますとよくぞ咲いてくれたという感動にも似た喜びがあります。

春はすべての生き物が躍動する季節です。このエネルギッシュな月、四月八日にお釈迦様が誕生されたのです。
 お釈迦様にはいくつかの呼び名があります。釈迦とはご出身の種族の名です。釈迦族です。父はインドに近い現在のネパール南麓カピラ城の浄飯王(じょぼんおう)、母はマーヤ夫人(摩耶)です。

お釈迦様の姓はゴータマ、名はシッタルタといいます。伝説では釈尊(釈迦族の尊いお方という意味)は、はるか昔に燃燈仏という仏様から、将来仏になるという予言を受け、修行のすえいったん兜卒天という浄土に生れ、また兜卒天から降りてきてこの世に生を受けたと伝えられています。マーヤ夫人はある夜、六本の牙をもつ白い象が体内に入るを見て懐妊いたしました。実はこの白象は、兜卒天から降りてきた釈尊なのです。

月満ちて出産が近いことを知り、マーヤ夫人は城を出て自らの実家に向かいました。その途中にルンビ二という公園に立ち寄られました。この公園には今盛りと無憂樹の花が咲き乱れていました。

マーヤ夫人は風に乗ってながれてくる香りに誘われ、思わずその無憂樹の花に右手を差し伸べた時、陣痛がはじまりました。そして花に触ろうとした右手のわき腹から釈尊がお生まれになられたと言い伝えれています。

釈尊がうまれた時、神々は沢山の花を降らせ、竜神は甘露の雨を降らせたと言い伝えられています。日本では四月八日が釈尊の誕生日とされ、誕生日をお祝いするためにお堂を花で飾り、誕生仏に甘茶を潅ぐようになりました。この釈尊の誕生日をお祝いする行事を仏生会(ぶっしょうえ)、誕生会(たんじょうえ)、潅仏会(かんぶつえ)降誕会(ごうたんえ)、浴仏会(よくぶつえ)竜華会(りゅうげえ)などといいます。またお堂を花で飾るので花祭りとも言います。

四月八日にはぜひとも、近くのお寺に歩みを進め、花見堂に安置されている誕生仏に甘茶を潅ぎ、お釈迦様のお誕生日をお祝いしましょう。

潅仏の日に生れあふ鹿(か)の子かな   芭蕉

       
   

● こころのはなし(第28回)2004.3.15

本堂を開ける時、甘い沈丁花の香りが漂ってきます。早朝に起きることのメリットは、季節の移り変わりが肌で感じられることです。夜明けも次第に早くなり、6時にはすっかり明るくなります。

私の起床は冬時間で5時30分です。まだ真っ暗ですが洗面を済ませ、山門の扉を開け本堂や弁天堂の戸を開け、6時の梵鐘を撞く時にはもう夜が明けています。

お寺の起床は伝統的に早いものです。なぜ早いのでしょうか。本来寺には決まられた規則があります。その規則に則って一日の生活を進めていきます。その規則に四威儀作法(しいぎさほう)があります。

四威儀作法の威儀とは作法に叶った立ち振る舞いを言いますから、仏道生活における作法に叶った立ち振る舞いを指します。
その立ち振る舞いは行住坐臥(ぎょうじゅうざが)
(1) 行とは行くこと、
(2) 住とはとどまること
(3) 坐すること
(4) 臥とは横になること(就寝)
の四つの人間の行動をさします。この四つの行動を戒律にしたがって正しく整え、備えることを四威儀作法といいます。

この規則に従って粛々と行っているのは修行道場ぐらいかと思いますが、お寺でもこの四威儀作法を生活の基準としています。
この作法の一番初めに出てくるのは起床の時を知らせる鐘の撞き方です。この鐘は鐘撞き堂(鐘楼)の鐘ではありません。
半鐘です喚鐘(かんしょう)ともいいます。半鐘は基本的にはこれから何をすべきかを知らせる鐘です。鐘の撞き方がそれぞれ違いますので、その鐘の音を聞き分け行動しなければなりません。三通二下とあるのは半鐘の打ち方を定めています。

次に起床は次のように定められています。
「起床は寅(とら)の刻に至って鐘を打つべし、三通二下(さんつうにげ)」とあり、起床は寅の刻です寅の刻は時間を十二支に当てはめています。寅の刻とは現在の午前4時を指します。この4時を暁(あかつき)といい6時を明け、8時を朝としています。ですから暁天坐禅会と看板をかけ、坐禅会を開いているお寺があれば、それは本来なら午前4時を始めといたします。しかしこれだけ早いと一般の方は起きるのが難しいと思います。6時でも暁天としています。今はほとんどの人が夜更かし朝寝方だと思いますが、本来農耕民族である日本人は早寝早起き方でありました。まだ朝薄暗い時に既に田んぼに立ち、農作業し、夕方家に帰り、暗くなりと就寝するという生活でした。このスタイルを今の日本人に求めるのは酷だと思いますが、早起きの習慣をつけるのも健康的でよいと思います。
早朝に起き空を見上げると、北帰行をする鳥の姿を見ることができますよ。

       
   

● こころのはなし(第27回)2004.3.01

2月20日に高松市友好親善訪問団のお誘いを受け、友好都市である茨城県水戸市へ同行させていただきました。
 
今から362年前の寛永19年に常陸の国下館(しもだて)に城主であつた松平頼重(よりしげ)は高松に転封を命じられ、東讃岐12万石を賜わりました。それまでは秀吉の中老であった生駒親正(いこまちかまさ)から4代、54年にわたって讃岐を治めていましたが、4代高俊の時代に現在の秋田県由利郡矢島に国替えとなり、その後を受けて松平家が高松に移封しました。
 
松平頼重は徳川家康の孫にあたり、家康第11男徳川頼房の長子で、同腹の弟に水戸藩主、黄門様で有名な徳川光圀(とくがわみつくに)がいます。この高松と水戸との関係は幕末まで続きます。このようなわけで高松と水戸は友好関係にあります。

 このたびの訪問は友好を深める目的と、2月20日から3月31日まで「梅まつり」にあわせての訪問です。梅祭り初日ということもあって賑わいは想像以上のものでした。天気もよく暖かで絶好の観梅日和です。

三戸の偕楽園は江戸時代末期に造られ、12,7ヘクタールの約2分の1に3000本、100種を数える品種があり、全国のほとんどの品種が集められているといいます。なるほど天下の名園だということを納得いたしました。

偕楽園に到着すると市観光課の方の出迎えを受け、公園を案内してくださるボランティアの方が懇切丁寧に梅園の説明、梅の種類、
梅に纏わるエピソードなどを説明してくださいました。二時間余りの時間嫌な顔一つせず、またこちらの質問にも答えてくださり、
遅れている人にも声を荒げることもなく、笑顔で接してくださいました。お世話になったボランティアの方に頭が下がる思いでした。

このボランティアを辞書で引いてみると、(義勇兵の意)志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人。とあります。現在ボランティアとは奉仕者という意味で使われています。ボランティアの条件は無償であることが一つの条件と私も理解しています。

この奉仕で難しいのは無報酬でありながら一切の見返りを求めないことであると思います。例えば奉仕をしたのにあの人は御礼も言われなかった。これは既に見返りを求めています。

仏教では慈悲を説きます。慈悲とはいつくしみの心と訳しますが、慈悲の悲は「うめく」と訳します。呻くということは苦しみを人に訴えられないほどの苦しみです。その呻くほどの苦しみを察知して、無条件で救うということです。例えば「あたかも母親が子供に対するように、無条件で苦しみを救ってあげよう」とすることです。そこには一切の見返りを求めません。これが真の奉仕の精神であり仏様のこころです。

 

       
   

● こころのはなし(第26回)2004.2.15

忍辱(にんにく)こそ最上の行
苦しさをたえ忍んでこそ
この上もなき涅槃(ねはん)なり
諸仏はかく言いたまえり
まこと 出家して
人をそこなうものなく
沙門にして
他(ひと)をなやますことなし

この言葉はお釈迦様が説かれた詩を集めた法句経(ダンマパダ)の言葉です。
「耐え忍ぶことこそ最上の行」と釈尊は説かれています。

人間というものは本当に弱いものです。苦しい時、悩んでいる時にはどうしても他を頼りとします。本当に苦しんでいる時には友人の言葉が励ましになり、一言のアドバイスのお蔭で立ち直るきっかけを着かんだりいたします。
 しかしどんな状況下にあっても最終的には耐え忍ぶ自分があってこそ、その苦しさを克服することができるのです。

昭和55年に北島三郎が歌い大ヒットした「風雪ながれ旅」(星野哲郎作詞、船村徹作曲)があります。
この歌のモデルは津軽三味線の奏者高橋竹山です。竹山は明治43年に青森県小湊の小作人の二男二次に生れました。二歳の時にはしかにかかり、その影響で半失明になってしまいます。このため苦難の道を歩むことになるのです。

半失明のために差別的に「めぐ(盲人の意味)といじめられ、小学校には二日ほど行っただけで辞め、その後は牛を散歩させたりして家の手伝いをしていました。
やがて坊様(男盲の門付け芸人)になるように勧められました。しかし竹山はこの坊様になるのを嫌いました。なぜなら坊様はさげすまれていました。それまで一緒に遊んでくれた子供も、「おめ、坊様になるんだってな」と急に態度が変わり遊んでくれません。
だが、貧しい小作の家ですから、竹山は自分の食い扶持をもたなければなりません。そして嫌がっていた坊様に14歳の時に入門し弟子になったのです。
しかし竹山は一軒一軒の門口に立ち、生きるために雪の日も、雨の日も門付けの旅は続きますが、行く先々で冷たく追い返させれ、石も投げられ、世の中の悲哀を身にしみて味わうのです。

北海道に門付けに行ったとき、何日も食べるものもなく、行き倒れになったところを朝鮮人の夫婦に助けえられ、貧しい食料からお粥を食べさせてくれました。竹山は涙を流しながらそのお粥を食べ、お礼に三味線を弾くと近所の朝鮮人が集まり、アリランを合唱しました。
竹山は後年、コンサートでは必ずアリランを弾くようになります。そのときの一杯のお粥と、朝鮮人の人情の温かさと恩を三弦に込めて表したのでしょう。

孫の哲子さんは「穏やかで、冗談の好きな面白いおじさんでした」と振り返りながら、三味線奏者として名を挙げるうちに、人間的に穏やかになっていきました」といわれています。
(産経新聞平成15年11月25日 ライバル物語より)

人間の現実の世の中は苦しみの世の中、絶対苦といって、この世に生れたら絶対に逃れられない苦があります。苦しみと意のままにならないことです。この世の中はほとんどのことが自分の思うようにならないのが現実の姿です。
釈尊は耐え忍ぶことこそ最上の行であるといわれています。

       
   

● こころのはなし(第25回)2004.2.01

お釈迦様が説かれた法句経に次の言葉があります。
誹(そし)らず害(そこな)わず
戒(いましめ)におのれをまもり
食(かて)において量(ほど)を知り
閑(しず)かなる所に坐して
しかも易(やす)きに住せざれ
と、かく 諸仏は訓(おし)えたもう

このことばは釈尊在世の時、僧団(僧伽そうぎゃ)の秩序を保つ為に説かれたものと思います。僧侶達のことを和合衆といいます。和合衆とは和らぎ合う仲間、仲良くするものの集まりといいますから僧伽においては秩序を保つ為の規範が存在いたします。
その一つの規範を示されたのがこの教えだと思います。

「誹らず、害わず」誹らずとは他人を悪ざまに言わないこと、害わないとは悪く言わないということです。
テレビのワイドショーや週刊誌を見ますと、毎回のように芸能人の醜聞(聞き苦しい評判)によって、ああでもない、こうでもないととやかく論じています。それがスキャンダラスなほど視聴者はよろこんでいます。芸能リポーターという職業が定着し、それがあたりまえになってしまいました。
芸能リポーターは、これは私の仕事だ。飯の種だと言うかも知れません。しかし、それを受け入れる社会がおかしいのです。
 私たちはことばに無神経であってはなりません。人に愛情を注ぐことができる人は、ことばを大切にいたしますし、逆に他人に対して無神経な人はことばがぞんざいです。
他人を誹るまえに、その人の長所を探し出そうではありませんか。
きっと、欠点より長所のほうが多いはずです。その人の長所を認めることが、人格を認めることになるのです。
つぎに「戒めにおのれをまもり」と説いています。戒めとは戒律を守ることです。戒律というと堅苦しく馴染みにくいものと考えます。しかし、戒律は生活のリズムです。例えば暴走しがちな車をブレーキによって制御するように、欲望によって暴走する自分を戒律というブレーキによって制御すること、これが戒律です。

次に釈尊は「食(かて)において量(ほど)を知る」とおっしゃいました。
 今日ほど食べ物の豊かな時代は過去にはなかったと思います。テレビでは連日料理番組を流し、またグルメをつい供する番組が好視聴率をとる。皆さんは「どっちの料理ショー」という番組をご覧になったことがありますか、全国各地から選りすぐった食材を集め、優秀な料理人が腕をふるい、ゲストは自分の食べたい料理を指名する。
今の日本は糖尿病の患者が増え、糖尿病予備軍は1370万人と言われています。今や痩身のために多くの人が腐心しています。
今こそ飽食を止め「食(かて)において量(ほど)を知る」生活を心がけとうではありませんか。

最後に「閑かなる所に坐して、しかも易きに住せざれ」と説かれました。自己を一度静寂の中に身を置き、正しい呼吸法により肩の力を抜いて緊張から解放しようではありませんか。
大宇宙の中の小宇宙である自分、その存在に気づき、生命の尊さを自覚するはずです。

 

       
   

● こころのはなし(第25回)2004.1.15

一月も既に15日が来てしまいました。先人曰く「人生は白駒(はっく)の隙(げき)を過ぎるが如し」といわれるように、戸の隙間から外を見ると、白馬が一瞬に通り過ぎるぐらい人生は短いというのです。
一月十五日は「小正月」です。これは旧暦の一月十五日をいいますが、元旦を大正月と呼んだのにたいする呼び名です。また元旦の大正月には門松を立てるのに対して、小正月には餅花などを飾りました。これは一年の無病息災を祈る行事だと思います。
昔は医学が発達していませんでしたから、病気は死と隣り合わせでした。ですから何を置いても無病息災であることを祈ったのです。現在でも健康である事が一番の幸福です。

現在世界の人口は2004年1月現在、約63億9300百万人といわれ、日本の人口だけでも約1億2600万人います。
この63億人の人々のほとんどが幸福なりたいという願を持っています。ことに今生きている人だけでなく、大昔から今日に至るまで皆が幸福を望んでいますから、この世の中にはもっと幸福な人がいても良いと思いますが、「私は本当に幸福です」といえる人が少ないですね。それは何故でしょうか?
 
 それは人によって幸福の捉え方が違うのではないかと思います。体の弱い人は体さえ丈夫であったら幸福だと思うでしょうし、お金に困っている人はお金さえあったら幸福だと考える人もいると思います。けれども一面お金ができたために不幸になったり、地位を得たためにかえってストレスがたまって病床に倒れた人もいます。幸福と一口に言っても、その内容は色々とあって、一様ではありません。

幸福には性格の違いがあり、程度の差があり、浅い、深いというように奥行きの差があります。ですから幸福はその内容に立ち入ると、その一人一人の気持ちの変化とをすべてあわせたほど多様だといわなければなりません。

ではその幸福とはなんでしょうか。
幸福そのものは固定した形として外部に存在しているのではなく、目には見えない心に幸福というものがあるのです。
 
亀井勝一郎の著作に「思想の花びら」があります。大和書房から1966年に出版されました。その中に幸福について次のように書かれているので紹介しましよう。

「人間は言葉によって欺(あざ)むかれやすいものだ。幸福という言葉があるおかげで、我々はどれほどの妄想にふけっているか。
仮にこの言葉がなかったら不幸だろうか。私の言いたいことは、幸不幸という観念に惑わされることなく、日々の義務を果たせということだ。一日の労苦は一日にして足れりである。その労苦の中に見出されるささやかな喜びを味わうことができれば幸である。それを味わえない人は、どんな大きな幸福をも手にすることはできないであろう」

釈尊が幸福について説かれた経典に、「大吉祥経」があります。
釈尊は幸福にたいする考えを詩によって説いておられます。その詩を少し紹介いたします。
 父と母に孝養をつくし
 妻と子を扶けやしない
 濁りなきなりわいにしたがう
 これを人間の最上の幸福となす。

広く学び、技芸を身につけるはよく
規律ある生活を習いはよく
よき言葉になじむがよい
これが人間の最上の幸福である

このほかに沢山の詩によって幸福の定義を述べておられます。
何故幸福の定義が一つではないのか、それは前にも述べたとおり、
幸福というのは固定した形をとって外に存在するのではなく、自身の心の中に存在するということです。


 

       
   

● こころのはなし(第24回)2004.1.01

皆さま明けましておめでとうございます。
皆さんにはいかがお過ごしでしょうか。今ご家族そろってお祝いをしているお家も多いことと思います。
 私は寺にいる限り夏は5時に起き、本堂で読経し、6時には鐘楼の鐘を撞きます。冬になると5時半に起床し、山門の扉を開け、鐘楼に登り6時の鐘を撞きその後本堂で読経をします。鐘の撞く回数は9つです。これは苦しみを越すといい、数字の9を苦と捉えて苦しみを離れるという願を込めます。
弘憲寺では大晦日の晩だけ一般の人に開放し、一人3回づつ撞いてもらうことにしています。最近は鐘を撞きに来る方が大変多くなり、長い行列ができるほどです。そのために鐘楼をライトアップして皆さんを迎えていまし、本堂では甘酒を接待しています。
普段お寺と縁のない人が、大晦日の夜だけでも鐘を撞くことによって寺との縁を結んでいただけることは有り難い事です。
除夜の鐘は昔から百八つ撞くのを慣わしになっています。勿論この数は煩悩の数なのです。この煩悩の百八つをグット圧縮すると煩悩の数は三つの煩悩になります。
貪り(むさぼり)瞋り(いかり)痴(おろかさ)です。この三つの煩悩は私たちの体や心の毒となるので、三毒煩悩といっています。この三毒煩悩を広げると百八つの煩悩となります。要するに三毒煩悩があとの105の煩悩を生み出す要因になっています。
痴、(おろかさ)とは真実の教えを知らない。真実の教えとは真理です。どのようにこの世界が変わろうと、絶対に変わることのない教えです。その真実の教えを知らないから直ぐに腹を立てたり、貪るという心の動くままに行動をしてしまうのです。このようでは何時までも心の安らぎを得ることが出来ません。
百八つの鐘を撞くことは、自分のこころを省みる機会を与えているのです。

 

     
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