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■ 心の講話バックナンバー 2008年分 |
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こころのはなし(第134回)2008.12.01
これから忘年会の季節です。罰金刑も従来まして重くなっていますがそれでも飲酒運転は無くなりません。
11月17日の新聞でも酒に酔って運転していた警視庁総務部の警視を酒酔い運転で逮捕したと報道していました。一泊二日の予定でキャンプ場で行われたレクリエーションに参加、バーベキュウーなどして飲酒、県道で飲酒運転をして、当て逃げ事故を起こしてしまいました。容疑者は飲酒運転撲滅運動の旗振り役をしたこともあり、交通部門のベテランだったと報じています。
このような交通運転の撲滅役の人がと思うのですが、飲みすぎると理性をも失いかねません。ですからたいがいの宗教では飲酒を禁じているのです。これをふおんじゅ不飲酒戒といいます。
法句経247番に、「またどんな人でも、穀酒・果酒を飲むことにふけ耽るものは、これすなわち、この世の中で、自身の根を掘るものである。」と規定されています。ここで仏教の飲酒についての考え方を宮坂宥勝先生「真理の花束 法句経」現代人の仏教 筑摩書房から見て生きたいと思います。
少年僧を戒めた「沙弥の十戒」の第5にも「穀酒・果酒、強い酒に沈酔する状態を禁ずることの学処(戒)があります。「飲酒を制すること」をこよなき幸せの中に数えています。
ここで言う穀酒とはお米などの穀物から作った酒、果酒とは果物を醗酵して作った酒を指します。これらの酒を飲むことに「ふけ耽
る」のを戒めている点に注意をしたいと思います。
十善戒の中の殺すことなかれ、盗むことなかれ、貞潔であれ、いつわることなかれ、の四つの戒めは、それらの行為そのものが罪悪であるものについての禁制です。昔から仏教では殺すなかれ・盗むことなかれ・貞潔であれ・いつわることなかれの四つをしょうかい性戒といい、酩酊することなかれと言うのはしゃかい遮戒といって、その罪を一段と軽く見ています。さえぎ遮とは「さえぎる」という字を書きます。飲酒するというのは行為自体は善でも悪でもないけれど、飲酒のほかの犯罪をともないやすいからです。これが仏教の飲酒に対する見解です。
釈尊の時代にガンジス川中流域地方の都会には、すでに居酒屋があったようです。酒はとかく自制心を麻痺させがちです。自制をもっとも強調する釈尊の教えからすれば酒をつつしまなければならないということは当然のことですけれど、また飲酒によって健康を害する場合も少なくはありません。
自分の健康を考えて、せめて節酒するということだけでも、現代人のしゃかい遮戒(さえぎるためのいましめ)の実行になると思います。
と書かれています。飲酒は座を持ったり、人間関係を円滑にする一面ももっていますが、反面酒に飲まれると理性も失い、大失態を犯すことにつながります。ご用心・ご用心!
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こころのはなし(第133回)2008.11.15
暦では見ると11月7日が二十四節気では立冬に当たりました。
立冬の頃の自然現象を観察して、水始めて氷(こお)るとなっています。
さらに新暦の11月13日から17日頃を「地始めて凍る」中国この立冬の頃の自然現象を観察して「地始めて凍る」と表現しています。上記の「水始めて氷る」の氷ると「地始めて凍る」の凍るとは同じ「こおる」でもどのように違うのでしょうか。
「凍る」は水以外のものがこおる
「氷る」は水がこおる
ことを意味します。しかし、私の住んでいる四国高松では、このところ気温が20度前後ですのでまだまだ氷を見ることはありませんし、一冬中でも一度あるかないかだと思います。このような暖かさですから紅葉が充分に色づきません。小豆島の寒霞渓(かんかけい)は美しく紅葉すると思いますが、ほかでは期待できません。
この寒霞渓は香川県小豆島の東部にあり名勝に指定されています。安山岩の奇岩、断崖からなっています。特に紅葉が有名で山頂からロープウエィで見る紅葉は素晴らしいものがあります。
私は11月8日9日と中学校の同窓会に参加いたしました。
行き先は岐阜県下呂温泉です。私は香川県高松市在住ですから、集合場所が私の出身地である神奈川県藤沢市辻堂駅前にバスが配車されます。そのために集合日前日の7日に辻堂に一泊し、朝6時40分に集合しました。バスが発車してから友人たちとしばらくはご無沙汰を謝したり、あれこれと近況を尋ねたりしていましたが、なんといっても道中が長い、東名高速道路に入り浜名湖を通り、豊田JCT
・名古屋IC・小牧JCT・一宮JCTから東海北陸自動車道を通り、郡上八幡から九頭竜湖に到りました。この九頭竜湖に到る山々は紅葉の真っ盛り、赤、黄、茶と見事なまでの紅葉です。まさに蜀江の錦かと形容されるにふさわしい景色です。蜀江の錦とは、中国の蜀(現在の四川省)から産出した錦。蜀は漢代から蜀錦の名で知られた錦の特産地で、その伝統は近世まで続き長命でありました。弘法大師の著作の中にも「蜀江の錦」ということばが出てきます。
宿泊の下呂温泉まで、美しい山々を見ながらしっかりと紅葉を楽しみました。片道のバスの走行距離は550キロにもなました。
下呂温泉に一泊した次の日はまた車中の人となり、恵那峡の川下りを楽しみ、浜名湖インターから東名高速道路をひた走り、夜9時に無事終着辻堂駅に着きました。
聊か強行軍でしたが、素晴らしい紅葉を見ることが出来ましたし、旧友とともに忌憚のない会話が飛び交い、命の洗濯が出来ました。この心の講話も2日遅れで書き上げました。土、日が多忙でご迷惑をおかけしました。
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こころのはなし(第132回)2008.11.01
10月30日・31日に高野山真言宗の若手布教師が年に一度集まって布教の勉強会をいたしました。今回この勉強会が神奈川県茅ヶ崎市長楽寺で行われ私も年配ですが出席いたしました。この布教師と申しますのは、真言宗の教え、また弘法大師の教えを宣布流布(広める)する役目を持った人たちです。その教えを広める方法として昔から説教が行われてきました。どんなにインターネットや情報伝達の方法が進化しても、やはり効果的な人への伝達方法は説教が一番だと思います。この説教はじかに相手の視聴覚に訴えることが出来ます。やはり情報伝達のメディアが発達してもシンプルな方法ですが説得力が違います。文字や映像でも伝えることが出来ますが、感情や微妙なニュアンスが伝えられません。
説教の歴史は1,200年にわたって培われてきたものです。はじめは法華経の解釈から始まり、その法華経を講義する方を講師(こうじ)と呼び、講師のお話の前にそのお弟子さんが話をする。講師の前にお話をするので御前座(おまえざ)と呼びました。それが後の落語の世界で前座ということばに代わりました。ところが御前座を務める弟子は聴衆から受けをとろうと、面白い話をする。どうしても講師の話より話が面白い弟子の話が受ける。弟子もより人気を博そうと難しい法華経の話より、浄瑠璃や歌舞伎などの大衆演芸の要素を取り入れていったものですから、この方が一般大衆向けの話になる。そこで落語という分野が出来てきたのです。
落語の開祖は安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)といわれています。策伝の師匠は甫寂(ほじゃく)いう方で、浄土宗西山派禅林寺36世、58歳で亡くなられましたが、この甫寂は優れた人格と見事な弁舌だったといいます。
当時の世相は信長、秀吉、家康によって平和な時代が徐々に訪れようとしていましたが、永い戦乱の世にあって民衆の人の行うべき正しい道は廃れていました。このような時代では仏の道を説く布教は難しい。もはや難しい教相学では人が集まらない。民衆の求めるのは、楽しい話、心温まる話です。
安楽庵策伝は甫寂について10余年間「絵解きまんだら」学び、さらに自分の才能を加えて独特の技術を考案しました。これが「策伝まんだら」といわれるものですが、江戸時代の入ってからあまりの遊戯性の露骨さから自然に亡びてしまったといわれています。しかし、この後浄瑠璃説教、浪花節説教、さらには琵琶、講談、歌舞伎などあらゆる芸を説教の中に取り入れ、いわゆる「芸風説教」が盛んになりましたが、明治時代以降芸風説教は宗派内から批判され、ついには大正時代にほとんど絶えてしまいました。しかしながら今日まで伝えられているのは1,200年にわたって受け継がれてきた布教の心であり話術なのです。いまもう一度布教の原点を学び、時代にマッチした話を確立しようと高野山真言宗の若手布教師が毎年講座を開いているのです。今年で7年目になりました。
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こころのはなし(第131回)2008.10.15
来年、平成21年は弘憲寺が高松のはらの庄 (現在高松市錦町)に、讃岐の初代藩主生駒親正公の菩提を弔うために創建されてから400年になります。弘憲寺の前身のお寺は法勲寺といい、今から1300年前の白鳳時代に建立されました。 弘憲寺は生駒親生公が亡くなり、6年後の7回忌に合わせて息子の生駒一正によって建立され、親正公の法名海依弘憲大禅定門の中から弘憲の二字をとって弘憲寺といたしました。
生駒家は、天正15年(1587)、生駒親正公が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて入り、現在の高松市の海浜地に城を築いたのが現在の高松城です。
生駒家は、寛永17年(1640)までの四代54年にわたり讃岐をおさめましたが、生駒藩では三代藩主・正俊が36歳で急死し、当時11歳の高俊が後を継ぎます。しかし、11歳という若さであったために外祖父である伊勢津藩主・藤堂高虎が高俊の後見役になります。
しかし、寛永17年(1640)、生駒高俊はお家騒動により改易となり、出羽の国矢島藩(現在の秋田県由利新庄市矢島町)1万石に転封となりました。このお家騒動を生駒騒動といい海音寺潮五郎の著作「列藩騒動禄」に出ているそうです。さて、この生駒騒動を頭に入れていただいて、次の話に移ります。
先日、家内の妹からファクスが送られてきました。日本産経新聞の文化欄です。そのタイトルに「助さん」なぞに満ちた人生とあり、その横に実像を追い40数年、奈良県宇陀出身・漫遊歴なし・人柄誠実とあり、但野正弘さんが書かれています。
但野さんは40数年「助さん」の実像を調べ続けてきた方です。
この「助さん」というのは水戸の藩主の佐々介三郎宗淳(むねきよ)そうです、時代劇で有名な水戸黄門のお供役です。この助さんの生涯はわからないことだらけでそうです。まず出身地からして不明、禅僧として過ごした青年期について知る手がかりはほとんどないのが実状だそうです。黄門さまこと光圀公に仕えたとされる後半生にしても漫遊の印象とは程遠く、彼はおくれだって各地を歩くどころか、一緒に過ごした時間もあまり多くはなかったようですと書いています。
助さんの父。直尚は讃岐(香川県)生駒藩に仕えていたというのです。ところが生駒騒動のお家騒動に巻き込まれ、奈良県の宇陀地方に移り住んだといわれています。舟で瀬戸内海を渡る逃避行の際に助さんは生まれたといい、墓碑文に「舟を一小島に泊めて君を生むと」と記されているがそれ以上はわからないとのことです。
それにしても「助さん」の父親が生駒藩に仕えていたとは驚きです。生駒騒動によって藩を離れ、相当ご苦労をなされたのではないでしょうか。逃避行の時に助さんが生まれ、奈良県の宇陀に住んでそこで成長したのでしょうか。助さんは15歳で出家し、還俗後に水戸藩士となり、59歳で亡くなられたそうです。弘憲寺に生駒藩禄高帳が保存されていますので、その中から佐々直尚の名を探してみたいと思います。
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こころのはなし(第130回)2008.10.01
最近閣僚による不適切な発言が相次ぎます。農薬に汚染され、カビの発生している事故米の不正転売問題で、太田誠一前農林水産大臣は9月12日のBS放送の番組収録で、次のように発言しました。「人体に影響がないことは自身を持って申し上げられる。だからあんまりじたばた騒いでいない」と発言しました。
さらに番組で「焼酎は蒸留する過程で有害なものが分かれているから(有害性は)ほとんどない。中国餃子の(混入農薬の)濃度に比べて60万分の1の低濃度」と発言、さらに「いい加減に問題を扱っているんだろうといわれそうだから、あまり安全だ安全だと言わない。言わないんだけど安全だ」とも述べ、番組後、「軽視しているのではなく、沈着冷静に対応していくということをいっている」と発言の真意を釈明しました。
また麻生内閣発足後5日で問題発言を繰り返した中山国土交通相が引責辞職いたしました。中山国交相は「日本は単一民族」発言や、成田空港反対闘争を「ごね得」と発言し、いったんは撤回しましたが、9月27日、宮崎市での自民党会合などで「なんとか日教組は解体しなきゃあいかんと思っている」と述べました。
国交相の発言の要旨を見てみたいと思います。(四国新聞)
1、(成田空港反対闘争は)ごね得というか、戦後教育が悪かった。公のためにある程度は自分を犠牲にしてでもというのがない1、日本は随分内向きな、単一民族というか、あんまり世界と(交流が)ないものだから、内向きになりがち
1、大分県教育委員会の体たらくは日教組(が原因)だ。
日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから、大分県の学力は低い
1、何とか日教組は解体しなきゃいかんと思っている。民主党の最大の支持母体だ、
1、 日本の教育の「がん」である日教組をぶっ壊すために、わたしが頭になるんだという決意を示した。
まあ、色々発言したものです。国会議員はもっと見識と常識をわきまえている良識人の集まであると思っていましたが、どうもそうではないようです。
釈尊が説かれた、法句経の100番にこのようなお言葉があります。
「無意味なことば語からなることばは、たとえ千あるにしても、聞いて静まりをえる一つの有意義なことば語の方がすぐれている。」
仏教が言葉を尊重するのは、ことばが人格のあらわれであるという考え方にもとずくものです。無意味なことばというのは、どれだけ口のはし端にのぼっても何ら人に利益を与えることはありません。本当に有意義な言葉というのは、人の心を安らかにさせ、静まらせるものでなければならないと思います。
言葉が氾濫している今の時代においては、とくに反省させられるものがあります。たましいを揺さぶり、考えさせられるような言葉、あるいは風雪に耐えて静かに生き残っていくような言葉は本当にわずかです。
仏教の経典をスートラといいます。スートラとはもともと金言名句のような短い言葉を指しています。できるだけ言葉の表現を節約して、しかも短いうちに的確に真理をいいあらわすようにしたのが、経典の本来のあり方です。
ブッタのことを釈迦牟尼といいます。牟尼はせいじゃ聖者という意味で、もともと沈黙する人という意味をもっています。したがって、釈迦牟尼はサーキャ、釈迦族から現れたせいじゃ聖者ということです。せいじゃ聖者が沈黙を守るのは、もちろん知らないからではなく、「無益なことば語」を語らないということです。しかし、ひとたび口を開くとき、せいじゃ聖者のことばは人々の心を静まらせるに違いありません。
いつの時代にも虚偽のことばは多いけれども、真実を伝えることばはまことに少ないものです。私たちは無駄なことば語を口にすることは数多いけれども有益なことばを与えてやることは稀なことです。そういう意味で、この法句経100番に示されたブッタのことばは、まことに得難いものとものであるといわなければなりません。
引用文献 現代人の仏教 心理の花束 法句経 著者宮坂宥勝
筑摩書房
引用資料 9月28日付け 四国新聞
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こころのはなし(第129回)2008.09.15
9月に入りお寺の枯山水の庭園に、橙赤色の野萱草(のかんぞう)の花が一斉に咲き始めました。野萱草はユリ科の多年草、中国原産で葉は細長く線状。ユリに似た花を一日だけ開きます。また、ヤブカンゾウや同じ種類のニッコウキスゲ、ユウスゲなどの園芸品種を総称して萱草といい、萱草は別名忘れ草ともいい、今昔物語集(31)に「忘れ草という草こそ、其れを見る人、思ひをば忘れるなれ」と広辞苑に見えます。
私の叔母は既になくなっていますが、関西女流文学賞を受賞した歌人でした。叔母がある時、野萱草は別名忘れ草といい、万葉の乙女たちが恋をして、夏の日の恋を忘れるために野萱草を植えたのだよ、だからこの花は一日だけ開いて、夕方には萎んでしまい、次の蕾が翌日に咲く、可憐な花なのだよ、以前は故郷である湘南、江ノ島片瀬海岸から腰越を通り、七里ヶ浜に到る山際に群生していてそれは綺麗だったと話していたことを覚えています。
さらに詳しく野萱草を調べてみると、野萱草は茶花でもあります。本州、四国、九州の陽光の地に生え、根は一部がふくらみ、横に伸びていく葡匐枝(ほふくし)がある。葡匐とはからだをふせるという言う意味で、根は地中にからだを伏せるように横に伸びるという意味です。野萱草は一日花、変種の蝦夷黄菅(えぞきすげ)は昼夜にわたって咲く性質があります。和名は原野に見かけることが多いので名づけられたものであろうといわれています。
お寺では8月末から9月いっぱい咲きます。野萱草が咲きますと、やっと暑い夏も終わりだなと感じます。特に香川県は7月4日の梅雨明けからまとまった雨もなく、また四国の水がめである早明浦ダムの貯水率は0パーセント、現在香川県は早明浦ダム発電用水を使いどうにか断水を免れています。その発電用水も放流14日目で82.8パーセント減る一方です。最後の頼みの綱は、台風です。台風13号が14日15時には台北の北北西約40キロにあって、17日15時には九州の南に達すると予想され、この進んでいくと四国が台風圏内に入り、早明浦ダム周辺では相当の雨が期待できます。そうしますと一気に渇水が解消されるのではないでしょうか。しかし、台風13号は勢力が相当強く、台風の被害も心配されます。雨が降っても災害がありませんようにと願うばかりですが、人間というものは身勝手なもので、結局は死んでも命がありますようにと願うのと一緒で、すべてがうまくいくようにと勝手なことばかり考えるのです。お寺の庭園にある野萱草だけが秋風に揺れながら無心に咲いています。
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こころのはなし(第128回)2008.09.01
以前貝原益軒の養生訓の中からお話をしたことがあります。
「養生」とは、日々の行動をつつしみ心穏やかに生活することです。この養生の考え方はいまの社会では逆行しているかに見えます。なぜならばいまの社会は欲望が突出している社会だからです。
毎日のテレビ広告、コマーシャル、新聞の折込、あらゆるメディアを媒介として、私たちの欲望をあおっています。
釈尊はこの欲望渦巻く社会を「世の中は燃えている」と表現しています。この世の人々の尽きることのない欲望がめらめらと燃える火に譬えたのでしょう。
欲とはほしいと思う心、貪りほしがる心です。いつもその欲望が叶えられずに欲求不満の心にさいなまれています。これが今の人々の姿ではないでしょうか。欲は欲しいと思う対象があるからです。その欲しいという対照がなかったら欲望が起こりません。
対照があってもその対象に執われことなく、執着することがなかったなら欲望は起こりません。この執われることによって苦しみや、憂いが生じ、苦悩するのです。
平成20年3月12日の新聞に次のような記事が載っていました。
不動産賃貸会社などを経営していた父親の相続財産のうち59億円を申告せず、相続税28億円を脱税したとして大阪地検特捜部は相続税違反(脱税)の疑いで不動産賃貸業社長の姉妹を逮捕したと報じています。
容疑者は自宅物置などに58億円もの現金を段ボール数十箱などに隠匿していました。調べによると、平成16年10月に父親が87歳で病死。容疑者ら8人が法定相続人となったが、相続財産計75億のうち約16億しか申告せずに計59億3千万円を隠し、相続税28億6千万円を脱税した疑い。国税局の調査で、自宅に現金58億円が保管されていることを確認したとあり、大半の現金は段ボールなどにつめられ、かつてはガレージとして利用していた物置に隠されていたといいます。
この調べに容疑者は「自宅に現金を保管していたのを忘れ、申告も忘れていた」などと否認したとあります。
驚くことに58億の現金を段ボールに入れて物置きに隠し、保管していたことを忘れたなどということが有り得るでしょうか。私などは例え1万円を臍繰っても、隠した所は先ず忘れないと思います。欲の皮が突っ張ってもここまでくれば只々ご立派という外はございません。こうなると完全に欲ボケの世界です。
欲の赴くままに生きていくと常に欲求不満に苛まれ、精神的抑圧感(ストレス)を溜めながら生活していかなければならなくなります。これでは心安らかな日々は訪れません。釈尊は欲望の解脱を説いています。解脱とはこころの開放という意味です。
釈尊は人間の欲望に際限がないことを説き、それを超越することによってほんとうのしあわせや喜びが到来することを説いています。
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こころのはなし(第127回)2008.08.15
ことしのお盆の暑さは異常なほどです。連日35度を記録し、お盆の檀家回りは事の外厳しいものでした。檀家回りは棚経ともいいますが、昔は各家に仏壇のほかに精霊を御祀りする精霊棚を作り、その場所にご先祖の位牌をお祀りしました。お坊さんが参りますと家には上がらず、外から精霊棚に向かって回向したものです。それが何時の頃からかその精霊棚が無くなり、家の中の仏壇にお参りするようになりました。仏壇はその家の一番神聖な所にお祀りしますので奥まった風があまり通らない所です。そこでお経を唱えますから今年ほど暑い思いをしたことはありません。家の人は蝋燭の火が消えてしまうからといって扇風機も止めてしまいます。今年のお盆は苦行でした。
香川県は7月4日に梅雨明け宣言が出され、その後8月15日までほとんど降雨がありません。四国の水瓶といわれる早明浦ダムも貯水量が減り続け、ついに30%を割り込んでしましました。
その結果、香川用水が第三次取水宣言に入りました。
早明浦ダムは高知県四国山脈にあります。このダムの水を徳島県に流れる吉野川に流し、徳島県阿波池田にある香川用水の取水口から阿讃山脈を抜けて香川県に引いています。
香川県は第三次取水制限を受け、井戸水の水質検査を通常の半額にしました。渇水の長期化、深刻化が懸念される中、市民に身近な水源の有効利用を呼びかけています。2005年、2007年の大渇水時と同様の措置。高松市渇水対策本部が解散するまで継続されます。
また県では香川用水の第三次取水制限を受け、県は緊急支援策として18日から中小企業向けの緊急融資を実施する。(8月14日付けの四国新聞)とあり、渇水が市民生活に重大な影響を及ぼしています。
しかし、香川県民は渇水でもあまり慌てた様子が見られません。いつも断水の際になって、台風が来て一度で早明浦ダムが満水になった事もありますし、また何とかなると考えているのかもしれません。ところが農家の方は深刻です。水不足になって畑の野菜が枯れてしまいます。結局は野菜が高くなり、一般家庭の台所を直撃します。原油高によっての物価の値上がり、さらに野菜類の値上がりで家庭でのやりくりは大変だと思います。
人間というものは勝手なもので、梅雨に入ると早く梅雨が明けてほしいと思うものです。梅雨は本当に鬱陶しいですよね、毎日じめじめとして何でもカビが生えます。普通つゆを梅雨と書きます。梅の実が黄色く熟すから梅雨とかいてつゆ、もう一つはカビが繁殖するので黴雨と書いてつゆと読みます。黴はかびという字です。黴が繁殖する時期なので黴雨と書いてつゆと読ませています。また五月雨(さみだれ)もつゆです。五月雨のサは五月、ミダレは水垂(みだれ)の意味です。このさみだれは陰暦の五月頃に降る長雨ですからつゆの時期です。ですから五月雨は梅雨を指し、芭蕉は奥の細道で「五月雨をあつめて早し最上川」と詠っています。
これからは鬱陶しい梅雨だと嫌わずに、この梅雨も天の恵みと感謝したいものですが、喉もと過ぎれば熱さを忘れるで、苦しかったことも過ぎ去れば全く忘れてしまいます。いま香川県民は渇水で苦労していますが、水の有難さをしっかりと胸に刻んでおきたいと思います。
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こころのはなし(第126回)2008.08.01
心の講話の123話で夏安居(げあんご)についてお話をいたしました。インドの雨期は約3ヶ月続くといわれています。お釈迦様の時代、その雨期の時にインド各地を遊行していた僧侶たちが僧院に帰り、静かに修行しながら過ごします。雨期の期間安らかに居住するので夏安居、または安居と申します。なぜこの雨期の時僧院で修行するのかと申しますと、雨期の時はたくさんの虫たちの活動、繁殖の季節でもあります。そのような時に僧侶が野山、または平地を歩くと、その虫たちを踏み殺すこともあろうかと思います。また、毒虫もいるかも知れません。毒虫に刺される危険性もありますので、この雨期の期間中だけ、僧侶が一堂に集まり静かに修行をするのです。
仏教では生きとし生ける命をむやみに損なわないということが根本原則です。人間の命はもちろん、あらゆるいのちあるものあるもの、また非情(感情を持たないもの)例えば草木などです。そうしたすべてのものに限りない愛情をそそぎ。すべてのいのちを大切にする。これがみ仏の教えです。
私たちが僧侶になるために修行しますが、その修行の期間中、御仏さまにお供えする清水(せいすい)を夜中の丑の時(夜中の2時)丑三つ時に伽藍の中にある閼伽井戸(あかいど)に汲みにまいります。閼伽(あか)とは清らかな水という意味と、仏前に供えるものという意味です。伽藍(がらん)とは僧侶たちが住んで仏道を修行する、清浄閑静な所を指しますが、後に寺院の建造物の称となりました。その清水を伽藍にある井戸に二人の僧が汲みにいくのです。井戸に到りますと、般若心経と唱え、水神様の真言を唱えてから静かに釣瓶を下ろし、清水を汲み上げます。
この閼伽井戸に夜中の2時に汲みに行くのには理由があります。
この丑三つ時がもっとも水が澄みわたるときなのです。
水が澄みわたるということは水の中に居るであろう微生物も静かに寝ている時でもあります。その微生物が寝静まっている時に静かに水をくみ出すと、その微生物のいのちを損なわなくてすむわけです。さらに桶に汲んだ清水を道場にある流し場で、白の晒し木綿で水を濾します。これは静かに汲んで来た水の中に微生物が入っているかもしれない、そこでそのいのちを損なわないように木綿の布で濾し、濾した布を再び水の中で漱ぎ、微生物を逃がしてあげるのです。しかし、私たちの肉眼ではその微生物は見えませんけれど、尚且つ生命を尊重する意味からこのような作法を淡々と行うのです。
また真言宗では錫杖(しゃくじょう)という仏具を使います。木の持ち手の上に金の輪が幾つもついていて、この錫杖を振るとジャラジャラと音がいたします。現在は般若心経を唱える時などに錫杖を振りリズムを取ったりします。この錫杖は本来僧侶が旅をするときに杖代わりに持って歩くもので、錫杖の頭の金の部分がジャラジャラとなると道に這っている虫たちがその音に驚いて逃げ出します。これはむやみに殺生をしないための配慮なのです。仏教がいかにものの命を大切にしたかお分かりいただけたと思います。
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こころのはなし(第125回)2008.07.15
今年は四国での梅雨明けが早く、連日30度を越す猛暑です。湿度も高く法衣を着ける我々には過酷な日々です。先日7日から9日まで爽やかな信濃路を車で走りました。
信州は母の故郷です。一度ゆっくり母の故郷を訪ね、母が女学校時代によく登ったという駒ケ岳に行ってみたいというのが永年の夢でした。母は平成4年に亡くなりましたが、亡くなるまで病室のベットのところに駒ケ岳の千畳敷から見た宝剣が岳の写真パネルを置いていました。亡くなるまで望郷の想いがあったのでしょう。
その母が登った駒ケ岳に一度登ってみたいという思いを私は持っていました。ちょうど駒ケ岳の麓の駒ヶ根市に、叔父、叔母が健在ですし、従兄弟たちが居りますので、家内と二人で自家用車で行くことにいたしました。
朝の7時に家を出発して一路長野を目指して高速道をひた走りに走り、淡路島の明石大橋の近くにあるパーキングに入り一休み、再び走行開始して琵琶湖を見渡せる大津パーキングに入り、名神高速を走り、さらに小牧を通り恵那峡パーキングに入りました。
ちょうど昼時でしたので昼食を取りました。私は大の蕎麦好きですので蕎麦を注文しました。寺にいれば私は必ずというほど自分で蕎麦を茹で食します。讃岐は皆さんもご存知の通り、讃岐ウドンが名物です。確かに讃岐ウドンは美味しいですが、食の回帰現象でしょうか、今は無性に蕎麦が食べたいのです。現在は岩手県の蕎麦を取り寄せていますが、自分で蕎麦打ちをしたいと思い、何回もチャレンジしましたが納得できるものが出来ず、最近簡単に手順だけ踏んでいけば打てる蕎麦打ち機械を購入しました。
ところが最初は何回かこの機械で打ちましたが、製麺する時間が三,四十分かかりますので面倒になり、最近では取り寄せの生めんを食しています。
さて、昼食を済ませて一気に駒ヶ根インターまで走り降りたところで従兄弟が出迎えてくださいました。
真っ先に叔父さんの家を訪問、しばらくお話して飯島町の叔母の家に行き、夕方から従兄弟たちも集まり会食をしながら談笑ました。その夜は中央アルプス駒ヶ根高原リゾートリンクスという素敵なホテルに宿を取り、露天風呂に入り高原の空気を胸いっぱいに吸い込みました。
翌日起きてみると雨が降っています。結構激しい雨なので駒ケ岳に登るのは無理かなと思っていましたら従兄弟夫婦が迎えに来てくださり、タクシーで1662メートルのしらび平駅に到着、ここから駒ケ岳ロープウエィで一気に終点の千畳敷駅に到着です。
この千畳敷駅の標高が2612メートルです。まだ残雪が残り、桜の花が咲いています。気温13度、下界とは全く異なる景色です。周りを眺めると駒ケ岳、中岳、宝剣岳、などが一望できて、8月になるとこの千畳敷が高山植物の花でいっぱいになるそうです。
母が何十年前に駒ケ岳に立って見た景色をいま私が見ている。
何十年前に母がこの場所に立って踏んでいった同じ石を私が踏んでいると感じた時、思わず涙が出ました。その日の昼に下山、次の目的地の中野市に向かいました。
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こころのはなし(第124回)2008.07.01
今月17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道したことについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」と強く抗議した。
「死に神」と鳩山法相を表現したのは、18日付朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」。約3年の中断を経て死刑執行が再開された平成5年以降の法相の中で、鳩山法相が最も多い13人の死刑執行を行ったことに触れ、「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」とした。
会見で、鳩山法相は「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。http://blog.goo.ne.jp/kazu4502/e/22584ccfe723d622d4512f8e12135116
上記ホームページ引用。
とあり、物議を醸し出しました。皆さんは死刑執行に対してどのような意見をお持ちでしょうか。日本は法治国家です。国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家です。法によって国家の秩序が守られ、国民の平和と安全が保障される社会です。法務大臣が刑の執行にサインをするということは当然ありうることです。それを死神と表現する朝日新聞が間違っていると思います。
しかし、生命の問題から死刑賛成か、反対かということはそれぞれ個人が重く受け止めなければならない問題です。
それでは、仏教ではどのような立場を取るか宮坂宥勝氏(注1)の著作現代人の仏教2、「真理の花束法句経」に次のように書かれています。仏教は死刑反対の立場を取ります。その根拠となるのが法句経の129番です。
「すべての者は、暴力に怯える。すべての者は、死を恐れる。自分に引き比べて殺してはならぬ。人をして殺させてはならぬ。」です。
経典の中にこのようなことが出てきます。あるとき、一人の比丘が、比丘というのは男子の修行僧を指します。この比丘が刑場にいって、行刑者に、「彼を苦しめてはならぬ、一撃で殺せ」と言いました。行刑者はその通りに一撃で刑人のいのちを奪ってしまいました。この比丘に対して、釈尊は教団追放を命じました。法句経に「人を殺させてはならぬ」とあるのはこれで、それは最も重い罪に問われるのです。仏教の死刑反対はその深い生命尊重の念に根ざしています。
いかなる理由があろうとも、人が他のものを殺し、あるいは殺させることは赦されません。その根拠は「自分に引き比べて」という事にあります。自分が殺される立場にたった場合に、どうして他人を殺すことが出来るであろうか。これこそが仏教人道主義(注2)の根本原則であると述べていています。
我々は自分の命や他の命、またこの地球に存在する生きとし生けるいのちの大切さを自覚しなければなりません。
注1 宮坂宥勝 1921年長野市に生まれる。東北大学文学部印度学科卒業
文学博士 サンパウロ大学客員教授 名古屋大学客員教授 1999年
真言宗智山派管長 総本山智積院化主に就任。
著書 仏教の起源 インド学密教学論考 ブッダの教え、スッタニパータほか多数。
注2 人道主義 人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段として非人間的なもの(例えば残酷行為)を排斥する。博愛主義とほぼ同義。
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こころのはなし(第123回)2008.06.15
お釈迦様の時には「夏安居(げあんご)」という期間がありました。夏安居というのは「安居(あんご)」ともいいます。
この安居は一定の時期を定めて、静かな僧院で道心を養い、瞑想をしたりして過ごします。本来雨期のことをさしますが、インドにおいては雨期は夏であり、雨期の間に安らかに居住するのでこの名があります。
この安居は雨期の期間中は特に虫や昆虫、生きものの成育のときです。修行中の僧侶が虫などの生命を損ない傷つけるかもしれません。そこで雨期の期間は遊行に出ていた僧侶が僧院に帰り、その僧院で瞑想をしたりして雨期を過ごします。
この安居に二種類あります。前安居と後安居です。前安居とはインドの暦で4月16日に安居に入り、7月15日に終わる。後安居は5月16日に始まり8月15日に終わります。特に翌日の8月16日は自恣(じし)の日といたします。自恣とは夏安居(げあんご)の最後の日に、集まっている僧が互いに罪過を指摘し、懺悔(さんげ)する日です。懺悔とは過去の犯した罪を神仏や人々の前で告白をして許しを請うことです。要するに反省の日です。
安居はインドにおいては釈尊以前からバラモン教徒の間で行われていたといいます。日本においては聖徳太子、大和に安居院を建て、僧侶を安居せしめたといいます。また日本書紀には天武天皇即位11年の夏、はじめて僧尼を宮中に請じ、安居せしめたとあります。
真言宗においては弘仁4年(813)淳和天皇のとき、教王護国寺(現在の京都東寺)で安居会(あんごえ)が始まりました。ことに弘法大師の上奏により毎年恒例として行うようになりました。
和歌山県高野山ではこの伝統を引き継ぎ、毎年7月25日頃に
安居会がはじまり、各地から集まった僧侶が下界の暑さを忘れ、涼風の中で勉学に勤しみます。
特に坊さんの世界では昔から梅雨の時期である6月に研修会がよく開催されます。これは安居会の伝統を引き継ぐものと思われますが、一方梅雨の時期は田植えがあり農繁期の時です。農繁期はあまり法事などがないということで研修会はこの時期に集中します。
私は6月に入り、東京高輪にある高野山東京別院で開催された
研修会に参加いたしました。研修のメインテーマは「マンダラ〜その命にかえる〜」です。
基調講演に筑波大学名誉教授村上和雄先生が「命の暗号」と題してお話くださいました。先生は83年に高血圧の黒幕である酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功し、さらに99年にはイネの遺伝子解読に成功し、日本を一気にこの研究のトップへ押し上げました。マックスプランク研究賞、日本学士院賞等を受賞されています。
先生は私たちの命は38億年前に誕生し、たった一個の細胞が今日までその命が途絶えることなく続いている。私たちはサムシング・グレート(大いなる存在)によって生かされている。また大いなる存在がなければ生きられないというお話をされました。
真言宗ではこれを大日如来の大いなる命と説きます。まさに村上先生のお話は密教の教え、弘法大師さまの教えそのものです。1200年前弘法大師は宇宙の真理を理解しておられたことに、改めて感動を覚えました。
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こころのはなし(第122回)2008.06.01
今月の言葉は江戸時代の初期、寛永7年に生まれた貝原益軒の書いた「養生訓」の中の言葉です。貝原益軒は儒学者として、また医者として福岡藩に重用された人です。この養生訓という書物は、83歳の時の著作です。この養生とは生を養うこと、自分の生命をていねいに養って、与えられた人生を全うする、ということです。今月の言葉は養生訓のなかの一文です。
人間には、喜ぶ・怒る・うれう・思う・悲しむ・おそれる・驚く・にくむ・楽しむ・ほしがる・愛するなど、さまざまな感情がある。この中で、最も品性を傷つけ、生命をそこなうものは、「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つである。とあります。
品性とはその人のひとがら。人品。人格です。その人の人格を著しく傷つけるものは「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つだというのです。
正しい宗教には必ず宗教道徳というものがあります。よく知られているのが戒律です。戒律というのは自己に対する戒めです。自発的に規則を守ろうとする心のはたらきです。その戒めが生活の正しいリズムを生みます。よく勘違いするのは、信仰をしていたら災難がなくなるとか、悪因縁が断ち切れるとか、現世利益だけを考えますが、それは間違いです。宗教は正しい心の有り様と実践を求めます。その目的はより最高の人格形成をすることにあります。信仰していたら災難を逃れられるなどということはありません。病気になる時には病気になる。死ぬ時には死ぬのです。しかし病気になった時に、絶望することなくその病気を受け入れ、こころの有り様によって生きる希望を見出し、心の安らぎを得ることが出来ます。
ひろ さちやさんの著書(読売新聞社)に「曼荼羅人正論」の上巻にこのようなことが書かれていました。ある仏教学者の家が、隣の家からのもらい火で全焼いたしました。彼は蔵書のすべてと、研究ノートや原稿を失いました。しかし、その火事の数ヵ月後、講義のとき彼は教え子たちにこう語りました。「今度の火事で、私はいろいろ学ばせていただいた。わたしの場合、隣からの類焼だったから、最初は「焼かれた」と思った。しかしね、「焼かれた」と思えば、やはり腹が立ち、復讐の心が起きる。
で、そうではなくて、「焼いた」と思うことにした。自分で焼いたと。でもそう思うと、心が暗くなって、やりきれなかった。
そこで、「焼かれた」でもなく「焼いた」でもない、ただ「やけた」と思うことにした。そうすると、事実をありのままに、淡々と受け入れることができる。自分も他人も損なわないですむ。こんなことを、こんどの火事で学びました・・・」
すばらしいものの見方であり考え方です。正しい宗教というのは私たちのものの見方、考え方を変えることだと思っています。私たちはいろいろなこだわりを持ってものを見ていますが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教であると言われています。
「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つの見方はこだわりから起こる心の一つの姿なのです。
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こころのはなし(第121回)2008.05.15
薫風南より来るという言葉があります。まさにこの言葉がぴったりの季節になりました。この二三日肌寒い日がありましたが、これから日一日と気温が上がり夏に向かっていきますが、身に付ける衣服も春の衣装から夏衣装に替わっていきます。
これから衣装が夏物になると気になるのがお腹の出具合です。昔はお腹が出ているのを社長腹といって、一種の貫禄・風格ととらえていましたが、最近ではお腹が出ていると最悪のように言われます。
このお腹の出ているのは内臓脂肪が蓄積されたものですが、この内臓脂肪の蓄積によりお腹のまわりに脂肪が付き、お腹が突き出て見えます。それだけならまだ良いのですが、内臓脂肪の蓄積によってさまざまな病気が引き起こされるといいます。このような状態を「メタボチックシンドローム」といい簡単に「メタボ」といっています。脂肪がどの部分につくかによって肥満は二つのタイプに分かれるといいます。
下腹部や腰まわり、太もも、お尻のまわりの皮下に脂肪が蓄積するタイプ、これを「皮下脂肪型肥満」内臓の周りに脂肪が蓄積されるタイプを「内蔵型肥満」と呼ぶのだそうです。この二つのタイプのうち「皮下脂肪型肥満」のお腹は前に出ていますので外見からわかりやすいのですが、「内臓脂肪型肥満」は外見ではわからないことが多いといわれます。
内臓脂肪型肥満を簡単に調べる方法として、ウエスト径、ウエスト径というのは臍まわりを測って何センチあるかということです。男性では85センチ以上、女性では90センチ以上であれば内臓脂肪型肥満が疑われるといわれております。
厚生労働省の平成16年国民健康・栄養調査によると、40歳から74歳において男性の2人に一人、女性の5人に一人がメタボリックシンドロームか、その予備軍であるということが報告されています。さて、何隠そうこの私が昨年の春の健康診断で、臍まわりが86センチありメタボと診断されました。その時の体重が65キロでした。正直ショクを受けました。これは改善しないといけないということで、スポーツセンターに行き、ランニング30分と自転車のマシンで30分間の運動と、三食の食事を少なくして4ヶ月間で成果が現われ、現在体重57キロ、臍まわりが76センチまでになりました。
生活習慣病の主な疾患に肥満症、高血圧、糖尿病といわれますが、この原因は過度の飲食にあります。わかっていても美味しいものについ手が出てしまいます。何とかこの食欲を抑えないとまたもとの体形に戻ってしまいます。しかし欲を抑えるというのは大変なことです。ダイエットを何回チャレンジしても成功しないのは欲望を抑えることが如何に難しいかということです。
江戸時代の儒学者で貝原益軒という方がいらっしゃいました。彼は83歳の時に養生訓という書物を書きました。「養生」とは自分の生命を丁寧に養って、与えられた人生を全うするということです。この養生訓に「飲み食いの栄養となる成分は人が生きていくためのただ一つのおぎないである。一日も欠かすことはできない。しかも、飲食は口や腹が欲する人の大欲である。だからこそ、つねに慎んで欲をこらえなければ節度を越してしまい病を生ずることになる」と説かれています。
欲望とは欲しがることです。また欲しいと思う心です。食欲・性欲・睡眠欲・出世欲・権力欲と欲にも色々あります。欲というのは持てば持つほど欲しくなり、買えば買うほど欲しくなり、手に入れれば手に入れるほどに欲しくなるのが欲望の本質です。
今の日本はすべてにおいて豊かさを享受しています。このような時代にこそ「小欲知足」欲望を小さくして、足りることを知ること、満足をするという生活を実践すべきです。
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こころのはなし(第120回)2008.05.01
よく今頃の季節になると床の間に「薫風南より来る」という一行が掛けてあるのを見かけます。出典は圜悟語録(えんごごろく)に見えます。正しくは「薫風自南来 殿閣生微涼」です。(くんぷうみなみよりきたりてでんかくびりょう)と読みます。
爽やかな初夏の風が南より吹き来たり、宮殿にかすかな涼しさが生まれるという意味です。
雲門文偃(うんもんぶんえん)という僧が、ある僧から「如何なるか是れ諸仏出身の処」(もろもろの仏が現出するとはどのような境地ですか)と問われて「東山水上行」(東山が水上を行く)と応えたのに対し、後の宋代の圜悟克勤(えんごこくきん)は、自分なら「薫風南より来たりて殿閣微涼を生ず」と応えるといったというのです。この語は決して季節を言っているのではなく、悟りについて述べたものですが、現在は薫風とあるので、若葉薫る今時分の言葉として捉えて床の間に掛けていますが本当は間違いです。
しかし、真意はどうあれ五月の風薫る今の季節としては最も相応しい言葉です。私も二三日前に知人に手紙を書きましたが、始めに薫風南より来るの如く好季節となりました、と書き出しました。これはあくまで転用で本来の意味とは全くかけ離れたものです。本当の意味を知らず間違って使っていることがよくあります。
例えば不思議という言葉でもそうです。よく考えても原因・理由がわからない、また解釈がつかないことに使いますが、本来は「思議しない」という意味です。意味はあれこれ考えるな、思い悩むなというというのが「不思議」です。
また、「無学の人」といえば、世間一般では学問・教養のない人を言いますが、仏教では真理を究めつくしてもうこれ以上学ぶ必要がなくなった人を「無学の人」といいます。
言葉の意味を調べると本当に面白いですね。さて、五月五日はこどもの日です。この日を端午の節句といいます。中国では月の初めの午の日、「午」は「五」と音通などにより五月五日を言うようになりました。この端午の節句にはチマキや柏餅を食べますが、チマキは古くは茅(ちがや)の葉で巻いていたといいます。
またカシワモチは柏の葉で包む。カシワは本来、食物をつつむ葉ということで、炊(かし)ぐ意のカシと、ハ(葉)の構成であると、にほんご歳時記(大修館書店・堀井令以知著)に出ています。
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こころのはなし(第119回)2008.04.15
4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りでした。お寺でも裏の畑から菜の花や椿の花を取り、花見堂の屋根いっぱいに飾りました。 前夜から家内が甘茶を煎じて参拝者に接待するために用意をいたしました。
甘茶には肝臓や胃への効果や、消炎、去痰、腫瘍修復作用などの薬効に加え、生薬の苦味を中和する役割もあり、日本では8割以上の漢方薬に配合されているそうです。またヨーロッパではリケリッツィア、リコリス、レグリスなどと呼ばれ、お菓子などに使われることが多いそうです。この甘茶の主原料はアマチャというアジサイ属の植物。砂糖の千倍の甘さを持つ物質を含んでいます。
4月8日多くの方の参拝を頂き、ある方はペットボトルを持参し、「家族の健康のために皆で飲むのです。」という方や屋敷の周りに撒くと不思議に蛇などが入らないので甘茶を頂きますという方もいらっしゃいました。この日は暖かな日和に恵まれ、桜の花が満開ですし、大自然も生き生きと輝いているようでした。
次の日、6時の鐘を撞いていると、目の前を一匹のツバメが飛び去っていきました。「おや、もう燕が今年も飛来したのかな、いつもより早いのではないだろうか、」?私は燕の飛来は5月頃と思っていましたので、早速に書物で調べてみました。
まず俳句歳時記で燕の季語を調べてみると、燕は春の社日(しゃにち)の頃に来て秋の社日の頃帰るといい、社燕(しゃえん)と言う。とあります。この社日の意味は春分・秋分の後の第五の戌(いぬ)の日、また、旧暦の2月・8月の甲(きのえ)の日ともいいます。土の神を祭って、春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼をする。春を春社、秋を秋社といいます。因みに今年の第五の戌の日を調べてみると4月4日になりますから、私が9日に燕を見たのは早いわけではなく例年通りです。昔の人は季節や鳥の生態までもちゃんと観察していたのだなと感心させられます。
燕が町々村々を飛び交うといかにも春の到来を感じさせます。
さて、産経新聞に南ひろこさんの漫画ひなちゃんの日常が連載されています。4月10日の新聞には
おじさん「おっツバメだ」
「今年もツバメがやってきたのか」
ひなちゃん「やってきた?」
おじいちゃん「つばめは暖かくなるとやって来る」
「そう桜が咲く頃にね」
ひなちゃん「じゃあお花見にくるんですかね?」
お花見しながらツバメ前線北上中!?
という会話が出てきます。
漫画家である南ひろこさんは、今頃ツバメがやってくることをちゃんとご存知でこの漫画を描かれたのでしょう。
今年初めて見るツバメを新燕というそうです。俳句の季語では初燕といいます。
誓子の俳句に
果樹園の刺ある線に新燕
と詠っています。また燕も季語です。芭蕉門下の十哲の第一といわれた宝井其角は
山の端に乙鳥(つばめ)をかへす入日かな
と詠っています。
燕には、つばくろ、つばくら、つばくらめ、乙鳥、玄鳥、といろいろと言い方があります。
地球温暖化がいわれるときにツバメはいつもと同じようにやってきて巣作りをしています。
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こころのはなし(第118回)2008.04.01
先週、27日に紀州高野山で研修会があり、前日の26日に高松を出て大阪難波のホテルに泊まり、翌日早朝6時28分発の高野山行きに乗車しました。すでに南海電鉄高野線沿線は桜の花が咲き、車上から見る紀ノ川の流れは春の陽光に照らされてきらきらと光って見えます。電車は高野口駅からゆっくりと山並みを縫いながら登っていきます。終点極楽橋に到着するとやはり平地と違い冷気が漂っています。 ここからケーブルに乗り換え、高野山参上までゆっくりと登っていきます。軌道の周りには蕗の頭が花開き、鶯の初音を聞くことが出来ました。約7分あまりの乗車ですが冷気が霊峰高野山独特の霊気に変わり、信仰の山高野山を実感いたします。
高野山上駅に到着すると、下りのケーブルを待つ人の多くが外国人の観光客です。高野山も世界遺産になってから急に外国人旅行者が増えました。その理由は関西国際空港から高野山が近い位置にあることが挙げられます。また高野山から奈良、京都と廻る周遊が出来るからではないかと思われます。 いずれにしろ高野山は国際色豊かな山上宗教都市になりつつあります。
高野山は毎月色々な法会や行事などがありますが、その中で春を告げる法会というとやはり弘法大師正御影供法会(しょうみえくほうえ)ではなおかと思います。この法会は特に真言宗では大切な法会(ほうえ)です。 正御影供とは弘法大師様の御影(おみえ)にお供え物をして報恩謝徳のために勤める法会です。
弘法大師様は御年62歳で高野山にご入定(ごにゅうじょう)なされました。ご入定とは定(じょう)に入ることです。定とは座禅をしたまま永遠に仏の世界にお入りになることです。弘法大師様は入定したのち永遠に亘って悩み苦しむ人々を救済すると信じられています。
このご入定はすでに4年前、天長9年11月12日に弟子たちを集めその志を告げられました。
これより米麦を召し上がらなくなり、野菜や木の芽をお召し上がりになり、もっぱら座禅の日々が多くなりました。
以後、前年まで宮中で秘法を修し、また奈良唐招提寺の写経供養会の導師をつとめ、さらに比叡山西塔院落慶供養をおつとめになり、その年の11月15日弟子たちをふたたび集め、明年3月21日に入定することをお告げになりました。
いよいよご入定になります承和2年正月8日から14日までの7日間、宮中真言院において後七日御修法(ごしちにちみしほう)をつとめ、天皇陛下の玉体安穏を祈り、そん後高野山にお帰りになられ3月15日に再び弟子たちを集め、入定が一週間後に迫ったことを告げ、ご入定後の心得をおさとしになられました。
それが終わりましと、香水(こうずい)に身を清められ、住房である一室に入られ、その部屋に香がたかれ、弟子たちは部屋を取り囲み弥勒菩薩のご真言を夜となく昼となく唱え、五日も暮れ六日も暮れて七日目の寅の刻(午前四時)に温容に慈悲の光をたたえながら静かに息が止またのでございます。御年六十二歳でありました。ご尊体を拝しますと、座禅瞑想のお姿でございます。
これより中陰の例にならい追善を営み、四十九日が終わった翌日、五十日目に高野山奥の院の霊窟にご定身をお納め申し上げたのでございます。このご入定された三月二十一日に百味の供物を供え、報恩感謝のまことを捧げるのが正御影供(しょうみえく)でございます。
この正御影供は醍醐天皇が三月二十一日は弘法大師の正忌であるので、真言宗の寺院は以後毎年勤めるように詔を発し、今に至るまでつとめているのです。そして今年の当番会所が弘憲寺に当たり、旧暦の三月二十一日が四月二十六日に相当しますので、その前々日の二十四日から三日間法会をつとめさせていただきます。今その準備に勤しんでいます。
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こころのはなし(第117回)2008.03.15
鐘楼に上がり6時の鐘をつく頃、空は薄明るくなっています。
いつもこの時期になると北に帰る渡り鳥の群れがお寺近くの空を渡っていきます。恰もジェツト機の翼を広げたように隊形を組んで飛んでいきます。本当に近くを飛んでいるので鐘を打つ力を弱めて驚かせないように気を使います。渡り鳥の一団が通り過ぎると必ず列からはみ出たのでしょうか、または遅れて飛び立ったのでしょうか、二三羽の鳥が後を追いかけています。後を追う鳥は遅れまいと必死になって追いかけているのがわかります。
置いてきぼりにならなければいいのですが、先に行った鳥は遅れた鳥のためにどこかで待つことをするのでしょうか。
色々なことを考えながら九つの鐘をつき終わると丁度6時になります。本堂は5時からの勤行ですので、6時からは持仏堂の勤行が始まります。まだ2週間前は本当に寒い日がありましたが、ここ二三日は本当に春の陽気になり温かくなりました。
私はここ何年も風邪で寝込んだことがありませんが、先日6日の真夜中に嘔吐、下痢が始まり、また背中の節々が痛くて、朝起きられません。家内の勧めで行きつけの内科に行き、診察をしていただき、4種類の薬をもらい服用後に就寝しました。薬に睡眠薬が入っていたのか、それから次の日の朝まで熟睡をいたしました。
次の朝に目覚めた時に4歳になる孫が枕元にやってきて、「おじいちゃん、どうしたの、大丈夫?早く良くなってね。」と顔をのぞきこむのです。私は本当に嬉しかったです。
この4歳になる孫は、生まれて2ヵ月後に急性白血病になり、病院に入院し抗がん剤治療を受け、その後徳島大学病院に移り、そこで本格的な治療が始まりました。孫が生後数ヶ月ですので親子共々完全無菌室に入り、臍帯血の移植をしてその後入院が続きましたが、臍帯血の功有り退院することが出来ました。それから孫も元気になったかに見えましたが、定期検査の結果異常に白血球が多く再入院し、次は骨髄移植でないと助からない旨を告げられました。
骨髄バンクには孫に適合する骨髄がありません。やむなく父親の骨髄をもらうことになりました。父親の骨髄は100%適合しません。しかし、緊急のことですし、親の骨髄ですからこれで助かるかもしれないとの判断で父親の骨髄を移植しました。
しかし、移植してから孫は本当によく頑張りました。吐き気や、下痢が一日60回もあり、お尻は爛れ肛門は潰瘍が出来て排泄するたびに苦しみます。そばで見ていても家族はどうすることも出来ません。また潰瘍を治療する薬も投与できません。孫は本当に苦しかったと思います。しかし、神仏の加護とドクターのご努力で、孫は助りました。
いま孫は元気よく走り回っています。私が寝込んでいる時に真っ先に「おじいちゃん大丈夫?早く良くなってね」と声をかけてくれたのは、病気の苦しみを経験した孫だったのです。4歳で人の苦しみの心情がわかるのでしょうか。思わず孫を抱きしめてあげました。
その孫が4月から幼稚園に入園します。本当に夢のようです。
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こころのはなし(第116回)2008.03.01
平成八年から三期にわたって、香川県教育委員会歴史博物館建設準備室では、博物館整備に伴う県内寺院の寺社調査の一環として、弘憲寺に伝わる書画・古文書をはじめとする歴史資料の調査をいたしました。
調査の概要の第一期は平成八年十一月十日に青山学院大学文学部教授浅井和春氏の指導のもとに実施した彫刻調査。
第二期は、平成九年七月七日から十日まで、のべ四十七人の準備室職員を投入して行われました。
第三期の弘憲寺調査は報告書作成のための補充調査を実施し特に仏画の赤外線調査をしていただきました。この第一期から第三期に至るまでの調査結果を159ページにもおよぶ報告書を作成していただきました。
特に私が注目したものは、千手観音曼荼羅図(仮称)です。この仏画は収蔵してある長持ち箱の中にあったもので、わたしが住職をしてから一度も目に触れたことのないもので、今回の調査によって発見されたものです。この千手観音曼荼羅は、千手観音と文殊菩薩さらには地蔵菩薩の来迎像を表し、さらに上の方に如来が描かれています。
中央に描かれている千手観音は、踏割蓮華座といって一つの蓮華を割って、それぞれ左右の蓮華の上に立たれ、雲に乗って来迎する様子が描かれています。お顔は本面のほかに両脇面の二面と頭上に十一面があり、四十二本の手にそれぞれの持ち物を持っていらっしゃいます。
さらに、千手観音の右下に描かれている文殊菩薩は、頭に五髻を結び、右手に剣、左手に経典を持って蓮華座に立っています。
地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮華座に立っています。
また千手観音の右上には阿しゅく如来と薬壷をもっている薬師如来が描かれています。特にこの仏画で興味深いのは、桜花が描かれていることと、ところどころに鹿が描かれていることです。
どのような意図で描かれているのかわかりませんが、とても興味深い表現です。また仏画に描かれている仏さまのお顔がそれは丹精に描かれ、その美しさは相当の絵師が描いたものであろうと考えられます。香川県教育委員会歴史博物館建設準備委員会の調査では製作時期は鎌倉時代末から南北朝時代であろうと推測しています。現在奈良にある元興寺文化財研究所に鑑定を依頼しています。もし詳しいことがわかりましたら、このホームページ上に写真を載せ皆様に見ていただけたらと考えています。
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こころのはなし(第115回)2008.02.15
数日前に寒気が押し寄せ、大阪や名古屋、東京も降雪を見ましたが、四国高松は天気予報が雪マークでしたが、終日雨が降り
外出に困ることはありませんでした。
朝起きるときの最低気温が11日で2、5℃ですから底冷えがするほどでもなく、日一日と春に向かっている感じです。
今月の19日は二十四節気の雨水(うすい)に当たります。「雪散じて水となる也」というように、雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降りだす頃になります。
この雨水を目安として農耕の準備をする目安とすると昔からいわれています。
11日は高松では久しぶりの好天に恵まれましたので裏庭の菜園に行って見ますと、えんどう豆のつるが延びて、白い花をつけています。また畑の隅の方に蕗の頭が顔を出しています。蕗の頭を取り、澄まし汁の中に入れて春の香を楽しもうかと思いましたが、折角寒い冬を耐えてきたのだからもう少しこのままにしておこうと諦めることにいたしました。
しかし、僅かな菜園であっても十分に春を実感しましたし、満ち足りた気持ちになりました。
満ち足りた心を私たちは「満足する」といいます。足はたりる。それで十分だということ、過不足という言葉もあります。これはすぎたこととたらないことを意味します。
青年の船としてチャーターされたさくら丸の船長弓場道義さんは乗船した学生に非常時の心構えとして、「船に荷物を積みすぎると重心が高くて復元力を失ってしまう。これがトップ・ヘビー(注)だ。復元力を回復するためにはいかに高価なものであっても、上層部の荷物を海に捨ててしまわなければならない。日本丸は、それに乗っている国民の一人一人が、いまやトップ・ヘビーになって復元力を失いつつあるのではないだろうか」と警告しています。不要なものをたくさん背負ってイザというとき身軽になって安全な場所に避難することはできない。捨てるのを惜しいと肌身離さず身にまとい、それが重荷になって身動きできない人間はさまにならない。
"満足"するとは"足が満つる"と書くように、下方の足に重心がおかれることを言う。と松濤弘道さんは釈尊の名言108の知恵で述べています。
(注)ゴルフ用語、(1)クラブのヘッドが柄に比べて重いことを言う。
(2)頭でっかちな
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こころのはなし(第114回)2008.02.01
1月の17日は阪神淡路大震災13回目の慰霊の日でした。6、434人の方が亡くなられ、行方不明者が3人、家族、友人、知人と多くの方々が、悲しい思いでこの日を迎えられました。
私はこの大震災の時には和歌山県高野山の大師教会という所に居ました。朝仏前で勤行(おつとめ)をはじめた時に、衝撃的な揺れを感じました。広いお堂の中は須弥壇があるだけの広い空間です。このお堂を支えるために何本かの一抱えもある柱があるだけです。天井から何百という信者の方が寄進した燈籠が下がっています。この燈籠がガシャガシャと音を立てはじめました。
はじめ地震だとはわからず、天井を見上げた時にこれは地震だということをはじめて認識しました。私の上には天蓋という大きな仏具が下がっています。もしこれが落ちてきたらひとたまりもありません。
しかし、咄嗟にどこに逃げたらいいのかわかりません。じっとそのまま座っていましたら、振動はだんだんと弱くなり、静かになりました。お蔭で高野山は目立つほどの被害もなく済みましたが、
淡路島、兵庫県には多くの真言宗寺院があり、それらの寺院の被害状況がわかりませんし、その状況を調査しなければなりませんので、急遽数人の人と一緒に淡路島に向かいました。その状況は惨憺たるものでした。一ケ寺一ヶ寺を見舞い励ましの言葉をかけて高野山に帰りました。
私もこの震災の後平成9年に高野山を下り、自坊がある高松に帰りました。この平成7年1月17日は生涯忘れることはないと思います。それは震災の日、1月17日が私の誕生日だからです。ちょうど53歳の時でした。あれから13年経ちました。
昨年末に香川県公安委員会から免許証の書き換えの案内がありました。更新は誕生日の一ヶ月前から受け付けるというので、年末の方が逆に混まないかもしれないと、12月17日に行きました。
更新のための手続きを終え、視力検査も済み、免許証の写真を撮影してもらい、講習会場に進もうとした時に、新しい交通法規の教科書をもらい古い免許証を提示した時に、この免許証にスタンプでSマークを押されました。
「このSマークは何ですか」と尋ねましたら、「これはシルバーマークです。高齢者の印です」というのです。「シルバーマークの方は講習の会場が違います。3階の教室に行って下さい。」というのです。促されるまま教室に入り、高齢者講習を1時間半も受講いたしました。「やれやれこれで新しい免許証をもらえるのだな」と思っていましたら、再び案内があり、隣の教室に移動してくださいというのです。案内された教室は、車の運転席が何10と用意されていて、まるでゲームセンターのようです。その運転席に座り、車の運転のシュミレーション(擬似体験)をするのです。
運転台の前には画面があって、道路が表示されています。その道路にしたがってハンドル操作をするのです。
また道路わきから子どもが飛び出してきますので、ブレーキをかけ減速したりします。また夜道で白いシャツを着た人が歩いてきます。人がいると感じたら思い切ってブレーキを踏みます。
その人の前方で停車します。次に夜道に黒い洋服をきた人が歩いてきますので、気がついたら思い切りブレーキを踏みます。
ところが私は黒いシャツの人がわからず跳ねてしまいました。
私は自分の運転能力には自信があって、絶対自分は運転技術とか反射神経は大丈夫と思っていましたので、この模擬運転での結果には少々ショックでした。
阪神淡路大震災から13年、まだ若いと思っていましたが、いつの間にかSマークを押される年になりましたが、目的を持ってしっかりした歩みを進めていきたいと思います。
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こころのはなし(第113回)2008.01.15
お寺の裏庭に水仙が満開です。真っ白な水仙や、花の額にあたる部分が黄色のものなどが冬の日を浴びています。また日陰のほうに目を移すと、白や赤い椿が咲き始めました。
いつもの年より少し開花が早いのかなと感じますが、これも温暖化の所為でしょうか。
今年2008年は主要8カ国の首脳が集まる洞爺湖サミットが開催されます。サミットとは山などの頂上を意味します。これを広義に解釈しまうと世界を牽引する主要8カ国という事になるのでしょうか。
主要8カ国、G8と呼ばれアメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、ロシアです。この主要国首脳会議の主要議題は地球環境問題だといわれています。
いま地球環境は危機的状況にあるのではないでしょうか。特に地球温暖化です。この地球の温度が上昇すると色々な弊害が生じます。旱魃や異常気象です。大洪水が起こったり、旱魃になったり、砂漠化も考えられます。生態系が変わります。また農作物に被害が出ます。北極の氷が解けて海水の上昇があり、海抜の低い土地は海に埋没してしまいます。 このように地球破壊は確実に進行しています。
私は早朝に起床して本堂で勤行をします。今から10年も前ですと冬の時期に暖房のない本堂で長時間座っていると足のほうから底冷えがして、手でも悴んでしまいましたが、最近は大寒を過ぎてからも12度ぐらいの温度ですから、最近は手が冷たいと感じたことはありません。以前と比べたら温暖化は進んでいます。
朝日新聞の世論調査ですが、いまの地球を「病んでいる」と感じている人は4人に3人、特に地球温暖化を「心配」とする人は9割を超えています。
いま国民の大多数の人は地球温暖化に対する危機感を持っています。しかし、京都議定書で義務づけられた温室効果ガスの削減目標が達成できません。
この地球環境の悪化は人間の業によって引き起こされました。
「業」とはサンスクリットでカルマといい、人間の行い、行為をいいます。地球環境の悪化はすべて人間の行為から引き起こされたものです。
この人間の行為は心の有り様によって起こり変化します。この心に最も害になるもの、毒になるものが三つありますので三毒といいます。この三毒とは貧(とん)瞋(じん)痴(ち)です。
貧とは貪り、欲張ること、欲が深いことです。瞋とは腹を立てることです。腹を立てると頭に血が上ってカーとなり、分別を忘れてしまいます。喧嘩は腹を立てるから起こるのです。痴とは真理を知らないことです。この真理を知らないことによって迷い苦しむ。これを無明ともいいます。
さて、話は元に戻りますが、地球環境が悪くなる、地球温暖化などはみな三毒のうちの貧(よくばり)のこころに起因するのです。人間は京都議定書で温室ガスの削減目標が定められているのに逆に排出量が6,4%増えるなどしているのは、人間の貪欲なまでの貪りの心によるのです。1月9日の産経新聞「正論」で作家の曽野綾子さんは「どこまで恵まれれば気が済むのか」と言われていますが、人間の貧欲は行き着くところを知りません。いま一番必要なのは小欲知足、足ることを知るということではないでしょうか。
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こころのはなし(第112回)2008.01.01
新年明けましておめでとうございます。
皆様には恙無く新年をお迎えのことと思います。
弘憲寺ホームページも平成3年から始めましたので丸5年になり、6年目に踏み出したわけです。ことしも何とか続けられたら幸いです。
昨晩は除夜の鐘を突きながら新年を迎えました。大晦日の除夜の鐘を撞く頃には大勢の参拝客がこられ、寒い中にもかかわらず行列を成して鐘を撞く順番を待っておられました。
弘憲寺の除夜の鐘は1人3回づつ撞き、次と替わります。終わった方から本堂に進み、おぜんざいの接待を受けます。2年ほど前までは甘酒を出していましたが、飲酒運転になるのでこれを取りやめ、ぜんざいにいたしました。ぜんざいを食べながら知らないもの同士が「おめでとうございます」と挨拶を交わし、会話が弾みます。お正月ならではの風景です。
さて、今年は鼠年です。これから一年どのような年になるのでしょうか。十二支は子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)です。この十二支はいつの時代に出来たかは定かではなく、すでに殷(いん)の時代には使われていたといわれています。初め十二支は十二ヶ月の順序を示すための符号であったそうですが、子は正月、丑は二月とつけていったようです。
しかし本来の十二支は子(ねずみ)丑(うし)寅(とら)の十二支を子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)申(しん)、酉(ゆう)戌(じゅつ)亥(がい)と読みます。ところがこれでは一般の人は読めません。十二支の名称は、中国歴代王朝の暦を未開の地方に伝えるために、覚えやすい動物の名前を当てはめたといわれています。
さて、子は孳(じ){ふえる}の意味で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しています。ですから一月に子が来るということは非常に意味合いとしても芽出度いことです。
12年前、1996年、平成8年の子の年はどのような年であったのでしょう。
わたしたちは12年前というと何も記憶していません。さらに50年前といったら如何でしょうか、このホームページをご覧になっている方で、私はまだ生まれていなかったという人も多いでしょう。ところが50年前、100年前、150年前と50年単位で2000年前までさかのぼり、その年に何があったかを調べてある本があります。その内容を見てみると、今年2008年、その50年前は次のようなことがありました。
50年前
1958年・昭和33年
伊勢丹新宿本店で初めてバレンタンイチョコレートを売り出す。一万円札発行。東京タワー完工式。フラフープ大流行。阿蘇山大爆発。初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」を発売。
歌では「からたち日記」「星は何でも知っている」「有楽町で逢いましょう」などが流行しました。
100年前
1,908年・明治41年
島崎藤村「春」東京朝日新聞に発表。夏目漱石「三四郎」を朝日新聞に発表。国木田独歩没。第一次西園寺公望内閣発足。
150年前
1858年・安政5年
江戸大火。井伊直弼大老となる。コレラ全国に流行。歌川広重没。安政の大獄始まる。江戸大火。西郷隆盛と僧月照と入水(隆盛蘇生)。福沢諭吉、江戸築地鉄砲洲の中津藩中津藩に蘭学塾を開く(慶応義塾大学の始まり)
日本史を50年ごとにさかのぼると色々なことがわかり、これが2000年前までさかのぼって知ることが出来るのは本当に楽しい。よくぞここまで調べたものだと感心させられます。お正月時間に余裕のある方は日本史を勉強されてみては如何でしょう。
日本史<50年周期>逆引き年表
吉川弘文間編集部{編}
現代こよみ辞典 <編> 岡田芳朗・阿久根末吉
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