| 心の講話 | TOP |
  数字をクリックすると、その話が見られます。
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16 その17 その18 その19 その20
その21 その22 その23 その24 その25 その26 その27 その28 その29 その30
その31 その32 その33 その34 その35 その36 その37 その38 その39 その40
その41                  
   
 

空海の伝説 41話で完結いたしました。
月々の連載を終了させていただきます。
ご愛読ありがとうございます。


空海の伝説 シリーズその41(更新10月15日)
吾れ、去んじ天長九年十一月十二日より、深く穀味をいと厭ひ、もっぱ専ら坐禅を好む。皆これ、令法久住の勝計、ならびに末世後生の弟子門徒等のためなり。まさに今、もろもろの弟子等、あきら諦かに聴き、諦かに聴け。吾れ生期、今、いくばくかならず。なん仁じら等、好く住して慎んで教法を守れ。吾れ永く山に帰らん。(御遺告)

この「御遺告」で明らかなように、この頃から空海は入定の準備をしていたと思われます。東寺で高弟達に高野山隠棲を告げて山に帰り、
だんこく断穀(米・麦・大豆・あずき小豆・胡麻の五穀と蕎麦・きび黍・ひえ稗・とうきび唐黍・あわ粟を加えた十穀を口にしないこと)を続けていました。
弟子達が心配して食事をとることを勧めたところ、空海は「命はすでに涯りあり。強いては留むべからず、ただ尽期を待たん。もし時の至るを知るを知らば必ず山に入らん」と答えてと「空海僧都伝」に伝えています。

 また、承和2年(835)1月以降は水も断っています。これらが事実とすれば、空海上人の断穀行は満2年4ヶ月(天長9年11月12日より承和2年3月21日)断水行さえ二ヶ月余りになっています。空海上人は衆生済度のための高野山に留まる決意を表しており、「御遺告」の令法久住の文と合わせて考えると、断穀断水・入定留身・令法久住は一つの決意であり、この三者に通じる前提が即身成仏の思想であったと見る事ができます。

 承和元年(834)正月、にん仁みょうてんのう明天皇の勅命により下山して、宮中で息災増益の法を修し、唐の内道場を模して宮中真言院に曼荼羅檀を設けました。このことは、金剛智・不空・恵果と伝えられてきた唐の正統密教を、わが国に根付かせるために空海の最後の念願であったと思われます。翌2年正月にはこの真言院で、国家鎮護・玉体安穏・五穀豊穣の加持(後七日みしゅほう御修法)を修して高野山に帰られました。

 1月22日に真言宗年分度者3名(一年間に三名の出家得度を国が認め官費支給)が勅許され(続日本紀)、東寺は東大寺に匹敵する大寺になりました。2月30日に空海の修禅道場であった金剛峰寺が定額寺(朝廷から勅額(天皇の直筆の額)を下賜された官寺になりました。(続日本紀)など、苦難に充ちてはいましたが、密教流布の信念を貫いた生涯に空海は満足されたのではないでしょうか。

御入定 
いよいよ後事を弟子達に託して入定のときを迎えました。断穀行に断水行も加えた空海大師は、いよいよ入定のときが追ったのを悟り、3月15日に弟子達を集めて、3月21日早朝に入滅することを告げました。ここで空海大師は真言宗門徒が守るべき25ヶ条の遺言をしました。この「御遺告」は真作ではないといわれていますが、空海大師にはもう筆をとるだけの力はなかったと思われます。空海大師が話すことを弟子が書き記したのでしょう。空海大師の密教流布・衆生済度の強い意志が表されています。
「御遺告」の第一条には
 {吾れ入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の刻(午後4時)なり。もろもろの弟子等、ヒキュウ悲泣することなかれ、もし滅すれば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾に代わってけんこ眷顧(振り返り見る)こう被ぶらしめん。吾れ生年62、臈(  )(出家してからの年)41なり。
吾れ初め思ひき、一百歳に及ぶまで世に住して教法を護りたてまつらんと。然れども、もろもろの弟子等をたの恃んで、いそぎて永くそくせ即世に擬せんとするなり。}
注釈 (私が入滅しようと定めたのは、今年の3月21日の早朝寅の刻である。もろもろの弟子達よ、悲しんで泣いてはいけない。わたしがもし入滅したのちには、金剛界胎蔵界の両部の三宝を帰依、信仰するがよい。自然に、私に代わって(仏は)目をかけてくださるだろう。私は生年62歳、法臈41年である。わたしは最初は百歳までも世にとどまって、仏の教えを護り申し上げようと考えた。しかしながら、今は諸々の弟子達に後事を託して、あわただしく永遠の寂滅に入ろうときめた。)

と、わが仏法不滅の思いを述べています。
 弟子達への最後の遺誡が終ると、空海大師は身を浄め、新しい衣を着て、手に大日如来の印を結び、口に真言を誦し、結跏趺坐して、承和2年(835)3月21日寅の刻に、春まだ浅い高野山で寿62歳をもって一代の巨星、伝燈阿闍梨空海はこの世を去りました。かねて覚悟はしていたもものの、弟子達の嘆きは限りないものでした。実慧は悲嘆に耐えないそのときの様子を、翌年5月長安の青龍寺に空海の入滅を知らせる書状に次のように書いています。

「ああ、哀しいかな、南山、白に変じ、雲樹、悲しみを含む。一人(天皇)しょうとう傷悼してちょうし弔使ちぶ馳  す。しはい四輩、嗚咽して、父母をこく哭するが如し。ああ、哀しいかな。実慧等、心は火を含むに同じく、目は彿泉の如し」
勅命によってうどねり内舎人が高野山に遣わされ、空海の喪を弔い、天皇からもりょう喪料(香典料)が布施されました。じゅんな淳和天皇は弔書を送っています。

その弔詞を見てみたいと思います。(大僧都空海伝)
「真言の偉大な師匠、密教の祖師(である空海)に、国は、その守護と祈念をたのみ、動物や植物など、大自然の生きとし生けるものはみな、師の救いの護念に、すべてをまかせている。それなのにどうしたことか、まだ太陽が沈む山{えんし? }に近づかないうちに、無常の風に急に侵されるとは。さとりの岸に渡る船が、船頭のさお棹をなくし、迷子が帰る家を失ったようなものだ。
ああ、哀しいかな、瞑想の修行道場(である高野山)がへきち僻地なので、(京には)訃報も遅れて伝わった。弔問の使者は、心せわしくかけつけたが、師の荼毘を助けることができなかった。こういって恨んでみても、悼み恨むことは、どうして消えることがあろうか。
 昔の坐禅をしていた庵に思いをはせるにつきても、悲しみに沈むのは深くはかりしれない。
今、はるかに、短い弔詞の一文をおくり、弔う。僧籍登載の高弟や、師の部屋に仕える遺弟達のいたみと悲しみは、いかばかりであろうか。法儀回向に兼ねて、わたしのこのお旨とどけるがよい」と
また、空海に深く帰依していた嵯峨天皇は、入滅を深く悼み、得道の高僧と讃えた七言十六句の御製の詩「海上人を哭す」を下賜されました。
貞観6年3月27日、清和天皇は法印大和尚位をついし追賜され、没後八十七年延喜21年東寺観賢僧都のそうじょう奏請により、10月27日に醍醐天皇は勅して「弘法大師」の諡号を下賜されました。

空海大師は若い時から弥勒信仰を持っていたといわれています。ことに空海が兜卒願生の信仰を持って入定したと考えられています。
「御遺告」に吾れ閉眼ののち、必ず兜卒陀天に生じ、弥勒菩薩の御前に侍るべし。五十六億よののち必ず慈尊の御供して下生しまい祇り候。

空海大師入滅後、兜卒天(弥勒菩薩の浄土)に生まれて一切衆生を見守り、五十六億七千万年の後に弥勒菩薩と共に下生して衆生を救うとの誓願を立てたのです。
今も生きている弘法大師
 仏教が考える宇宙・世界の中心には須弥山(sumeru・スメール)があり、その山の一角にある宮殿が兜卒天で、釈尊から衆生済度を託された弥勒菩薩が、如来となるためにりゅうげじゅ竜華樹の下で修行し、五十六億七千万年の後にこの世に下生して衆生を救ってくれると考えられていました。釈尊入滅してから弥勒菩薩出世までの間、無仏の世界になることに人々は強い恐れを抱き、地蔵菩薩をはじめとする、無仏の世界を救う仏様がさまざま考えられてきました。
空海の「御遺告」を見てもわかるように、未来出現の強い信念をもって断穀・断水行ののち入定したことが知られ、弘法大師入定処である高野山奥の院は弥勒菩薩の竜華樹下の入定にもたとえられています。
 このようなことから弘法大師は亡くなったのではなく、今も奥の院に生きつづけて、禅定に入っている(入定)とういう「入定信仰」が成立し、弘法大師を「二仏中間の大導師」と見る信仰が確立いたしました。四国八十八ヵ所遍路の「同行二人」(いつでもお大師様と一緒)の信仰もその端的な表われなのです。
そのゆえに、高野山を蓮華の華にたとえて、現世の浄土とみる「高野浄土信仰」がさかんになり、弘法大師を生きている大日如来(遍照尊)
と見て信仰されるようになりました。

弘法大師の入定信仰をうかがわせるものとして、後白河上皇(1127〜1192)撰の「梁塵秘抄」に

 「大師の住所はどこどこぞ、伝教(最澄)慈覚(円仁)は比叡の山、横河のご廟とか、智證大師(円珍)は三井寺にな、弘法大師は高野の御山にまだおわします。」

また天台宗の歌僧慈鎮(慈円)僧正(1155〜1225)の歌に、「ありがたや 高野の山のいわかげに 大師はいまだ おわしますなる」

これらの入定信仰・弥勒兜卒天信仰・高野浄土信仰が渾然一体となって大師信仰を形づくりました。平安時代中期から浄土信仰が隆盛になるにつれて大師信仰も盛んになり、大師の入定を讃えつつ念仏を唱える高野聖によって、その信仰は諸国にひろまり、人々の中に浸透し民衆化していったのです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその40(更新10月1日)
弘仁7年(816)に高野山の勅許が下り、空海は高弟の実慧と泰範を遣わして、山上に密教の眼目とする修禅観法を実践するための禅院の建立に着手します。高野山(南山・南岳)は都を遠く離れたゆうすい幽邃の地で、山林修験の私度僧(正式な出家得度をしていない僧)として、四国・近畿・の山野をばっしょう跋渉し、久修練行の日々を過した若き日の空海は、既にこの地にも足を踏み入れて知っていたのです。(性霊集補闕抄、巻九)標高千メートル近く、山上はやや開けて東西5,5キロ、南北2,2キロの平地です。周囲には八っの峰と七つの登山口(高野七口)があり、素の山容が八葉の蓮華に似ているところから(八葉の峰)と呼ばれています。
中国では修行の場所は山林が最上であるという思想があり、嵯峨天皇の上奏文にも、釈尊の霊鷲山、観音菩薩の補陀落山をあげて山岳を讃へ、高野山を修禅の場所にしたいと述べています。
 しかし、空海は国際都市長安で密教を学び灌頂を受けているのですから、都市仏教の形態を必ずしも否定する根拠は持っていなかったと思います。都市仏教は仏教興隆のためには充分にその機能を果たしていますが、修行するには都市は相応しくないと、若き日に体験した修行の正当性に自信を持ち、人跡絶えた高野山に修禅の地を求めたのです。空海は山岳の良さと都会の必要性の双方を痛感していたと思われます。
 唐からの帰途、無事に帰ることができたら密教の理想を実現し、鎮護国家・衆生済度のための禅院を建立して修行するとの誓願をたてたのです。鑑真和尚が来朝のときの幾多の苦難が象徴するように、空海の帰路も数多くの危険に危険に襲われたのは確かです。
 神仏に祈り無事に帰朝して10年、東大寺別当(弘仁元年・810)更に京都乙訓寺別当(弘仁2年・811)の官職はじめとして、幾たびか密教の修法を行い、思想的にも創造を重ねて、今まさに「早く郷国へ帰りて、以って国家に奉り、天下に流布して、
蒼生(人民)の福(さいわい)を増せ」(御請来目録)との、師である恵果和尚の遺命を果たすときがきたのです。

高野山開創にまつわる伝説として先にお話しましたが、帰途明州の浜より「我が伝えるところの秘密の法門、流布相応の地あらば
、この三鈷先に至りてこれを伝うるべし」と、密教流布の根本道場建立にふさわしい地を求めて、誓願とともに空海が投げた三鈷杵は雲の中に見えなくなりました。弘仁7年に高野山に登ったところ、唐から投げた三鈷が松の枝にかかっていたので、伽藍建立の地と定めたという「三鈷の松」の話は、「弘法大師絵詞伝」上巻に見えますし、「平家物語」「源平盛衰記」にも物語られています。

また高野の地主の神である狩場明神(高野明神)が猟師の姿で現れ、連れていた黒白二匹の犬が道案内して登山したという話。また地主神の丹生都姫の命(みこと)の宣託により高野の地が与えられ、先に会った猟師は我が子の高野明神であり、共に伽藍建立の地として守護すると語ったという話。あるいは黒犬は高野明神であり、
白犬は丹生明神であって、常に両明神守られているというお話などさまざまな形になって語られています。

これらの伝説は「金剛峰寺縁起」(10世紀末成立の書)や「弘法大師ぎょでん御伝」など、すべての伝記に載せられていますので、かなり古くから広く流布していたことがわかります。

高野山の経営に心血をそそいだ空海
人の住まない深山、しかも冬は厳寒の山上という不利な条件の中での伽藍建立は困難をきわめ、その上経済的困窮も加わって、工事の進行は遅々たるものでした。空海は何度も勧進を行い、檀越に喜捨を願い、多くの人々の力を集めて、伽藍の建立・銅鐘の鋳造にと、入滅までの高野山の経営に心血を注いでいます。(性霊集補闕抄巻九)
 実慧・泰範による「一両草庵」(現在の御影堂と二十一間僧坊と考えられています。)が完成したので、いよいよ空海は奥の院と伽藍建立の檀上の構想(高野山絵図巻・空海の真筆といわれています。)による全山開創の指揮をとるために、弘仁9年(818年)
11月に登山いたしました。

翌年10年5月に再び登山して、高野山全体の結界(地区制定)と壇上の結果を行い、諸仏諸尊を勧請して、天神地祇(すべての神々)の守護を祈念しています。(性霊集補抄)巻九、奥の院には入定処、念誦堂などを建立し、この付近を金剛界曼荼羅に、壇上は大塔(多宝塔)、影堂、明神社、僧坊、中院などを建立し、この付近を胎蔵界曼荼羅として、金胎不二の思想を表現しています。空海在世中の規模は明神社、御影堂、二十一間僧坊、金堂、大塔だと考えられています。
 この大塔は高野山の中心地にあり、南天(南インド)の鉄塔を模して建てられた多宝塔(高さ53メートル)で真言密教の教主である大日如来を象徴しています。空海御入定後に弟子のしんねん真然大徳の努力により伽藍の形態は整いました。
 高野山に開創された伽藍は金剛峰寺と名づけられました。これは「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」の経名から付けたもので、空海は「この勝地につ託いてわず聊かに伽藍を建てて、金剛峰寺と名く」(「性霊集補闕抄」巻九)と述べています。
 これでお分かりのように、空海は一つの建物をもって金剛峰寺と呼んだのではなく、高野山伽藍の総称としたのです。明治元年(1868)の神仏分離令によって秀吉建立の青巌寺と興山寺を合併して金剛峰寺とし、他の塔頭や宿坊と区別して今日に至っています。

瑜伽(yoga)とは坐禅などで瞑想をして、心身一如の境地に入ることをいい、このことからも空海は修禅の道場として高野山を開いたことがわかります。

話は少し後戻りをしますが、空海は京都東寺の経営と高野山開創に尽力いたしました。京都東寺は正確には金光明四天王教王護国寺秘密伝法院(略して教王護国寺)といいます。現在は東寺真言宗総本山です。
 桓武天皇の勅命によって延暦13年(794)11月に平安京に遷都しました。中国長安の都を模して造営された平安京の朱雀門大路南端に羅城門をはさんで東(東寺)西(西寺)に王城守護のために建立され、弘仁14年(823)嵯峨天皇の勅命により東寺に空海が、西寺に守敏が入山されました。そして真言密教の根本道場として堂宇を構築しました。天長2年講堂造営の時、寺名を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と称し、その名の示す通り、起源は官立の護国寺に仰ぎ、真言密教の道場となった寺の性格をよくあらわしています。
 空海のあとを実慧が継いで伽藍造営に力を尽くし、ついで、しんぜい真済・真雅・しゅうえい宗叡・真然・やくしん益信と歴代名僧が長者となり寺勢盛んでしたが、、保元平治の乱(1156〜1159)で荘園が没収され、経済的に困窮して堂宇は荒廃しました。
建久年間(1156〜98)に文覚が勧進となり、源頼朝の援助を受けて堂宇を修造しましたが、何度かの戦乱や土一揆による焼失をくりかえし、以後豊臣氏・徳川幕府の外護をえて復興し、再建当時の姿を今に伝えています。

このように東寺の経営、高野山の開創に力を尽くし、多くの著作を著し活躍していましたが、ついに健康を害して、天長8年(831)6月にあくそう悪瘡(悪性のできもの)を患ったので大僧都を辞したい旨上奏し(「性霊集補闕抄」巻九)日常の活動をやめる決意をしたのですが、じゅんな淳和てんのう天皇これを許さず、充分に病気療養し、密教流布のために大僧都を辞さないようにとのちょくとう勅答に、感激しておもい止まりました。

翌9年(832)9月24日、勅許により高野山で金剛界・胎蔵界両部の曼荼羅と四種曼荼羅(大曼荼羅・三昧耶曼荼羅・法曼荼羅・羯磨曼荼羅。)に万灯・万華を捧げて供養しています。この時の願文「(性霊集補闕抄巻八)の中に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願もつきなむ」と、宇宙に遍在するすべての生きもの(衆生)が成仏した時に、自分の願いも尽きるとの誓いをたて、真言の教えは不滅であることを述べています。なぜならば、虚空や衆生や涅槃が尽きることは絶対あり得ないからで、空海の「永久に仏の教えを存在させる志の表明なのです。
そして、高野山に自分の没後も法灯の絶えないことを願い、毎年一回この法会を行って四恩(父母・国王・衆生・三宝{仏法僧}に奉献するようにと記してあります。空海のこの永遠の誓願は今に受け継がれて、毎年4月21日に奥の院で光と花に満たされた万燈会(懺悔と滅罪のために1万の灯明を献ずる法会)が行われます。


 

   
 

空海の伝説 シリーズその39(更新9月15日)

 話が前後しますが、朝廷に「高野山を請う上奏文」を提出したのが弘仁7年6月19日、勅許の恩命が伝達され高野山を下賜する太政官符は7月8日に紀伊(和歌山)の国司に伝達されました。
 この太政官符を受けて国司から伊都郡、那賀郡、在田(ありた)郡にあてた国符が残っている。
空海は高野山下賜の勅許を受けた後に、紀伊の国に住んでいる有力者に手紙を送り、高野山を開くための助成を依頼しています。

この書簡のあて先である人が空海とどのような繋がりなのかははっきりしません。しかし佐伯家につながる有力者であることは間違いないことと思います。空海はこの手紙の中で初めて自分の生れに関するすることに触れています。
 
 空海は讃岐の佐伯直(さえきあたい)です。この祖先は太遣馬宿禰(たけまのすくね)で紀伊の国の祖、大名草彦(おおなぐさのひこ)のわかれで、空海はその大名草彦の末裔であると述べています。

この宛先は誰なのか、決定的な確証はないけれど紀伊国造家の紀直氏(きのあたい)なのか、それと祖先を同じくする丹生祝家(にうのはふりけ)の丹生氏(にうし)なのか推測の域を出ていません。しかし高野山の麓に現在九度山という所がありますが、そこに空海のお母さんを祀った慈尊院があります。この寺は高野山上に草庵を建てるとき、物資の供給基地の役割をになっていた政所(まんどころ)でありました。この政所の中心的な役割はたしていたのが丹生氏と考えられています。では空海が紀伊国の有力者宛の手紙を見てみたいと思います。

「昔から胡の馬は北風の吹く方に向かって故国をしのび、越(えつ)から飛来してきた鳥は南の故郷をおもって、南の方角へ突き出た枝に巣をかまえるといわれえている。西に沈んだ太陽はふたたび東の空にかえって昇り、東に行ける雲はまた西にかえって空をゆく。ものにおいてもこのようであるのに、どうして人の心にもそうした道理がないといえましょう。
 昔の人から聞き及んでいるのに、私の先祖は太遣馬宿禰(たけまのすくね)はあなたの国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の末裔であるとのこと。この故に一度お目にかかりたいものだと、かねがね思っておりました。しかし、いろいろとさしつかえができて、その心の願を果たすことかなわず、残念です。
 
このたび、教えにもとずいて修禅の一院を建立しようと思います。あなたの国の高野というところが、その教えの趣旨に最もよくかなったところでございます。だから、上奏文を草してその旨を願い出ましたところ、早速に聖帝は慈恩をたれたまい、勅許の官符を下されました。そこで、まず一、二の草庵を造るために、弟子の僧俗あい助けて、開創に力をお貸しいただければ、幸でございます。私は来年の秋には必ず参上いたします。いまだ拝謁のいとまがありませんが、なにとぞ自重自愛されますように。」
この手紙で佐伯氏の遠祖の太遣馬宿禰が紀伊の国の祖、大名草彦の末裔である事を述べて、同族の故に高野山開創の支援を請うています。
 
 弘法大師空海が勅許のあと、はじめて高野山に登られたのは、弘仁九年十一月のことです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその38(更新9月01日)

 空海は弘仁7年(816)単身山を下り、昔の記憶を辿って高野の山を訪れました。この時、高野山の守り神である狩場明神が猟師の姿を現し、黒と白の二匹の犬を遣わして空海を高野山のへと案内したのです。またこのとき高野の地主の神であります丹生明神(にぶみょうじん)が進んでその土地の喜捨をしようと申し出られたという伝説が伝わっています。

狩場明神は高野山の鎮守として高野山山麓に天野神社(あまのじんじゃ)に祭られる神です。平安の初期には一宮の丹生都比女(にふつひめ)神は式内大社、二宮は天野神社本来の地主の神であったが、空海が2神を高野山地主神に勧請して高野山上に祭りました。816年(弘仁7年)空海は大和に国宇智郡で一人の猟師に遇い、守っていた高野の地を献じて寺を造営することに協力する事とし、二匹の犬に案内させたと伝えられ、それが二宮で高野明神・狩場明神・犬飼明神とも呼ばれています。

自ら山を訪れた空海は、これこそ修行の道場としてふさわしい場所であると思い、早速朝廷に上表してお許しを得ようと心にきめたのでありました。弘法大師は弘仁7年6月19日、その所信を述べ表し、高野山の允許を朝廷に請うたのです。

高野山を請う上表文を見てみたいと思います。
「壮麗なる伽藍(がらん)や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。
これは実に、禅定の教法いいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
空海、若年のころ、好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。はるかみまするに、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。
いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂るおどろを刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
中略
さらにまた、法の興廃はすべて聖帝(みかど)のみ心にかかっております。ものの大小にかかわらず、みだりに自由とはなりません。望み乞うところは、かの高野の空地を賜わりえて、早く念願をしたきことでございます。もしかなえられれば、昼夜四時につとめて、聖帝(みかど)の慈恩にむくいたてまつります。もし
恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。
弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる

空海は修行の地高野山を賜わりたく朝廷に願い出たのです。その結果、弘仁7年7月8日早くも勅許の恩命は伝達されました。空海はとりあえず高弟の泰範・実慧(じちえ)などを高野山につかわして開創の準備に当たらせたのです。
 
なんといっても今から1000年の昔、それこそ山は高く、人の入った形跡がないところですから、登ることだけでも困難であるのに、ましてそこに寺院を建てようとするのですから、その苦労の程は想像以上だったと思われます。大木を切り倒し、雑草を払い、道を作り、やっと人の住めるような住居を造るまでには血の出るような努力とご苦労があったと思います。


 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその37(更新8月15日)

弘法大師が帰朝後にすぐに朝廷に提出した二年余にわたる留学の成果を報告書としてまとめた御請来目録を伝教大師はどのような手ずるで見る事ができたのかはわかりませんが、いち早く写し取って手元に備えたのです。伝教大師の意図するところは、弘法大師が中国からお持ち帰りになられた密教の経典類をすべて写し取りこれを比叡山の経蔵(経典類をしまう蔵)に備え付けて、教育と研究に役立たせようと考えました。

ところが弘法大師は真言密教の修学は単に経典論書を読んで理解することではなく、法に従って実修することこそ大切であると考えていました。
そのためには、法を伝える阿闍梨(師範)から真言の教えを、心から心に伝える正統な伝授でなければならないのです。それに違反することを越三昧耶(おつさんまや)といいます。
ですから真言密教の修行にとって大切なことは、師匠と弟子との直接な伝授とその実践でなければならないのです。

ところが伝教大師は自ら「越三昧耶の心を発(おこ)さず」といい、「ねじけた心で、盗みて御書を写し取る」のではないことを弁明しています。
そのような時に比叡山では紛争が起こり、僧侶間での不協和音が目立つようになりました。この紛争の原因が何であったかは不明ですが、伝教大師の最も信頼を寄せていた泰範が何らかの理由でこの争いに巻き込まれてしまいます。
 その泰範が「泰範、常に戒を破りてこころにおこない、もっぱら清浄衆をけがす」ということで自ら近江の高島に身を引いてしまいます。
その後泰範は高雄山寺に留まりましたが、最澄が中国から持ち帰った経本を泰範に貸してありましたが、その返還を最澄は求めています。そのとき泰範は既に天台宗から真言宗へと移籍し、空海の弟子になっていたと考えられます。

さて、空海はどこか静かな場所に坐禅観法のできる禅院を建てたいというのが願でした。都の近いお寺では朝廷との付き合いや、本来僧侶としての修行が出来ません。早く高雄山寺を離れ幽玄な修行に適した場所はないものかと考えていました。
そのとき思い浮かぶのは山岳修行の霊地である高野山でありました。

「空海少年の日、好んで山水を渉覧し、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること1両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野という。」

空海は大学を去り、20歳の時山岳修行のグループに入り吉野、葛城山系、更に四国石槌山までの山岳地帯を歩いています。
そのとき紀州高野の地を通り、修行の地に最適であるということをご自身の目で確かめられております。この高野の地を密教の根本道場にしようと思い立たれました。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその36(更新8月01日)

空海は十年余り京の都、高尾山寺に留まっていましたが、本来の空海の目的とは大きくかけ離れていました。都に近いということもあり人間関係も煩わしかったと思われます。特に空海は大自然と融合し、一体となって山林に修禅観法する本質を生かしきることが出来ません。なるべく早く修禅観法する道場を得て静かな環境の中に身を置きたいと考えていました。

 弘仁7年(816)6月19日空海は高野山が修行の道場として最も相応しいと考え、「高野山を請う上奏文」を朝廷に提出いたしました。この文の中ではっきりとその理由を述べています。
 
 「壮麗たる伽藍や僧坊は櫛の歯のごとくに、いたるところに並び立ち、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(註1)をなしております。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾に覚えることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定するものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法いまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものであります。いま、禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。」と書かれています。
(注1)聚 しゅう  あつまるの意
高野雑筆集「高野山を請う上奏文」

空海は深山幽谷の修行の道場を紀州(和歌山県)高野山を選びます。その理由として上記の「高野山を請う上奏文」の続きに、このように書かれてます。
「空海、少年の頃、好んで山水をわたり歩きました。吉野山より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること二日ほどのところに、高野とよばれる平原の幽地があります。はかりみまするに、紀伊の国伊都郡の南に当たります。四方の山は高く、人跡なく小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のために、下(しも)は多くの修行者のために、生い茂っている笹やぶを刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立したいと思います。」この文で見ると、空海は20歳頃、と言いますと、丁度大学を辞め山岳修行に入った頃です。奈良大安寺にあった山岳修業のグループに入り、吉野山から和歌山県を走る葛城山系、さらに四国山脈を歩き愛媛県の石鎚山までの山岳修業、そのときすでに
高野山の地に足を踏み入れていたと書いています。

最近、吉野・熊野・高野山が「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。この世界遺産に登録された記念として8月10日(火)〜9月20日(月)まで大阪市美術館(天王寺公園内)で「祈りの道」というタイトルで、吉野・熊野・高野の名宝展が開催されます。そのパンフレットに次のように紹介されています。
 
 今夏、修験道の舞台「吉野・大峯」、神仏習合の聖地「熊野三山」、そして真言密教の根本道場「高野山」の3つの霊場が、「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称でユネスコの世界遺産に登録されました。吉野から熊野に続く大峯奥駈道(おおみねおくがけどう)、熊野参詣道、高野山から奥の院にいたる高野山町石道(こうやさんちょういしどう)それぞれの霊場に付随する3つの参詣道も、世界遺産に登録されています。

今から1200年前、空海が自然との融合を目指して歩いた道が世界遺産に登録されたことは素晴らしいことです。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその35(更新7月15日)

空海は伝教大師最澄の懇請を受け入れて、胎蔵界の灌頂が弘仁3年12月14日高雄の道場で行われることになりました。弘法大師はご自身が伝えた秘法を授け、伝教大師は多くの米穀を供養し、平安の二大宗教家は相依り相扶けあって、高雄の聖域で秘密灌頂の秘法を授受したのでした。まことに仏教の快事といわなければなりません。

伝教大師は当時の仏教界の重鎮です。その伝教大師が自ら弟子となって弘法大師から秘密の灌頂を受けたということは恐らく仏教界に衝撃が走ったほどの大きな出来事であったと思います。
そして仏教界は弘法大師の位置を再認識したのではないでしょうか。また伝教大師は正しい法を求めるためであれば、後輩とも言うべき空海に低頭して真摯に教えを受けたということは、あくまで最澄が謙虚であったかがわかります。

また弘法大師も惜しみなく最澄に一命を懸け請来した経典を貸与したのです。快く他人に貸与することは容易なことではありません。特に密教は師資相承(ししそうじょう){法を師から弟子に伝えること}を尊ぶ宗旨ですから、その秘蔵の経典類を他宗の高僧と言えども貸すことはきわめて難しいことなのです。
それゆえに伝教大師最澄も辞を低くして礼を尽くしたのです。
この高雄の灌頂を契機として最澄・空海との親密度は一気に高まったのではないでしょうか。

しかし密教の奥義は経典を書写し、それを解釈するだけできわめられる訳ではありません。密教は先にも申しましたが師資相承で阿闍梨の師事を仰ぎ、密教の教えに従って実際に体験修業すべきものです。ところが空海は伝教大師最澄に度重なる経典の借用にも快く貸与していましたが、弘仁4年11月25日付けの書簡で
最澄から「理趣釈経」(りしゅしゃっきょう)の借用を依頼してきたのに対して、このときに限って拒絶をしたのです。

性霊集巻の10に「密教の奥義は、文章を得ることのみを尊しとはしない。ただ、心から心に伝えることが大切である文章は、糟粕(かす)や瓦礫(がれき)に過ぎない。もしそうした文章を得てそれのみを愛すれば、純粋な要点は失われてしまう。」と、このように痛烈に批判し最澄の申し出を拒絶しています。
空海40歳、最澄47歳のときです。
この文章を見る限り空海は激しい人のように見えるが、決してそうではありません。空海の弟子に真済(しんぜい)という方がおられます。
真済は師である空海の詩や文章を集めて編纂した「性霊集」の序文に空海の人柄を次のように書き残しています。
「鐘や笛は、それを打ち、あるいは吹く人の違いによって、大きくも、小さくも鳴るように、空海は相手の人物に従って相応じ、また新来の弟子や初対面の人であっても、十年の知巳のように親しく応接された。長年にわたって、おそば近くに仕えたが、師空海は立ち振る舞いは敬虔そのもので、決して浅はかなところがなかった」と書き記しています。
こうして空海は高雄の神護寺は10年余り留まられたのです。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその34(更新7月01日)

弘仁2年(811)11月9日空海は山城国乙訓寺現在の長岡市今里の別当に任ぜられました。
この乙訓寺は聖徳太子建立の寺で弘法大師の事跡も多く、特に毘沙門天を刻んで国家の豊楽を祈ったと伝えられています。また境内には大師ご自身が中国から持ち帰られたといわれる柑子(みかんの一種で、ややちいさなもの)を植えられ、実った柑子を朝廷に献上されました。献上した柑子とともに添えられた大師の手紙「柑子を献ずる表」が残っています。(性霊集)その一部を紹介いたしましょう。
 沙門空海、言上する。小住の山城乙訓寺に数株の柑橘(みかん)の樹がある。献上の恒例にしたがって、よい実をいろいろ撰びとってこさせた。数を申し上げれば千以上となる。その色を看ると黄金のようである。黄金は変わることのないものである。千とは千年に一人現れる聖天のことである。またこの果物はもともと西域から出たものである。ちらと見ただけでも興趣がある。そこで私のつたない詞(ことば)を添えて献上する次第である。(中略)
詩 七言
桃李(ももすもも)珍しいけれども寒さに弱く
蜜柑(みかん)は霜にあっていよいよ美しいのに及ばない
星や玉に似て、そのもちまえは黄金である
そのかぐわしい味は供物の籠いっぱいに充ちる
このようなたとえようもない珍味はいずこよりもたらされたものか
きっと天女・西王母の故(もと)であろう
千年に一度聖人が世に出ることを表し
この木にのぼって実を摘り、わが聖上陛下に献上する
小さな蜜柑を小箱に六つ
大きな蜜柑を小箱に四つ
以上、乙訓寺からとれたものを恒例にしたがって献上し奉る。云々と書かれています。
この詩は、いったん高雄山寺に入った空海が、なぜ乙訓寺に入ったかについては色々な説がありますが、やはり高雄山寺は京都洛北で何かと不便であったと思われ、特に宮廷との往復に乙訓寺は便利だと思われます。空海は約一年あまり乙訓寺におられました。
 この乙訓寺に伝教大師最澄が訪れ、空海上人に真言密教の経典の借用を申し出たのです。シリーズ26ですでに最澄が帰国の途中、中国越州の泰巌霊厳寺順曉阿闍梨と出会い、密教の灌頂を受け、百二部百十五巻の経典などを手に入れています。
 しかし、最澄の伝授された密教は正統の密教ではなく、また最澄の学んだ密教は大日経系の密教だけではなかったかと思われます。ですから空海が帰朝後、御請来目録を朝廷に提出しましたが、いち早くこの目録を見ることができる立場の方は伝教大師最澄その人であったのではないでしょうか。
 最澄は御請来目録を見たとき、ご自身が学んできた密教が全てではないことを認識されたと思うのです。
そこでご自身の足らない部分を補うために、空海に経典の借用を願い出たのです。
 この密教経典の借用を受けることは、子弟の礼を尽くし、まず灌頂を受けなければなりません。その灌頂の儀式が京都高雄山寺(神護寺)でおこなわれました。この灌頂に入られた僧侶方の名前を空海が書き記した「灌頂暦名」が現存しています。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその33(更新6月15日)

嵯峨天皇が空海をご親任されたように、平城天皇(へいぜいてんのう)もまた空海に帰依されました。
 平城天皇は桓武天皇の死去のあとお受けて即位いたしました。しかし、大同4年4月に病気のため位を弟の嵯峨天皇に譲り上皇となります。ところが平城天皇が寵愛した藤原薬子(くすこ)・その兄である藤原仲成(ふじわらなかなり)は、いったん位を退いた平城上皇が再び位につくように企て、上皇は旧都平城京に宮殿を建て、政務を握ろうとして嵯峨天皇と対立します。弘仁元年9月に兵を挙げるのですが成功せず剃髪。天長元年7月7日51歳で崩御されます。
 
しかし、平城天皇は空海に対して深く帰依されておられました、平城天皇自ら灌頂(法を授ける儀式)の弟子となって、弘仁13年2月に東大寺灌頂院において空海から金剛界の灌頂を授かるのです。
 天皇が灌頂を受けられたのは日本においてはこれが最初で、その子高岳親王(たかおかしんのう)も出家して真如と名を改め、空海の弟子になられたのです。

さて、平安時代の仏教界には二人の傑出した方がおられます。お一人は天台宗の伝教大師最澄であり、もう一人は弘法大師空海であります。最澄は比叡山にあって天台の教えを広め、弘法大師空海は高雄山、東寺、高野山を拠点として真言の教えを広めていったのです。

先にもお話しましたが、空海と、最澄は時を同じくして入唐するのでありますが、遣唐使船では最澄と空海はまず顔を合わすことはなかったと思います。
しかし、最澄と空海は後に劇的な出会いをするのです。
最澄は中国の天台山で天台教学を学び、日本に帰る途中に越州で立ち寄った龍興寺で密教の一部分を授法するのです。それは空海が授法した正統の密教ではなかったのです。しかし最澄は密教の経典など115巻を入手していますが、それだけでは充分でないことを最澄ご自身は承知していたのではないでしょうか。
最澄は空海が朝廷に提出した御請来目録をいち早くご覧になり、ご自身が学んだ密教だけでは真の密教を理解することが出来ないことを覚られたと思います。

そこで充分でない密教の教えを空海について一層深めようと決心され、自ら頭を低くして空海に密教経典の拝借を願ったのです。そのために最澄は高雄山に上り、空海より密教の灌頂を受けたのです。こうして最澄とく空海の交わりはしだいに深められていきました。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその32(更新6月01日)

書によって嵯峨天皇の空海への信任は一層深められました。そして空海は鎮護国家を旗標(はたじるし)として掲げ、平城(へいぜい)嵯峨、淳和、仁明の四朝につかえ、秘密の壇を築いて国家の安泰を祈ること、五十一度に及んだといわれています。特に弘仁元年十月のこと、大師の上奏文には「私は入唐して恵果和尚に師事し、いろいろ尊い秘法並びに仁王経の大法を伝授されました。これというのはみな、国を護り、家を護り、己を安んじ、他を安んぜんがためです」とあり、空海は国の平和と人々の幸せを願い行動を起こされたのです。
また空海は嵯峨天皇に信任を受けたのは嵯峨天皇が病にかかり、その病気が思わしくなかったことから、高雄山寺で護摩を修法して天皇の病気平癒を祈りました。
性霊集に「弘仁天皇の語厄(ぎょやく)を祈誓(きせい)する表」に次のようにあります。弘仁天皇とは嵯峨天皇のことを指します。
「沙門空海、つつしんで申し上げます。おそれおおくも天皇にはご病気とうけたまわりました。身も心もあっけにとられて我を忘れてしまいました。すぐさま多くの弟子の僧たちとともに、密教の法則に従って七日間日夜と期限を定め、さる八日から今朝に至るまでご祈祷を続け、七日間がまさに終ろうとしております。この間真言を受持読誦する声は絶えることなく、護摩を焚く火の煙は昼となく夜となく続きました。
こうして神仏に守護を仰ぎ、玉体の御病気平癒をお祈りいたしました。しかるに、いまだ御平癒に至らず、われの丹誠、なお仏天にとどかぬにやと自らを責め、肝も爛(ただれる)れる思いでございます。
伏してお願いいたします。なにとぞわれらの微衷を察したまわらんことを。ここに謹んで神水一瓶(しんすいいちびょう)を加持祈念いたしましたので、弟子の沙弥真朗(しゃみしんろう)なるものに持たせて進上いたします。なにとぞお薬(薬石)とともにお召し上がりいただき、一日も早くご病気を取り除かれますようお祈りいたします。沙門空海、心より恐れかしこみ、謹んで申し上げる次第でございます。
弘仁七年十月十四日  沙門空海、表をたてまつる

以上が空海が病気のため伏せている嵯峨天皇に当てた手紙です。この文中注目するところは、神水一瓶を加持祈念いたしましたのでというところです。空海は護摩を焚き、加持した神水を嵯峨天皇におとどけし、さらにお薬とともにお召し上がりいただきというところです。この文の中でお薬(薬石)とは漢方薬です。薬石とは薬剤のことで、空海は唐に渡り漢方薬の知識をも持ち替えたということが分かります。
嵯峨天皇のご病気は薬石効あり十一月に全快しています。(類聚国志)これによって嵯峨天皇と空海はいよいよ結び付きが強くなるのです。
(註)
○誦持読誦とは真言を受持読誦する声
○護摩とはホーマ(homa)の音写炉をつくり、火を燃やし、供物を焼いて本尊に供養し、煩悩を焼いて障災を息滅させる法のこと。
○神水一瓶とはひと瓶の加持祈祷したお水。
○ 弘仁七年は816年
類聚国史とは編年体(年月の順を追って事実を記すもの)の歴史書である六国史の記事を、検索の便を計るために、内容によって分類・編集した書物。編者は菅原道真

   
       
 

空海の伝説 シリーズその31(更新5月15日)

前回は空海と嵯峨天皇の関係について述べました.
二人の結び付きは、特に書を通じては深まっていったと思われます。空海は五筆和尚という名筆家としての称号をお持ちになっております。このことは仁寿3年(853)に九州の博多から入唐した円珍が福州に行った時の話です。
 
円珍は勅諡号(ちょくしごう)を智證大師といい、讃岐(現香川県)善通寺近くの金蔵の人です。空海の甥にあたり、8歳で因果経を誦し、10歳で毛詩や論語、漢書、文選を読んだといわれています。
 14歳で京都に上り、15歳で比叡山延暦寺座主義真に師事しました。仁寿元年に入唐の勅許を得て、853年福州に上陸いたしました。ここで開元寺に約一ヶ月滞在して梵字を学び、さらに長安に行き青龍寺法全(はっせん)について伝法灌頂を受けて、天安2年に長崎県松浦に帰着いたしました。そして868年延暦寺座主についた人です。
空海が難波の港から入唐を目指したのが804年ですから、円珍が福州に到着したのが空海入唐から50年が経っていたことになります。50年前空海は福州開元寺を訪れています。

円珍が開元寺についたときに、開元寺の住寺である恵潅は次のように申されされました。「五筆和尚は在(いま)すや無(いな)や」と、五筆和尚はご存命でしょうかと尋ねられたのです。
空海は福州に留まったのはわずかな間であったと思われます。それが50年も過ぎてもまだ空海のことが伝えられていることにただ驚くばかりです。
五筆和尚の五筆とは書の五体である篆(てん)、隷(れい)、楷(かい)、行(ぎょう)草(そう)を指します。ですから書全般にわたって巧みであったことを意味いたします。
「空海は筆を選ばず」という言葉があります。このことはどういうことかと言いますと、空海は筆を選ばなくても何でも書けてしまうということでしょうが、逆に空海ほど筆に気を使われた人は少ないと思います。
それを証明するかのように、空海は「筆を奉献する表」(性霊集)を書いて嵯峨天皇に狸毛(たたげと読む)の筆四本、真書用の筆一本、行書用筆一本、草書用筆一本、写経用の筆一本を嵯峨天皇に献上しています。空海はこのとき筆職人の坂名井清川(さかないのきよかわ)に作らせていることが文中に見えます。この筆の製法は空海ご自身が坂名井清川に教えて作らせていることに注目すべきです。
それによると「穂に用いる毛の撰び方、紙に巻いて筆の穂を調え方、穂に墨をしませて穂を固くしてしまっておく方法など、すべてみな坂名井清川に伝授しおわっている」とあります。
さらに文は続けて「わたし、空海は、これらの新作の筆を自分のこころみに使ってみたところ、唐家のものにおさおさ劣らないものである」と記しているところをみると献上の筆の出来栄えは相当のものであったと推測できます。
また「春宮に筆を進むる啓」、春宮とは皇太子に筆を献ずる敬白文ということです。
この中に、「良い工人は利(き)れる刀をもちい、能書家は必ず良筆を用いる。(中略)その書く字に応じて用いる筆も変わる。文字には篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、八分の書など、書体に区別があり、また、真書(楷書)、行書、草書などの様式がある。これらの実際の書法はそれぞれ規則が異なり、文字の大小もさまざまである。そのときどういうものを書くか、どういう書法をもちいるかによって、書体、法規もさまざまである。いま急に、その筆のすべてを製造することは不可能である。心からお願い申し上げることは、ご入用の物のみ奉納したことをご諒察ください」とありますように、能筆家ほど筆を選ぶのです。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその30(更新5月01日)

空海が和泉国槙尾山の大師のもとに入京せよという勅許がくだりました。空海は京都高雄山寺に移り住みました。高雄山寺に主殿寮(とのものつかさ)の次官である布施海(ふせあま)がこられました。布施海は呉(くれ)国産の五色の綾錦(やにしき)のきれで表装された五尺の屏風四帖を持参されました。
 嵯峨天皇の仰せを受けて空海に古今の詩人の秀句を屏風に書くようにというご下命を受けたのです。
 そこで空海はこのご下命に対して
屏風に書をしたため、上奏文を添えて奉進しています。その上奏文が高野雑筆集に収められています。その上奏文をみて見たいと思います。

初めに空海は嵯峨天皇のご下命を驚き、「この空海はもとより修禅観法(密教の坐禅、瞑想)にのみふけり、久しく書の道から遠のいています。日夜、心を仏に寄せて修行をいたす身には、書にいそしむ暇(いとま)も、またその才能もございません。この私はかの書の達人、曹喜(そうき)の才など微塵もないのに、あやまって聖帝(みかど)のご下命を受けようとは。辞退しようにも許されないこととて、あえて筆をとりました」と前置きし、次に書についての論理を説いていきます。例えば次のようです。

 古人の「筆勢論」には、「書の極意は心を万物にそそぎ、心の発揚にまかせて万物の形象を字勢にこめることにある」としるされています。ただ字画が正しく美しいというだけでは、立派な書ということにはなりません」云々と書かれています。
 
さらに、「この空海は在唐のおり、たまたま解書の先生に遇い、ほぼ書の要諦を聞きえたとはいえ、しかし入唐の目的は仏道を求めることにあったがために、深く書の道に留意することもありませんでした。いま、にわかに聖帝(みかど)ご下命をうけ、あたかも春雷とどろきにうたれて地中の虫がはいでるように、心中にひそめる筆法を想いおこしたことでございます。」と謙遜をしておられます。
ここでさらに恐縮して「空海はただわずかにその要諦を聞きかじっただけのこと、心底、書に道をきわめたわけでもございません。ただ空しく筆墨をそこない、勿体なくも貴重な屏風を汚すのみでございます」と述べておられます。

嵯峨天皇はすでに空海が能筆であるのを充分承知されておられましたから、それを知って次官である布施海(ふせのあま)に屏風を託されたと思います。

このような事があり、さらに空海は嵯峨天皇のご病気の時に、護摩法を修し、息災の法を修行して加持された神水を、弟子の沙彌真郎にもたせて内裏に届けさせていますから、ますます空海
は嵯峨天皇との結び付きを深めていくのです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその29(更新4月15日)

時は平城天皇(へいぜいてんのう)の御世、九州筑紫におられた空海のもとに「請来せる経論、章疏を随身して、すみやかに上京せよ」という命令が届いたのは大同2年(807)ころでありました。空海は急いで旅装を整え、京都に赴いた空海に、直ちに参内が許されました。空海は恭しく平城天皇の御前に進み出て、真言密教の教えを日本全国に広めることの勅許を賜わりました。
このときの空海の喜びはいかばかりであったことでしょう。

この勅許を蒙っての後、大同2年11月8日、空海はいよいよ真言密教の教えを広める第一声を大和の国(奈良県)久米寺で「大日経」の教えを講義したのです。
空海の講義は従来の仏教の教えと異なり、この身このままで仏と同じ宗教的人格を備えることができるという教えです。この教えは当時の宗教界に衝撃を与えました。なぜなら従来に奈良の各宗派の教えは生まれ変わり、死に変るという長い時間をかけなければ仏になれないという教えでしたから空海の教えは既成宗教では考えられない教えでした。

久米寺の講演が終わった後、空海は和泉国槙尾山に隠棲したのです。ここで専ら修行の毎日に明け暮れました。

 大同4年(809)4月13日、嵯峨天皇が即位いたしました。
そして平城天皇(へいぜいてんのう)の皇子、高丘親王が皇太子となりました。
 嵯峨天皇は、桓武天皇と皇后である藤原乙牟漏(ふじはらのおとむろ)との間に延暦5年(786)9月7日に生れました。
 弘仁元年(810)に「薬子(くすこ)の変」があり、弘仁、天長、承和の約30年間、嵯峨天皇の権威と指導のもとに太平な時代が続きました。

特に空海・小野岑守(おののみねもり)・小野篁(おののたかむら)・良岑安世(よしみねのやすよ)らの人材が輩出し、宮廷儀礼と詩文などの文化が栄えた。これを弘仁文化といいます。特に詩文の粋を集めた「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」などがあります。(歴代天皇年号辞典 米田雄介編 吉川弘文館)

ここで注目したいのは嵯峨天皇は詩文に長けていたということと、空海・橘勢逸・嵯峨天皇は書道の三筆と称されています。空海は帰朝後、九州大宰府に留まって唐から持ち帰った経典、曼荼羅、その他もろもろの品々をリストアップした「請来目録」を空海は高階遠成にたくして朝廷に提出いたしました。
その時の皇太子安殿親王(あてのしんのう)が即位し、平城天皇となりました。このときに請来目録が朝廷に提出されたのはこの頃でありますが、次の嵯峨天皇もこの請来目録ご覧になっておられ、空海の評判も聞き知っていたと思われます。特に空海は能筆家として、また詩文をよくしたことで、嵯峨天皇は空海とのパイプを持っておきたいと考えたのは当然のことだとおもいます。

嵯峨天皇の弘仁元年十月、空海は「国家のおん為に修法せんと請ふ表」を奉呈し、国家の安寧と陛下のみこころを安じ奉るための修法を高雄山寺で行っています。これによって空海は嵯峨天皇の信頼を得て、また詩作や書道を共として深い親交で結ばれていきました。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその28(更新4月01日)

無事なつかしの祖国日本に帰ったのは大同元年十月のことでありました。これは朝廷に提出した中国から持ち帰った品々をリストアップした「請来目録」の日付が大同元年十月二十二日とありますから、その少し前に判官高階遠成らとともに九州築紫の大宰府に到着したものと考えられます。しかし空海がいつ帰国したのかは定かではありません。思えば空海が九州長崎県松浦郡田ノ浦を出航した延暦二十三年7月から帰国まで丁度二年二ヶ月の歳月が流れています。

 空海は十月二十二日には、高階遠成にたくして唐から持ち帰った新訳の経典など二百十六部、四百六十一巻、金剛界、胎蔵界の大曼荼羅など十鋪(じゅっほ)、仏菩薩金剛天の像、法具などを「新請来の経等の目録を上(たてまつ)る表」という上奏文と目録をそえ二年二ヶ月の留学の成果を朝廷に報告をしたのです。

この請来目録の上奏文のなかで空海は次のように述べています。

「陛下が海内(国内)の人々を慈育されるので、両部曼荼羅の仏像が海渡ってきました。あたかもこれは符節合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどのようにして予測することができましょう。
 空海、二十ヵ年を期した予定を欠く罪は、死して余りありますが、ひそかに喜んでいますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。
ひとたびはおそれ、ひとたびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上大宰の大監高階真人遠成(だいじょうたかしなまひととうなり)に付けてこの表を奉ります。」

空海が帰国した頃、桓武天皇が大同元年(806)五月十八日に七十歳で崩御され、その後をうけて平城(へいぜい)天皇が即位いたします。ちょうど空海が帰国したとき新しく平城天皇が即位したときであり、それにあわせるかのように空海は密教を請来したのです。

空海が持ち帰った経典類はすでに日本に伝来されている経典論疏は省かれていて、重複するのはわずかに4部だけであるということです。これは驚くべきことで日本にすでにある経典類の存在をすべて熟知していなければ到底できるものではなく、その緻密な計画と頭脳にはただ驚嘆するばかりです。

さて、高階遠成は大同元年十二月十三日都に入り政務に戻るが、空海はそのまま大宰府観自在寺に留まるのです。これは空海には上京の勅許がおりなかったと思われますが、二年以上をこの大宰府で過ごすうちに、密教の体系を思索し、唐から持ち帰った経典類の整理、解釈などに打ち込んだと思われます。しかしこの大宰府に留まっている間の空海の資料は何もありません。
ただし大宰府の次官田の少弐(でんのしょうに)の亡母のために法華経や般若心経を写経して供養の法会を営んでいます。
その後、大同四年四月、平城天皇は病気のため嵯峨天皇が即位します。この嵯峨天皇即位によって空海はいよいよ活躍の時がくるのです。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその27(更新3月15日)

唐の元和元年(806)、日本の年代で大同元年8月に空海は遣唐判官である高階真人遠成(たかしなのまひととうなり)や橘 逸勢(たちばなのはやなり)とともに現在の浙江省の港から帰国の途につくことになりました。空海が浙江省のどの港から出航したかはわかりません。現在の上海近くであったかもしれません。また日本のどの港についたかも定かではありません。

ここに帰国の時の話しとして飛行(ひぎょう)三鈷(さんこ)が伝えられています。
現在和歌山県高野山に大師教会という建物があります。その講堂に弘法大師の生涯を十六枚の絵であらわした絵伝が掲げてあります。正確には弘法大師行状図絵といいます。その中に「御帰朝(ごきちょう)と飛行(ひぎょう)三鈷」の伝説があります。

 恵果和尚(けいかかしょう)について、真言密教の教法(みおしえ)をあますところなく受けついだお大師様は、大同元年(806)年八月、明州から日本に帰ることになりました。
 お大師様は明州の浜に立たれ、「私が受けついだ、教法(みおしえ)を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げ上げました。三鈷は五色の雲に乗って、日本に向かって飛んでいきました。
 この三鈷が、高野山の御影堂(みえどう)の松の枝に留まっていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、このときの三鈷を「飛行の三鈷(ひぎょうのさんこ)と表しています。

このように弘法大師の行跡を伝えています。今でも御影堂の前に実生の松があります。この松の葉は三枚の葉を持っている大変珍しいものです。空海20歳の頃好んで山野を跋渉していましたから、吉野山さらに葛城山や四国の山々を歩かれていますので、その時すでに高野山を発見されていたと思われます。ですからこの「飛行三鈷」のお話しは後に書かれたものと思われます

さて、空海は帰国するとき、その様子を次のように述べています。
 「空海、大唐より還えるとき数々漂蕩(漂流)に遭(お)うていささか一つの小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し衆生を済(すく)わんがために、一の禅院を建立し、法によって修行せん。願わくば善神護念し、早く本岸に達せしめよ。」

やはり帰国にあたって障害になるのが遣唐使船による帰国です。唐土に渡るとき、日本を出てすぐに台風に遇い、長渓県赤岸鎮まで漂流し、苦しかったそのときのことが鮮明に思い出されたのではないでしょうか。しかし外の手立てはありません。空海はじめ遣唐使船に乗っている者はただ神仏に祈る方法しかなかったと思います。

空海も一心に神仏の加護を祈っています。それが上記の文で「高野雑筆集」に残っています。やはり船出してからすぐに海は荒れました。そして無事に帰国できたときには国を護り人々を済うために一つのお寺を建て、法によって修行いたします。願わくは善神は空海を護り、無事に日本に到着させてくださいと祈っています。この神仏との約束が後の高野山開創へとつながるのです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその26(更新3月01日)

高階遠成(たかしなとうなり)に申請した帰国願は許可され、空海は帰国までの残された時間を経典の収集や各方面の挨拶回りに終われたことと思います。
いよいよ多くの友人との別れの時がまいりました。空海はもう二度と来ることがないであろう長安の町を振り返り、別れを惜しみながら帰国の途につきました。それは元和元年の春、黄砂でかすむ頃でありました。

先に帰国した藤原大使が長安から越州まで約一ヵ月半かかりましたので、ほぼ同じぐらいで越州に到着したものと思われます。

越州に到着した空海は早速に越州の節度使に書状を送り、長安で手に入れることが出来なかった経典などを求めています。
この書状に空海は次のように書いています。

「私は長安城の中にあって写し終えることができた経・論・疏など合計三百余軸と大悲胎蔵と金剛界などの二大曼荼羅の尊容を精根をつくして、財力をからしておいもとめて描きうつしました。
しかし生来、人間は劣り、しかも教えは広く、描くことができたのはほんのわずかにしかならない。僧である私のわずかな財力は尽き果てて、もう人を雇うことはできない。このため私ひとり寝食を忘れて書き写すのに努力しました。しかし車馬のように月日はめぐり行き、たちまちのうちに出発の期日は来てしまいました。(中略)
仏の遺命である仏法が栄えるために、この遠路の旅をしてきたことをあわれみになり、儒教・仏教・道教の三つの教えのうち、経、律・論・疏・伝記から詩・賦・碑・銘・卜占・医学の書物、さらにインドの五つの学問である五明に収められている教えのうちで、それにより人々の知識を開発し、人をすくうことのできるものを多少にかかわらず、遠方である日本に伝えたい。」
このように懇願しています。

空海が越州に到着したちょうど一年前、最澄は天台山での学問修得を終え、帰国前に立ち寄った越州で、たまたま当地に来ていた泰嶽霊巌寺(れいがんじ)の順曉阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)
と出会いました。最澄は密教の灌頂を受け、密教の一部を学び、そして百二十部百十巻の経典を得るのです。
ところが最澄が学んで密教は、中国の善無畏三蔵から新羅の僧である義林、霊巌寺順曉と受け継がれたもので、空海が学んだ正統密教ではなかったのです。
また最澄は中国語ができなかったためにこの密教を充分に消化しきれないものがあったと思われます。

空海は最澄が越州で密教を学んだという情報を聞き及んだと思いますが、最澄の学んだものは、密教の一流派に過ぎないことを
見抜いていたと思われます。ですから帰朝後、最澄が低頭して空海に密教経典の貸与を申し出るのですが、何度かのやり取りの中で、考え方の違いがはっきりしてお互い離れていってしまうことになるのです。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその25(更新2月15日)

空海は判官高階遠成(たかしなの とうなり)に帰国の申請をしましたが、もう一人帰国を申請した人がいます。その人は橘逸勢(たちばにの はやなり)です。逸勢は嵯峨天皇、弘法大師とあらんで三筆とよばれた人物です。ところが三筆の一人でありながら、帰国の申請書である
「橘学生の為に本国の使いに与うる啓」を空海が代筆をしているのです。

この代筆は、文章力に優れ恵果和尚の碑文の作成や、長安の詩人達の交流によって広く長安にその才能が知れ渡っている空海に橘逸勢自身が頼んだと思われます。ここで橘逸勢の申請書を見てみましょう。逸勢が二年半の長安での生活が見えてまいります。

「留学生逸勢が申し上げます。私は長安で勉強する覚悟で入唐してまいりました。しかし今なお唐語ができないため、大学に入学することもできません。そして書道と音楽を習うちに留学の費用を使い果たし、僅かに唐国から支給されている衣食には不足はありませんが、とても先生の月謝や本代にも及びません。国の命令を守って二十年の留学生活を送ることは思いも及びません。
 たとえ一芸でも研究したことは母国の役に立つと考えまますので、帰国をお許しください」(性霊集巻5)との内容です。
これを見るとこの時には留学生の年限は二十年と定まっていたと思われます。

空海はこの二十年の留学をわずか二年あまりで帰国するということは、国の規則を破ることです。当然空海にも朝廷から留学生としての幾ばくかの費用が出ていたと思われます。
要するに残任期間の18年の滞在費を経典の収集や仏画の作成、更には経典を書写してもらう写経生にも支払わなければなりませんから、国から支給された費用を全部つぎ込んでしまわれたと思います。それだけを考えても空海自身が言われているように、「闕期(けつご)の罪死して余りあり」闕期とは過ちということですから、この罪は死罪に値するような罪であるといわれています。

しかしそれは恵果和上の最後の言葉である「早く東国(日本)に帰り真言密教を弘め、国民の幸の為に努力せよというお言葉が帰国することを決定づけたのではないでしょうか。

さて、空海は橘逸勢の生活を見てこの帰国を逃すと、二度と帰ることは出来なくなるかも知れないことを理解していたと思われます。ですから空海は自分の申請と同時に、代筆までして提出したと思われます。
こうして空海、橘逸勢の二人には、元和元年一月帰国の許可が下りたのです。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその24(更新2月01日)

恵果和尚(けいかかしょう)と空海の出会いは因縁浅からぬものがあります。偉人にはいろいろなエピソードがありますが、、この出会いはまさに不可思議と言うほかはありません。

それは恵果和尚が夢うつつの中で、弟子空海に次のように告げられました。

「おまえはまだ私との前世からの深い契りで結ばれていたことを知らない。いままで何度も生まれ変わりしている中で、お互いに誓い合って密教の教えを弘演(広める)しようとしたではないか、二人がかわるがわるに師となったことは、一度や二度ではない。だからこそ、おまえは遠くからここの来るように勧めて、私の深い仏法を授けたのだ。受法はここに終って、私の願いも満たされた。おまえは西方のこの地で私に師事した。
私は東方の国に生れて、おまえの弟子となり、教えの奥義を学ぼう。ここに長く留まることはない。私はおまえより先に行くぞ」と、この言葉は大唐神都青龍寺故三朝の国師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」(だいとうじんとしょうりゅうじ、こ、さんちょうのかんじょうのあじゃり、けいかかしょうのひ)の詩文です。

永遠の別れをつげた恵果和尚は、元和元年(806)1月17日、二千余の弟子や長安の人々が見送るなか、長安の東、龍原にある不空三蔵の塔の傍に葬られました。

その頃、遣唐使の藤原大使は朝廷に参上し、帰国の報告と、唐国からの答礼の品を献上している頃、暑い日ざしを受けながら一艘の船が、肥前の国(長崎県)松浦の港から唐土をめざして、艫綱を解こうとしていました。
この船は遣唐大使藤原葛麻呂一行が、松浦港から出帆した四隻のうちの第三船です。この船は松浦港を出た後、暴風のため他の船と離れ、九死に一生を得て孤島に漂着し、船は一部破損してしまいましたが後にこの船は修復され、三棟今嗣は責任放棄のために処罰され、かわって遣唐判官に高階真人(たかしなのまひと)が任命されたのです。

この高階真人に任務は、藤原大使が役目を果たして帰国し、朝廷に帰国の報告により、徳宗(とくそう)皇帝の崩御にともない新しい皇帝に即位する順宗(じゅんそう)への即位の礼を尽くす為でありました。
ところが長安では永貞元年(805)八月には、順宗皇帝は病気のため皇位を譲り、翌年の正月には順宗は崩御されていて、憲宗皇帝にかわっていたのです。しかし高階真人は憲宗に拝謁し、入唐の役目を果たしています。

この時、空海はいち早く遣唐大使高階真人が長安へ到着したことの情報をいち早く察知し、「本国の使に与(あた)えて共に帰らんことを請う啓」という帰国の申請書というべき手紙を判官高階真人に提出するのです。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその23(更新1月15日)

恵果阿闍梨は、密教の奥義を瓶水の水を一滴もこぼすことなく外の瓶に移すように、六月十三日には胎蔵界の灌頂が授け、さらに七月には金剛界の灌頂、さらに八月十日には阿闍梨位の伝法灌頂を授けて、ここにおいて空海は密教の正統の伝承者になられたのです。

空海のご寶号を「南無大師遍照金剛」とお唱えいたしますが、この「遍照金剛」は空海の灌頂(法を伝える儀式)の時に授けられたお名前なのです。これを灌頂名と申します。
この伝法灌頂というのは密教における最高の儀式で、学徳をそなえ、真に密教を伝える人材でないと決して授けないものです。

そのころ恵果阿闍梨の弟子は千人を越えていたといわれます。そのうちで伝法灌頂を受けたのはわずか6人でありました。しかもこのうち金剛・胎蔵とも授かったのは、中国人の義明と空海の二人しかいなかったのです。
しかし、義明は早く世を去りましたから、密教の正統者は空海だけになったのです。

密教は七人の祖師によってインド、中国、と伝えられました。その七人の祖師は、大日如来―金剛薩?―龍猛(りゅうみょう)―龍智―金剛智―不空―恵果と法脈は伝わり、ついに日本の空海によって伝えられたのです。

恵果阿闍梨は空海と出会い、六ヶ月ですべてのものを伝えました。恵果は全身の力を傾注し、赤々と燃えた炎がまさに燃え尽きるように恵果阿闍梨の命はまさに尽きようとしていたのです。

あらかじめ入滅の近いことを知った恵果は蘭湯に身を清め、清らかな衣に改めて枕辺に空海を呼び最後の訓誡(くんかい)を与えました。
「今すなわち、法のあるとし、有るを授く。経像も功(つとめ)おわんぬ。早く郷国に帰り、もって国家に奉じ、天下に流布して蒼生(すべてのひと)の福(さいわい)を増せ。しからばすなわち四海泰(やす)く、万人楽しまん。
すなわち、仏恩を報じ、師徳を報じ、国のためには忠、家においては孝ならん。義明供奉(ぎみょう、ぐぶ){中国人の恵果の弟子}は、この処(中国)にして伝えん。汝はそれ行きて、これを東国に伝えよ。努力(つとめ)よ、努力よ。」

この最後の訓誡の中で、恵果阿闍梨は「蒼生の福を増せ」といわれています。帰国ご空海が満濃池を修築し、また綜芸種智院を建て、福祉活動を展開されたのはひとえに恵果阿闍梨の訓誡の言葉を忠実に実践していったのです。

そして恵果阿闍梨は永貞元年(805)十二月十五日、六十歳をもって青龍寺で入寂されました。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその22(更新1月01日)

恵果和尚は、よき弟子を得た喜びを胸に秘めながら、自身の命の足らぬことを実感され、急ぎ密教の法を空海に伝えることを願ったのです。

6月13日には胎蔵界の灌頂を授けられました。恵果和尚は空海を一目見られた時からその才能を見抜き、空海は会いがたき密教の教えに会い、いまここに砂漠の砂が一瞬にして水を吸収するように、空海は恵果の教えを自分のものとしていったのです。
空海は灌頂壇に入り、法によって花をマンダラの上に投げると、不思議にも中央の大日如来の上に落ちます。このことを空海は次のように述べています。

「六月上旬に学法灌頂壇に入る。この日、大悲胎蔵大曼荼羅(たいひたいぞうまんだら)に臨んで、法によって花を投げうつに、偶然にして中台の毘盧遮那(大日如来)の身上に着く。
阿闍梨、讃してのたまわく、不可思議、不可思議なりと。再三、讃歎す。すなわち五部灌頂を沐して、三密加持を受く。 
 これより以後、胎蔵の梵字の儀軌を受け、諸尊の瑜伽観智を学ぶ。」

上記を簡単に解釈すると、
「六月上旬に授けられたのは「大日経」に説かれた大悲胎蔵(たいひたいぞう)マンダラの灌頂である。密教を伝えた今までの7人の祖師によって正しく受け継がれてきた密教の真髄を、目を開いていると間違った認識をするので、目隠しをして、壇の上に敷かれた胎蔵マンダラの上に花を落とすと、中央に描かれている大日如来の上に落ちた。これは深い大日如来と縁を結んだということで、自身の守り本尊となったのです。
恵果阿闍梨はこれを見て、大いに歓び、不思議、不思議といわれたのです。
灌頂を終わった後に、胎蔵の梵字(サンスクリット)で書かれた密教の儀礼、行法や図像に関する規則。また、それらを記述した経典などを学び、胎蔵の諸尊を拝むマニアルを学んだ」と述べられています。

この灌頂という儀式は密教においては大変重要なものです。私も高野山で四度加行(しどけぎょう)によって修業し、この修行が終ると伝法灌頂という灌頂壇に入壇し、受法いたします。これを受法することで阿闍梨になることが出来ます。阿闍梨とは師範という意味です。
この灌頂についてはお話することを禁じられていますので、細かく説明をすることが出来ませんが、一つの免許皆伝のようなものです。

空海は六月から三種の灌頂をお受けになられています。その都度、空海が投げられた花は中央大日如来の上に落ちたのです。恵果阿闍梨は不思議、不思議と再三にわたって驚嘆して仏との縁の深さをほめ讃えたというのです。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその21(更新12月15日)

密教の法将、恵果和尚は温顔笑みを湛えて空海を迎えました。
恵果和尚は空海に向かって次のように告げられた。

「われ先に汝が来ることを知りて相い待つこと久し。今日相い見ることはなはだ好し、報命(ほうみょう)尽きなんと欲(ほ)すれども、付法(ふほう)に人なし。
必ず須(す)べからく速かに香花を弁じて灌頂檀(かんじょうだん)にいるべし。」

空海が恵果和尚に会う前に、般若三蔵や牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)にサンスクリット(梵語)を学び、既に3ヶ月以上も経っています。日本の留学僧が密教を求めるために、この長安西明寺に止住しているという情報は、既に恵果和尚の耳に届いていたと思われます。しかも青龍寺恵果和尚が密教の正統を伝える第一人者であるということを空海自身も、般若三蔵に聞いて知っていたと思われます。

しかし大日経を理解するにはサンスクリットを理解しない限り、解釈することもおぼつかない、どのようなことがあっても先にサンスクリットを学ばなければという思いがあったのでしょう。そのことが入唐の動機だったからです。

結果として空海は恵果和尚をお待たせてしまう結果になりましたが、和尚はそのことを充分に理解していたと思われます。それは恵果和尚の在家の弟子である呉慇(ごいん)が著した「恵果阿闍梨行状」に(注)
「今、日本の沙門空海ありて、来たりて聖教(密教)を求むるに、(金胎)両部の秘奥(ひのう)、壇儀(マンダラ行法)印契(手印)をもってす。漢梵(漢語と梵語)差(たが)うことなく、ことごとく心に受くること、猶し、しゃ瓶のごとし。」と書いています。
いま、日本の僧空海が来て密教を求め、金剛界胎蔵界の教え、そしてマンダラの行法や手に印を結ぶこと、また漢語、またサンスクリット語などにはまったく問題がなかった。と述べていますから、空海が和尚に会う前にサンスクリットを学んだことはすべて空海の先見性によるものです。

さて恵果和尚のお言葉にあるように、「報命尽きなんと欲すれども」といわれています。和尚自身、病弱であるためにすでに自身の寿命を覚られています。ですから早く空海に密教の教えを授けたいのです。

長安では多くの弟子達がおられたと思いますが、真に伝えるべき人材がいなかったこともあったでしょう。しかし、それより恵果和尚は、教えを東国(にほん)に伝えるべき使命感を持っていたのではないでしょうか。ですから空海と出会って、一目見て並々ならぬ力量と素質を見ぬかれたのです。
ですから「必ずすべらく速やかに香花を弁じて灌頂壇にいるべし」と告げたのです。
(注)空海と密教 頼富本宏著 PHP新書



   
       
 

空海の伝説 シリーズその20(更新12月01日)

空海は密教を学ぶ為に先ず行動を起こしたのが梵語の習得です。
長安の西市に位置します禮泉寺には、インドの僧で般若三蔵や牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)がいらっしゃいました。

般若三蔵はナーランダ寺に学び、歴遊18年南インドで密教学び、781年海路広州に着き、翌年長安に入りました。崇福寺・慈恩寺で経典を訳す仕事につき、806年空海は長安の禮泉寺で秘法を授かりました。

空海はこのようにして恵果阿闍梨にお会いする前に、般若三蔵に梵語や密教の基礎的なことについて教えを受けたと思われます。
空海自ら(広付法伝)に「長安の禮泉寺において、般若三蔵および牟尼室利三蔵、南インドのバラモンなどの説を聞くに、この龍智阿闍梨(りゅうちあじゃり)は今現に南天竺の国に在(いま)して、秘密の法等を伝授す」と書いています。龍智阿闍梨とは密教の法を伝えた第四番目の祖師です。
空海はのちに長安にいたときの師として、般若三蔵と恵果阿闍梨の名をあげています。
このように空海は次に密教の奥義を伝える恵果阿闍梨に遇い、わずか二年余りでその秘法を授かるということは、般若三蔵に基礎的な密教の教えを授かっていたからと思われます。

3ヶ月の間般若三蔵から教えを受け、いよいよ密教を伝える七番
目の祖師である恵果和尚の門を叩き、これから密教正統の教えを授かるのです。

空海は恵果阿闍梨とどのような経過で出会うことが出来たのでしょうか。空海が帰朝後に朝廷に提出した「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)に恵果阿闍梨との出会いについて「城中を歴(へ)て名徳を訪(と)うに、偶然として青龍寺東塔院の和尚、法の諱(いみな)恵果阿闍梨に遇(あ)い奉る」と述べています。空海は、師を求めて長安の寺を訪ねていると偶然にも恵果阿闍梨とめぐり会うことが出来たというのです。
それこそ機縁熟し、会うべくして会うことが出来たと思います。
それは目には見えない不思議な縁で結ばれていたことを暗示するのです。

初対面の空海に対し、恵果阿闍梨は「恵果たちまちに笑(え)みを含み、喜歓(きかん)して告げてのたまわく。我先に汝が来たらんことを知り、相い待つこと久し。今日相い見ゆ、はなはだ好し、はなはだ好し」と述べられています。
ただの偶然ではない、深い縁で結ばれていたことがわかります。ですから恵果阿闍梨と空海の出会いは劇的なものであったと思われます。



   
       
 

空海の伝説 シリーズその19(更新11月15日)

公館である宣陽坊に到着した時、そこには先に到着し最澄が乗船していた第二船の判官菅原清公(すがわらのきよきみ)の一行が十一月下旬にすでに到着していました。
東シナ海で嵐のためにお互いの消息がわからなかったが、ついにこうして会うことが出来た喜びはいかばかりだったでしょう。
お互いに手を取り合って無事を喜びあい、涙を流したことでしょう。
 さて、遣唐使の役割はなんといっても徳宗皇帝に拝謁し、献納の品を献上することにあります。ところが一説によると、すでに徳宗皇帝は重病であったと伝えられています。ですから藤原大使は事実上直接拝謁することが出来なかったと思われます。

しかし、藤原大使らには官賞が与えられ、宮中では歓迎の宴が催されました。その席に空海も同席したものと思われます。これは異例のこととおもわれます。空海は一介の留学生です。留学生が宮中に入ることなど本来は出来ようがありません。考えられるのは空海が秘書と通訳を兼ねていたのではかということです。
その席で空海はすでに長安の情報を収集していたのではないでしょうか。
大日経、ことに密教を伝えている方はどなたか?また梵字を学ぶには誰がよいかなど、すでに空海は行動を起こしていたとみるべきでしょう。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその18(更新11月01日)

藤原葛野麻呂(ふじはらのかどのまろ)と空海一行は東の大市場に近い宣陽坊の公館宿舎に入りました。そのとき思いもよらず九州田の浦工を同時に出港し、判官菅原清公(すがわらのきよきみ)はじめ最澄が乗船していた遣唐使船の第二船の一行がその宣陽坊にすでに到着していたのです。
 
藤原大使一行は、第二船は遭難していたものと思っていましたから、この再会はどんなに嬉しかったことでしょう。お互いに無事を喜び歓喜の涙を流されたことでした。しかし判官菅原氏一行の中には天台宗の最澄は居りませんでした。それは第二船は無事に明州の港に辿り着き、その後最澄は短期留学の目的地である五台山へと向かわれたのです。ですから空海と最澄がはじめて出会うのは帰朝後になるのです。

長安(現在の西安)は唐朝九代徳宗(とくそう)の時代でありました。この頃唐朝の勢いも段々と衰えかけてきたとはいえ、世界に誇る国際都市でありました。

その頃の長安の宗教情勢はどうであったかというと、法相宗、三論、天台、華厳、密教。禅、律の仏教がそれぞれの教宣を行っていたのです。その他中国の在来の道教をはじめ、景教(注1)、拝火教(注2)、摩尼教(注3)といったような新しい宗教までが布教活動を行っていました。

(注1) 景教 光り輝く教えの意、ネストリウス派キリスト教の中国での呼称。唐代に中国に伝わり、唐朝が保護したためにりゅうせいし、唐末になってほとんど滅亡、後にモンゴル民族の興隆とともに興ったが元(げん)とともに衰滅した。
(注2) 拝火教 火を神化して崇拝する信仰の総称。特に、ゾロアスター教の称
(注3) 摩尼教 ペルシャのゾロアスター教を基本として、キリスト教と仏教の要素をも加味した宗教。3世紀中頃のペルシア人マニが教祖。善は光明、悪は闇黒という2次元的自然観を教理の根本とし、教徒は菜食主義、不邪淫戒、断食、浄身祈祷をする。ゾロアスター教の圧迫でマニは磔刑(たっけい)に処せられ、この宗教の活動の中心は後にサマルカンドに移り、ウイグル人の間に広がった。唐の則天武后の時に中国に伝わり、12世紀頃まで行われた。摩尼?教(まにけんきょう)ともいう。

 その頃長安の都市には、ペルシャ人、アラビヤ人、なども貿易を行うために沢山の人たちが集まっていました。とくに西域の人たちはラクダの背に山のような品物を積んで、つぎつぎと長安の城門から入り、東の大市場で活発な商いをいたしました。その喧騒が空海のいる宣陽坊の賓館にも聞こえてきます。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその17(更新10月15日)

空海が藤原大使一行と福州を発って長安におもむいたのは11月3日でした。この長安への道2400キロを昼夜兼行で長安を目指しました。空海はそのときの様子を「星に発ち星に宿し、晨昏兼行(しんこんけんぎょう)す」と表現しています。
朝はまだ星があるときから出発し、夜星が出て宿に着いた。朝といわず夜といわず歩き通したのでしょう。

藤原大使一行が通られた道は、本当に険しい道が多かったのではないかと思われます。それも夜を日につぐ強行軍の旅でありましたので、一行は歯をくいしばり、励ましあいながら歩かれ、その年の12月21日にやっとの思いで長楽駅に到着いたしました。福州を出発して48日を費やしたのです。
おもえば5月12日難波の港を、船出しておおよそ7ヶ月をかけて、念願の長安まで直ぐそこです。全員安堵の笑顔を見せた
のではないでしょうか。
あと少しで長安です。一行の喜びはいかばかりであったろうと推察されます。

12月23日には、唐の朝廷の使いである趙 忠(ちょう ちゅう)が23頭の馬を曳き、祝いの酒を持って出迎えてくれました。
福州赤岸鎮に漂着した時は海賊と思われ、空海が観察使に手紙を送り、理解されるまでは上陸を許されず、冷遇を受けたのを思えば雲泥の差でありました。
慰労を受けた一行は23頭の汗血馬に乗って、長安の城市に入っていきました。

空海が長安の人となったのは唐の貞元20年(804)12月23日のことでありました。この長安の都は国際都市でありました。
その華やかさは奈良や京都の賑わいの比ではございません。

当時、唐朝第9代徳宗の時代でありました.唐朝の勢いは全盛を過ぎたといいましても、経済の発展や、芸術すべてにわたって発達していたのです。
 ソグド、ペルシャ。アラビヤ、西域の商人達が行き交い、町にはキリスト教の教会やマニ教の寺院などがあり、まさに世界に誇る国際都市でありました。
その喧騒を耳にしながら一行が宿舎と定められた宣陽坊の外宅(公館)に入ったのです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその16(更新10月01日)

高野山大学の静教授と共に、平成13年9月3日関西空港から上海へ、さらに国内線に乗り換えて夜暗くなって福建省武夷山に到着しました。
武夷山の飛行場は2,3年前につくられたもので、それまでは福州市から汽車で2時間半かけ南平市に着き、さらにバスに乗り換えて3時間半で武夷山に着くという大変不便なところであったようです。
武夷山はお茶の産地と知られ、特に岩茶は有名ブランドとして
相当に高価なものです。また武夷山は自然の景観が素晴らしく、奇岩が林立してその山々を縫いながらの九曲渓下りは、まさに息を呑むような美しい山水画の世界です。
この九曲渓下りは、孟宗竹を十本ぐらい組んで筏を作り、それに乗って川下りを楽しみます。次々と変わる景色に別世界にいるような錯覚さえ覚えます。
夜は武夷山市玉女大飯店で人民政府の歓迎会が開かれ、夜の更けるまで政府の役人の方々と共に交流を深めました。

9月5日は浦城に至り、いよいよ空海が入唐し福州から長安まで歩まれた道に入ることになるのです。
浦城の町は人口37万人、農業が中心の盆地です。その町にある天心勝果禅寺に参拝をいたしました。静先生がすでに手紙で寺に知らせてあつたので、寺の住職や信徒の爆竹による歓迎を受けました。今から1200年前に空海はこの寺に立ち寄られただろうと言われています。

さて、浦城(福建省)から江山(浙江省)へ出る道は山越えをしなければなりません。唐の時代には仙霞嶺、江山を通るのが公道です。このたびの空海ロード追体験の中心は、空海もご苦労されて歩まれたこの仙霞嶺越えであり、途中にある仙霞嶺越えの関所を見学することにありました。
この唐代の公道は現在10キロほどがそのまま残っています。公道は両側に山がそびえ、その間を縫うようにして僅か幅1メートルのでこぼこした石畳が続きます。今から1200年前に空海がこの同じ道を歩まれたかと思うと、万感胸に迫るものがあり、私の足下が1200年前の空海の足跡と重なっていると思うと、ありがたさで自然に涙がこぼれます。
この石畳を歩んで行きますと、突然目の前に関所があらわれます。「仏霞関」です。堅固な煉瓦で造られた城壁のようです。ちょうど万里の長城を小さくしたものとお考えいただいたらよいかと思います。この城壁のような関所に役人達が立ち並び、その中を空海の一行が通っていく姿が目に浮かぶようです。 このようにして十日間の短い期間でありましたが、1200年前に空海がご苦労して歩まれた同じ道の一部分でありましたが、追体験できたことはまことにありがたいの一語に尽きます。

 静教授は福州から長安、現在の西安までの2400キロの道を空海ロードと位置付け、この間にある空海が立ち寄られたであろうお寺を選定し、中国21箇所霊場として立ち上げる用意をされているようです。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその15(更新09月15日)

空海は再び閻済美(えんさいび)に書状を送り、胸の内を切々と訴えています。
その書状は「福州の観察使に与えて入京する啓」によって知ることが出来ます。

「私、空海は、才能が世に聞こえることなく、その言行もなんのとりえもありません。ただ雪の中に肱(ひじ)を曲げて枕として寝(やす)み、雪のおおう峰に野の菜を喫して修行することだけを努め励んできました。
 いまちょうど、ほかに適当な人がなかったために、選ばれて留学生の末席をけがしてしまいました。
 留学の任期は二十年を限度とし、尋ね求めるのは一大乗(密教)の教えです。その責任は重く、責(せ)めを負ったものたる私は力が弱く、早朝から夜半まで寸陰を惜しむだけです。
 いま私だけを福州に留めるという話ですが、歳月は過ぎてゆき、年月はわれわれのところにいてくれない。どうして空しく矢のように疾(はや)い年月を無駄に打ち捨てることができるでしょうか。このたびの留め置きをなげいて、一日も早く長安の都に入ることをむさぼるように願うのです。」
 この書状に空海の苦しい胸のうちが露呈されています。

この空海の思いに感動した閻済美は、急遽上京を許すのです。
いよいよ遣唐使の一行が旅装を調えて、福州を出発したのは十一月三日のことでありました。

藤原大使一行がどのルートを通って長安に赴いたかは記録に残されていません。しかし、空海の入唐のルートを研究調査されている高野山大学、静 慈圓教授は1984年に「空海長安の道」と題して、現代中国地図の上に2400キロを再現して、その道を踏破しました。
 2400キロというと四国八十八ヶ所の四国霊場を二周する距離になります。
 それから静教授は十七年間、この2400キロの道を逐一詳細に調べ、このために訪中すること四十数回の訪問を重ねています。

昨年9月に静教授に同道させていただき、福建省武夷山(ぶいさん)から空海の歩まれた仙霞古道(せんかこどう)、さらに浙江省江山市二十八都鎮を歩み、空海が歩まれた道を追体験させていただきました。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその14(更新09月01日)

空海の乗船していた第一船は、海上に漂うこと三十四日、八月十日、まさに生死の境をさ迷って居る時、かすかに陸地が見えてきました。乗船している者は歓喜の声をあげ、ある者は船縁を叩いて喜びを表し涙を流しました。 空海も神仏のご加護を頂いたことに感謝し、満身から祈りを捧げたことと思います。

八月十日、ようやく福州長渓県赤岸鎮、の海口にたどり着いたのです。船は一月あまりの航海で、主柱は折れ、乗船しているものは着のみ着のままで潮風によって哀れな姿を留めています。そのことが、九死に一生を得てやっとのおもいでたどり着いたことを如実に物語っているのですが、逆に赤岸鎮の住民はじめ役人は、不審な船として接触を試みることはなかったと思います。

なぜこのような状態になったかというと、遣唐使船は本来長江沿岸、また蘇州とか揚州近くに着く事になっていたので、藤原一行が南方遥か福州に到着したことで、役人がいぶかるのは無理もなかったのです。
 
遣唐大使の藤原葛野麻呂は何回と事情を書き記し、役人に遣唐使であることを訴えたのですが理解されませんでした。それは、国書とか印符を示していれば間違いなく、遣唐使船であることを了解してくれたはずです。ところが残念なことに重要な書類は第二船にあったとみえ、大使の手元にはなかったのです。

役人の疑いは益々増すばかりです。唐の都長安にすら辿り着けないばかりか、赤岸鎮に留め置かれ、最悪の時は日本に戻らなければならない事態になりかねない緊迫した状態であったことが窺い知れるのです。

このとき、空海が藤原大使の懇請により、地方長官宛に陳情書を書き、観察使(地方長官)に提出いたしました。これが有名な「大使のために福州観察使に与うるの書」です。この空海筆の陳情書を受け取った地方長官閻済美(えんさいび)はあまりにも美しく書き上げた書、見事な文章に触れ敬歎して、急にその陳情書を長安に送り、その指示を待ったのです。その間、閻済美は一行を手厚くもてなし、自体が一変して閻済美は歓待にこれ努めたのでした。

しかも空海の文才に驚いた閻済美は空海の才能を認めて、永く福州に留めようとしたのです。そこで空海は再び閻済美に手紙を出し、そのこころの内を露呈したのです。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその13(更新08月15日)

延暦9年7月6日(804)肥前国(長崎県)松浦郡田ノ浦の港を4艘の遣唐使船が出港いたしました。
 第一船には遣唐大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、副使の石川道益(いしかわのみちます)そして空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)が乗り、第二船には判官藤原清公(ふじわらのきよとも)、天台宗を開いた最澄と最澄の通訳を務めた弟子の義真が乗船いたしました。

 第三船は三棟今嗣(みむねのいまつぐ)、第四船には船匠や漕ぎ手、通訳などが乗っていたと思われます。一行の総勢は約500人から600人ぐらいと推定されます。
 この頃の日本の造船技術や航海術はほんとうに粗末で、羅針盤はなく、気象にたいする知識や技術もなく、ただ神仏の加護にすがるしか方法がなく、無事に中国に渡れるということこそ奇蹟に近いことです。
 
当時の船は船底が平底で、箱が海に浮いているようなもので、波を受けるとひとたまりもなく沈んでしまいます。ですから八世紀の遣唐使船の内で、総ての船が往復できたのはたった一度だけで、遣唐使船が4隻になったのは、その内の一艘だけでも唐土に着くためであったと思われます。(註1) まさに命がけの船出であったわけです。

 さて、田ノ浦港を出港した翌日、七月七日の夜になって、突如台風の襲来を受け、船は木の葉のように波にもまれ、翻弄されました。このとき第三船と第四船とは消息を絶ってしまいます。しかし、後に判官三棟今嗣の第三船は岩礁に乗り上げ、航行不可能となり係留されましたが、艫綱(ともづな)が切れて漂流し、唐国への献上物などの品物などがことごとく流されてしまいました。 しかし、この第三船はその後に修復され、奇しくも空海帰国の時に乗船する船となるのです。

さて、空海の乗った第一船は玄界灘を南に流され、漂流を続けて波に漂うこと三十四ヶ日、水も食料も尽き死を覚悟した時、ようやく福州長渓県赤岸鎮の海口にたどり着いたのです。
 空海はじめ藤原大使、橘逸勢ほか一同の喜びはいかばかりであったでしょうか。しかし波の間に間に漂っている様子を空海は「大使、福州の観察使に与うるが為の書」で次のように表現しています。
(註2) 「私、賀能(藤原葛野麻呂)らは一身を忘れて天皇の命令をうけたまわり、死の危険をおかして航海に乗り出した。こうしてひとたび本国の岸を離れて中途にまで及んだころに、暴風が帆を破り、大風が舵(かじ)を折ってしまった。高波は天の河にしぶくほどとなり、小船は波間にきりきり揉むありさまとなった。(中略)猛風が吹き来たれば、これに顔をひそめて、そのまま死んで葬られて大亀の口に入るのではないかと覚悟し、大波に眉をひそめて、終(つい)の住みかを鯨の腹の中に定める気になった。浪のまにまに浮き沈みし、風のふくままにまかせて南北に流れた。ただ天と海の水色の世界だけを見ていた。どうして山や谷の白い霧を見ることができようか。波の上にたゆうたうこと二月あまり、ついに水は尽き人は疲れて、なお海路は長く、陸路は遠い。空を飛ぶ鳥の翼が脱け、水を泳ぐ魚のひれが傷んでいるのも、どうして、今のわれわれの苦しみの喩えとするのに充分といえようか。」と苦難のありさまを述べています。
(註1) 倉橋町 長門の造船歴史館ホームページ
(註2)弘法大師全集 第6巻 性霊集5

   
 

空海の伝説 シリーズその12(更新08月01日)

空海は二十二歳の時から三十一歳まで、おおよそ十年間は鳴かず飛ばずの歳月が流れたかに見えます。しかし空海の生涯の内で、何度かこのような時があります。それは何か大きな飛躍を見せる時には、その前に必ず沈黙の時があるのです。それは今後の向かうべき道筋を決定する時、何か次の事業を行おうとしている時です。
  空海は大日経を感得したときから、唐の国に渡るという大望を懐いて、綿密な計画を立て、行動へと移していったのではないかと思われます。後はいつ唐の国へ渡る遣唐使船が出航するかにかかっています。

 いよいよその時が来ました。その遣唐使船が派遣されることが決定したのです。
 遣唐使の派遣にともなって延暦20年(801)八月十日に藤原葛野麻呂を(ふじわらの かどのまろ)を遣唐使の大使として、石川道益(いしかわ みちます)を副使とすることが決定されるのです。この遣唐使船の役割は、唐の国との友好もさることながら、勝れた唐の文化を日本にもたらすことを主眼としていました。ですから遣唐使船にはいつも何人かの留学生が乗船していたのです。

いよいよ延暦二十二年四月十六日に、大阪難波の港から遣唐使船が出港いたしました。そのとき天台宗比叡山の最澄(さいちょう)が還学僧(げんがくそう)として乗船していました。
還学僧というのは既にある程度の地位もあり、国費で短期留学するもので、請益僧(しょうやくそう)ともいわれました。
この他に留学僧が居ます。この留学僧は大体二十年間唐の国に留まり勉学しなければなりません。
いよいよ難波の港を後にして航海を始めてまもなく、瀬戸内海を航行中に暴風に遇い、船は波にもまれて大きく破損し、航海出来なくなり、その上に死傷者まで出てしまいました。
やむなく、このときの航海は取りやめになりましたが、幸運にも天台宗の最澄はことなきを得て、最澄の乗った船はそのまま九州の筑紫に着くことが出来たのです。
 このときの航海は中止されましたが、船の修理や唐の国に持っていく物品の補充が行われ、翌年の延暦二十三年七月に再出発することになり、留学生の新しい選考が行われ、新たに空海が留学することが許されるのです。

「続日本後紀」に「年三十一にして得度し、延暦二十三年に入唐留学す」とあります。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその11(更新7月15日)

空海は大日経と出会い、真理の教えを依りどころとすることは、つまり本当の自分を依りどころとすることなのだ、真理に帰依するということは、自己に帰依するということなのだ。だから結局は、自己の心をほんとうに覚ることが、とりもなおさず仏となることなのだ。それは「実のごとく自身を知ることなのだ、この世を離れて法(真実の教え)はなく、人を離れて仏はありえないだ」空海の確信をはっきり証明してくれたのが、この大日経だったのです。
 この大日経の発見によってこれまで抱いていた空海の信念は、いよいよ固められ、自分の一生をこの大日経の研究と真理の探求にゆだねようと不動の決心をなされたのです。
 
 空海は日夜この大日経を紐解きましたが、梵字(インドの古い文字)や難解な専門用語が多く、理解することが出来ません。空海は奈良の都の大徳を尋ねて大日経を示し、意味解釈を頼みましたが、誰一人これを満足にこたえてくれる人がいません。
それでいろいろ考えた末に、この経典を理解するには唐国に渡り、これを学ばねばならないと決意したのでした。
 
 しかし唐の国に渡るといってもそれは容易なことではありません。(1)まずどのような手段をもって渡るか。(2)それには相当の資金を用意しなければいけません。
また唐の国に万が一に行くことが出来たとして、(3)中国語ができなかったなら生活することも出来ません。(4)また日本にある経論を読み、持ち帰る経論と重複しないように、調べて置く必要があります。
これらのことを考えると、空海は十年間を入唐の準備期間としたのだと思います。
この空海が不明の十年間のうち、二十四歳の時に聾瞽指帰(ろうこしいき)一巻を著しています。不明な十年間でこのことだけが分かっています。この聾瞽指帰は儒教、道教、仏教を比較し、仏教が一番勝れていることを述べたもので、戯曲風に書かれ、特に四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれています。この駢儷体というのは、主として四字および六字の対句をもちいる文体で、中国、六朝の頃に成立して隆盛を極めたといいます。

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその10(更新7月1日)

大日経の発見
 空海は真実の教えを求めて、山野を跋渉(ばっしょう)し、修行を重ねていましたがなかなか心は満たされません。奈良の都で高僧にも会い教えを聞き、多くの経典を読みましたが、納得できる教えに行き着きません。

 空海は奈良東大寺大仏殿に歩みをすすめ、静に毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)の御前に座を占め、一心に祈りを捧げました。

空海は求める真実の教えこそが、人々を幸せを与えることのできるでものであると信じ、21日間の修行を決意したのです。それは延暦14年の年の暮れ、奈良盆地の冷え込みが一層身にこたえる頃でありました。

 空海は毘廬遮那如来に自身の胸の内を告げていうのには、「吾(わ)れ仏法にしたがって、つねに要を求むるに、三乗(声聞、仏の教えを聞いて覚った人。縁覚、仏様との縁によって覚りを開いた人。菩薩、覚りを求めて努力する人。)五乗(人、天、声聞、辟支、仏)十二部経(一切経を十二種類に分けた名前)心神に疑いありて、いまだ決をなさず、ただ願わくは三世十方、われに不二を示したまえ」簡単に解釈しますと、仏教には沢山の教えがあり勉強をしたが、未だこころに疑問が残り、どの教えが本当に人々を幸せに導くのか心を決せずにいます。どうか仏様、二つとない真実の教えを示してください。

このようにすべてを忘れ、一心に仏前に祈請を凝らしますと、21日の満願の日に夢枕に仏が立たれ、次のように告げられました。
「汝が求めるところの不二の法門とは大毘廬遮那経これなり」空海が求めた不二の法門は、ついに、大和の国高市郡久米寺(現在の奈良県橿原市)の塔の中に在る事を示されます。
その経典こそ「大毘廬遮那神変加持経」(だいびるしゃなじんぺんかじきょう)一部七巻でありました。

 この不二の法門とは一つには「二つとない真実覚りの教え」という意味と、「仏と我と不二一体となる教え」すなわち即身成仏の教えです。
この大日経七巻はその内の第一巻は「仏のさとりの智慧とは何か」ということが説かれ、特に三句の法門という教えが説かれています。第二巻以後はでは胎蔵界曼荼羅の描き方、加行(修行について)、灌頂の儀式、観法といった密教の儀礼の数々が解説された実践編となっています。

註、辟支とは一人で覚りをひらいた小乗の聖者、世俗を離れひとり山林で修行していた修業者をいう。


   
       
 

空海の伝説 シリーズその9(更新6月15日)

空海は大学を去り、いよいよ山岳修業の人々の中に入っていきます。
「天長元年(824)の「小僧都を辞する表」(そうそうずをじするひょう)のなかで「空海、弱冠(20歳)より知命(50歳)に及ぶまで、山藪(さんそう)を宅(いえ)とし禅黙(ぜんもく)を心となす」と書いているところから見ると、20歳で山野を跋渉(ばっしょう)し、勤操大徳(ごんぞうだいとく)から授けられた求聞持法を修行しながら、奈良県の吉野から葛城山系、さらに愛媛県の石槌山、徳島県の大瀧嶽や高知県の室戸崎で血がにじむような修行をされたと思われます。

24歳の時著した聾瞽指帰(ろうこしいき)に「あるいは金巖(かねのたけ)に登って雪にあってこまりはてた。あるいは石峯(いしずちのたけ)にまたがって食べるものもなくなり動くことも出来ない」と書かれています。金巖とは吉野山金峯山のこと、石峯とは愛媛県の石槌山のことです。

さらに空海は三教指帰の中で、「たゆまない修行精進の結果を期し、阿波の国の大瀧嶽(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した。谷はこだまを返し(修行の結果があらわれ)、(虚空蔵菩薩の化身である)明星が姿を現した」と有ります。
この山岳修行の頃が人生の岐路に立ち、仏の道に進むことを決意はしたものの、真実の教えに出会えないことのあせりに似たものがあったのではないかと思われます。

(性霊集)7巻に「仏弟子である私空海は、仏になろうとする心をはげまし、すべての根源である仏の境地にたどりつこうと願っているが、たどるべきみちを知らず、あまたの道のいずれをえらぶかに迷い、いくたびとなく涙にくれた」とその苦しい胸の内を
露呈されています。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその8 (更新6月1日)

空海の大学在学は18歳から20歳前後ではなかったかと思われます。既に大学に入る前から勤藻大徳とはお会いしていたと考えられます。大学を辞して山林修行に身を投じて、大徳から「虚空蔵求聞持法」を授けられました。
このことは「金剛峰寺建立修行縁起」及び「二十五箇条遺告」などに出ております。
 
勤藻大徳(758〜827)は三論宗の高僧で、平安初期の碩学の一人です、貧しい人々を施しによって救済する文殊会を創始した慈悲深い実践者として尊敬を集めたといいます。
 空海は延暦12年(793)にこの虚空蔵求聞持法を授けられました。

この虚空蔵求聞持法とは、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が開元4年(716)にインドから中国に伝えられ、その翌年に翻訳されました。「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」一巻を指しています。
この虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言である「ノウボウアキヤシャギャラバヤオンマリキャマリボリソワカ」を一百萬遍唱えれば、すべての文義を暗記することが出来るという秘法です。

求聞持法は道場の東側に窓をつくり、そこから虚空蔵菩薩化現の明星の光を迎えます。本尊虚空蔵菩薩は西向きにして祀り、本尊の前に供物、灯明などを捧げ、行者は印を結んで虚空蔵菩薩の真言百万遍を誦えます。必ず日食または月食の日に終わらないといけません。この真言を百万遍唱えるということは、飲食も睡眠もしないと仮定して約40日以上かかりますので、実際にはもっと時間がかかると思いますので、過酷なまでの修行だという事が分かります。

空海は次のように述べておられます。「もし人、法に依りてこの真言を一百万遍読まば、即ち一切の教法の文義を暗記することを得、」という。この言葉を信じて、たゆまない修行精進の結果を期し、阿波の国大瀧嶽(たいりゅうだけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した。谷はこだまを返し(修業の結果があらわれ、虚空蔵菩薩の化身である)明星が姿を現した。」とあります

 

   
       
 

空海の伝説 シリーズその7(更新5月15日)

現在の香川県坂出市府中にあった国学に学んだ真魚は、15歳で母方のおじにあたる阿刀大足(あとうのおおたり)について学んだと、空海が18歳の時に著した「三教指帰」(さんごうしいき)に次のように述べています。
「余(われ)、年,志学(15歳)にして外氏阿二千石(がいしあにせんせき)文学の舅(きゅう)に就いて伏膺(ふくよう)し鑽仰(さんぎょう)す」
とあり、母方のおじ、阿刀大足の禄高は二千石で伊予親王の文学の先生です。
そのおじにしたがって文学を学び、また文章の手ほどきを受けたというのです。

後に「文鏡秘府論」(ぶんきょうひふろん)の中で「貧道(ひんどう)は幼にして表舅(ひょうきゅう)につきて、すこぶる藻麗(そうれい)を学ぶ」とあり、貧道とは自分をへりくだる言葉。
表舅とは母方のおじ、藻麗とは言葉や文章をたくみに表現することです。ですから真魚は母方のおじから言葉や文章を学んだことを述べています。

このようにして、文学を学んだ真魚は、15歳になって始めて阿刀大足について都に上りましたが、奈良の都は政治の腐敗によって混乱が起こり、延暦3年11月に奈良平城京から、新しい都である京都長岡に遷都が決行されたのです。そのようなときに大学受験に励まれたのです。
しかし、政情不安の中、真魚は時折山野を歩きながら、自分の進むべき道を模索し、おじの勧める大学に入るべきかどうか、仏の道に進むべきか大いに悩んだことと思われます。
そのような時に山岳修行者である一人の沙門に出会うのです。
その方こそ奈良大安寺の勤操大徳でありました。

   
       
 

空海の伝説 シリーズその6 (更新5月1日)

真魚(空海幼少の名)12歳の時に、佐伯家に喜び事があって親戚の人々が集まりました。その時「真魚の将来をそろそろ決めておかなければなるまい」と一人が発言しました。
 それに答えてご両親は「この子を仏弟子にしようと思う。なぜならばこの子はもとから仏と深い縁があります。それは夢に天竺より清僧が来て、われらが懐に入るのを見て妊胎し、生まれた子なのです。ですからこの子を仏弟子にさそうと思う」と申されました。親戚の人は全員が賛同いたしました。
 真魚はこれを聞いて喜び、父母の言葉を肝に銘じました。

 空海が書かれた御遺告(ごゆいごう)に次のように書かれています。
「年始めて十二なりき。ここに父母いはく、我が子は是れ昔仏弟子なるべし。何をもってこれを知る。夢に天竺国より聖人の僧来たりて、我らが懐(ふところ)に入ると見き。かくのごとくして妊胎して産出せる子なり。しかればすなわちこの子をもたらして、まさに仏弟子となさんとすと。われ若小の耳に聞き喜んで?土(でいど)をもって常に仏像を造り、宅の辺りに童堂(わらどう)を造って彼の内に安置して礼し奉るを事としき。」とあります。
これによって仏の教えに対する憧れのおもいを一層強くしたのでした。
 
こうして真魚は12歳から15歳まで国学(当時国ごとに建てられた役人の子弟が入る学校)で学びました。それは延暦4年(785)より延暦7年まででありました。

この国学は現在の香川県坂出市府中町にあり、府中は大化の改新以来国府聴があった所で、聖堂という地名があります。聖堂とは
学校と孔子廟があったところです。この学校を国学といい、その生徒を国学生といいました。真魚はこの国学で学ばれたのですが、
善通寺市からこの国学がある坂出市府中町まで、現在車で30分ぐらいかかり、もしここを歩いて通うとしたら二時間はかかるとおもわれます。12歳の真魚が往復歩かれたとは思えませんので、国学に寄宿していたのではないかと思われます。

 

   
 

空海の伝説 シリーズその5

さて,前回では空海が七歳の時に、仏道に進む決意を表した捨身誓願についてお話いたしました。空海は幼少のときから仏縁深く、色々な不思議な体験をされています。
このことは、やはり家庭環境や親戚縁者に、精神的な影響を与える素地があったと考えられます。

空海の家系については「日本三代実録」※注1 に、讃岐の国の佐伯直田鈴伎麻呂(さえきあたえたすずきまろ)空海の兄、などの空海の血縁につながる十一人について、宿禰(すくね)の姓を賜るように申請し、これが許されたことが記録されています。そして佐伯直は、讃岐の国造(くにのみやつこ)地方長官の家柄でありました。

ここで空海につながる血縁の人を見ていくと、
長男 佐伯直鈴伎麻呂

二女 智泉大徳の母
   智泉大徳は(780〜825)空海の甥。父は讃岐滝宮(たきのみや)の宮使で菅原氏、母は空海の姉。智泉大徳は常に空海の側近にあって苦楽をともにして、真言宗を広めるために努力された。

三男 弘法大師

四男 眞雅僧正
   貞観寺僧正ともいわれ、空海の実弟です。十六歳で空海に師事し、真言を学ぶ。二十三歳の時、勅命により宮中で真言三十七尊の梵号を唱誦し、その玉を貫くような声に天皇は感動したという。東大寺長者法印大和尚を授けられた。そして法光大師の諡号を贈られた。

五女 智證大師の母
   智證大師円珍(814〜91)比叡山延暦寺第五世座主、母は佐伯氏の女で空海の姪。円珍は入唐求法されている。

六男 眞然の父
   眞然大徳は空海の甥 延暦二十三年(804)に亡くなる。母は佐伯氏の女、幼少で出家し、奈良大安寺に住み、後に眞雅僧正の付法の弟子となり、空海亡き後高野山の整備経営に尽力した。
 このように空海につながる人は宗教家が多い、このような人材が生まれた背景には、佐伯家の教育と宗教的素養が育つ環境があったのではないかと思われます。

※注1「日本三代実録」とは清和、陽成、光孝天皇お三代(858〜887)までの29年あまりを収録する。特に授位に関してもっとも正確であるといわれている。



   
 

空海の伝説 シリーズその4

幼少の頃から真魚(幼少の名)さまは、宗教的なひらめきが強く、ことに仏縁が深かったようです。それを裏付けるかのように、次のようなお話が伝えられています。

ある時、讃岐(現在の香川県)の地を訪れていた法進上人は、屏風ヶ浦(大師誕生の地)あたりにこられた時、赤子の泣き声を聞き、「この子は生まれながらにして仏縁を具えている。成長してからは仏の教えを広めるだろう、ご両親よ、大切に育てなさい」と予言されたといいます。

法進上人は中国の人、奈良の唐招提寺を建てた鑑真和上が、一命をかけてご帰朝されたとき、同じ船に乗り、その後天皇のご帰依が厚く、大僧都に任じられた高僧です。

四国八十八ヶ所の札所である屋島寺は鑑真和上の開基、その住職の中に慧雲律師がおられます。この律師も中国人で、法進上人とは無二の親友ということから法進上人は讃岐に来られ、ちょうど屏風ヶ浦を巡られている時に、真魚さまの泣き声を聞かれ、両親に告げられたのでしょう。

また、真魚さまが8,9歳の頃のお話です。朝廷から派遣された問民苦使(国民の生活を視察する役人)が、ちょうど屏風ヶ浦の辺りに来られた時に、道端で遊ぶ真魚さまの姿を見て、急に馬から降りて恭しく礼拝をしたといいます。
 供の者はこれをいぶかり、その訳を尋ねたところ、「この子は凡人ではない。四天王がまわりからお守りをしている」と語ったそうです。

これらのお話は、幼少時の真魚様が、非凡な宗教的才能をお持ちになられていたということを表しています。

弘法大師の讃歌として、大師和讃があります。その中に、「おん年七つのその時に、衆生のために身を捨てて、五つの岳に立雲の 立つる誓いぞ頼もしき」という一節があります。

真魚さまが七歳の時、屋敷から西北にそびえる高山に登り、岩が突き出る頂上に立ち、「仏は一心に祈れば、お姿をあらわし、霊験をくださるという。どうか私の願いを叶えてください。もし、叶わぬのならこの身を仏に供養します。」

真魚さまは小さな手を合わせ、「もし行く末、人々の幸せのために働くことが出来ますように」このように念じて、身を谷底に向かって躍らせますと、不思議にもそのとき、釈迦如来が出現し、大光明を放たれました。そして天女が舞い降りて、落ちていく真魚さまを救い、もとの場所に戻されました。

この場所を捨身ヶ嶽といい。麓には八十八ヶ所七十三番札所、出釈迦寺があります。
 後に西行法師がこの場所に立たれ、「めぐりあわんことの契りぞ頼もしき、
いかしき山のちかいみるにも」と詠われています。
この捨身ヶ嶽のお話は真魚さまの揺ぎ無い仏の道を歩む決意が表されています。




   
 

空海の伝説 シリーズその3

昔から、聖人などの誕生にはさまざまな神秘なお話や奇蹟が語られています。
空海の幼少のお名前は佐伯真魚(さえき まお)といい、真魚もまた誕生の時から不思議なお話が伝えられています。

 空海は後年に次のように述懐されています。「それは、12歳の時であった。
ある日、両親は私にこのようなことを仰せられた。多分そなたは、かってみ仏の御弟子であったに相違ない。それというのは、私がそなたを産もうとした時に、遠い天竺から立派な聖人が来られて、私の懐中に入られた夢を見た。貴方はたしかに仏の申し子です。ですから大きくなったら立派な聖人になって、御仏様のご恩にお報いしなければなりません。」といわれたといいます。
確かに聖人がご誕生されるときには不思議な奇瑞があらわれます。

今から2500年前にご誕生された釈尊がそうです。仏教聖典にはこのようにかかれています。
 「妃、マーヤ夫人は々釈迦族の一族で、コーリャ族とよばれるデーヴァダァハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。結婚の後、長く子に恵まれず、20幾年の後,ある夜、白象が右脇から胎内に入る夢を見て懐妊した。」とありますから、空海誕生の話は、後世に作られたのかもしれません。
 
 しかし、ここに不思議なお話があります。空海が誕生した宝亀5年は、唐の大暦9年(774)にあたります。丁度この年の6月15日は、唐の時代の密教の第五番目の祖師である不空金剛が長安の都である大興善寺で入滅されています。それで、空海は不空金剛の生まれ変わりであると信じられています。

また真魚さまは「私が丁度5,6歳で、まだ両親のもとに居た頃、私はよくこのような夢を見た。それはあの美しい蓮華の上に坐って、多くの仏様とお話す夢だった。しかし、このことは他人には勿論、両親にさえ話さなかった。
 そのころ両親が私を可愛がる子とは非常なもので、私を貴物(とうともの)と呼ぶほどであった。」このように真魚は5,6歳の頃から「泥をこねれば仏像をつくり、石を重ねれば、塔婆にかたどる」ほどであったという。

                  参考資料 仏教伝道協会 仏教聖典
                       高神覚昇 弘法大師言行録
                       弘法大師空海全集 第6巻




   
 

空海の伝説 シリーズその2

 四国、それは、徳島(阿波)、高知(土佐)、愛媛(伊予)、香川(讃岐)からなる温暖な仏の国です。
詩人の坂村真民が、詩集「朴」に仏島四国を詩っています。



四国連山の雪が消えると
一時に大地は
菜の花ざかりとなる
タンポポも花をつけ
路ゆく人の足をとめ
桃の花もほほえみかけて
働く人の心をよろこばせる
そして春の鳥が
諸仏諸菩薩の
徳をたたえて人々に呼びかける
四国は仏島である
世界にもない
仏の島である
八十八箇所の霊場が
大きな数珠のように
この四つの国々を
めぐりつないでいる

讃岐(香川県)は光り輝く、瀬戸内海に面した玉藻よる島といわれ、また姿やさしい山々連なる風光明媚な土地柄です。

今から1229年前の光仁天皇の宝亀5年、西暦774年、楠の若葉が繁る、6月15日、空海は善通寺の佐伯邸でお誕生になられました。真魚(空海の幼名)は邸内で清水をもって産湯をつかわれ佐伯家は喜びにつつまれ、特にご両親の喜びは如何ばかりであったでしょう。父は佐伯直田公(善通)、母を玉依姫と申します。

その誕生の地、善通寺は昔は屏風ヶ浦と呼ばれたところで、佐伯邸の近くには五筆山といわれる山々が連なり、あたかも屏風が立てられたようなのでこの名が付いたと思われます。佐伯家は国造(くにのみやつこ)の家柄で、母は従五位下、阿刀宿禰大足の娘であり、空海の生まれ年は「続日本後紀」に「七年に大僧都に転ず。自ら終焉の志あり、紀伊国の金剛峯寺に隠居せり。化去(死去)の時、年六十三」とあり、承和二年(835年)のご入定(永遠の仏の世界に還ること)から逆算すると、その生まれ年は宝亀五年(774年)となります



 
 

■ 空海の伝説 シリーズその1

 万葉集巻二に「讃岐の狭岑の島で、磯端に死人を見て」という柿本人麻呂の歌があります。

「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か ここだ貴き 天地日月とともに 満りゆかむ 神の御面 と 繼来たる 中の水門ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とい浪立ち 辺見れば 白浪さわく 云々」 ※1

訳 「讃岐の国は国柄のせいか見ても飽きない。土地の神様のせいか大変貴い。天地日月と共に満ち足りていく、神様のお顔としてうけついで来た中のみなとから船を浮かべて、わたしが漕いでくると、時つ風が大空に吹くので、沖を見るとうねりくる浪がたち、岸を見ると白浪が騒いでる 云々」

玉藻は讃岐にかかる枕ことばです。その讃岐は温暖な気候と、風光明媚な場所としても万葉集にも歌われています。

 和讃に「法亀五年のみな月の 紫雲たなびく朝ぼらけ 常世の闇を破りつつ 産家に清き 声ありき」
 空海は讃岐の国司、佐伯善通、玉依御前との間にお生まれになりました。時に光仁天皇の御代、宝亀5年6月15日でありました。

 丁度その頃の時代は、1300年の昔、絢爛と咲き乱れた文化の花は、まばゆいまでに奈良の都を彩 っていました。それは仏教文化と大陸文化の所産でありました。皇室の厚い庇護と、多くの人々の深い憧れとは、自然に仏教に国家的地位 を与え、都には東大寺をはじめ多くの伽藍が建立され、地方には国分寺、国分尼寺などのお寺が建てられた。特に東大寺には世界最大の大仏が安置されました。

 このようにして国民の信仰の帰趨と、中央集権制の強化と相俟って国威をいやがうえにもさかんにしました 。

しかし絢爛たる奈良朝の文化も、政教混同によって横行する僧侶と、政権をほしいままにしようとする貴族階級の争いによって政治、経済、外交、宗教のあらゆる面 において疲弊し、暗雲が漂う、そうした世の中でありました。
 そのようなときに空海、後の弘法大師が讃岐(香川県)屏風ヶ浦でお誕生なされました 。



出典※1 教養文庫「万葉の旅 下」


数字をクリックすると、その話が見られます。

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16 その17 その18 その19 その20
その21 その22 その23 その24 その25 その26 その27 その28 その29 その30
その31 その32 その33 その34 その35 その36 その37 その38 その39 その40
その41                  

 
 
▲このページのトップに戻る copyright(c)2003-2009 KOUKENJI All right reserved.