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心の講話


■ 心の講話バックナンバー 2004年分
     

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● こころのはなし(第43回)2004.12.01

先月、家内の妹が乳癌のために手術をしました。早期発見が一番といわれているので几帳面な妹は毎年検査を受けていたのですが、手術を受ける前まで癌が発見できなかったのは甚だ残念です。
 
手術前に墓参を兼ねて里帰りした義妹を見ると、心なしか心配そうな顔をしていました。心の中では相当な葛藤があるのだろうと推測いたしました。癌は100k死にいたる病気ではありませんけれど、義妹に何と言葉をかけてあげたらよいか言葉に詰まりました。私としたら毎日の勤行の時にただただ手術が成功するようにと祈ることしか出来ません。やはり癌と聞くとただならぬ病気であるということで認識しています。私の知人にも何人かの方が癌の手術を受けた方がいらっしゃいます。最近は癌を発見するとほとんどのドクターがあなたは癌ですよと告げるそうですが、癌患者に対して医師も事実を語るべきか否かを、躊躇するのではないかと思います。

 人によっては告げられたことで意気消沈して、絶望に打ち沈む人もいるし、逆にその禍をバネにして自分を奮い立たせる人もいると思います。しかしほとんどの方が心穏やかにその事実を受け止めることは出来ないのではないでしょうか。ある高名な僧侶が「自分は修行を積んでいるので、どんな病気でもそれを受け留めることはできる。どうか病状を言ってください」ともうしました。
医師もはじめは迷っていましたが、このお坊さんは修行が出来ているので大丈夫と判断し、「あなたは癌です。」と告げると、とたんに顔が青ざめ、逆に死期を早めたというお話を聞いたことがあります。

 釈尊は人間が絶対に逃げることが出来ない苦しみに生、老、病、死の四つを挙げています。苦しみとは自分が思うようにならないことをいいます。これを不如意と申します。しかし、思うようにならないとは逆に、その人の心のありようによっては解決できるもの、心の苦しさから開放されるということでもあります。 

 長野県に水野源三さんという方がいらっしゃいました。水野さんは詩人です。
1937年、昭和12年に生まれましたが、小学校4年生、9歳の時に、赤痢にかかり、その結果、脳性麻痺のため、体中のほとんどすべての筋肉が麻痺してしまいました。手足を動かすことは勿論、頭を動かすことも、声を出すことも出来なくなってしまったのです。彼は六畳の部屋に寝たきりで、1984年に47歳で亡くなるまで、ほとんどその部屋で過しました。それはいったいどんな気持ちだったでしょうか。不平を言いたくても喋ることが出来ません。泣き出したくても声一つ立てることが出来ないのです。絶望しても、その部屋の布団の上から自分の力では一歩も外に出られないのです。全く想像もできないような絶望的な境遇です。彼に比べれば、恐らくどんな人であってもずっと恵まれているといわなければならないでしょう。

しかし、水野源三さんは、自らの生涯に全く絶望したわけではありませんし、人生を投げてしまったわけでもありませんでした。水野さんは詩人でした。ペンを持つことも出来ない、それどころか喋る事もできない、そんな水野さんがどうして作詞できたのでしょうか。実はそれには秘密がありました。
水野さんが詩を作る時には、お母さんが手伝いました。壁に五十音、「あいうえお」から始まる平仮名の表を貼っておきます。お母さんが「あ」の行から「か、さ、た、な」と文字を順番に指していきますと、あるところで、水野さんが「パチパチ」と目で合図します。すると今度は縦に「な、に、ぬ、ね、」とまた順番に指していきます。そうするとまたあるところで「パチパチ」と目で合図を送ると、お母さんはその時指していた文字を紙に書き留めていくのです。気の遠くなるような作業ですが、そうやって一文字一文字拾っていって、水野さんはたくさんの詩を作りました。

自分なんか何のために生きているのかわからない。と思う時、それは誰にでもあるのではないでしょうか。特別勉強ができるわけでもない、お金持ちだったり、人気者だったりするわけでもない。私一人が居なくても、何も変わらないのではないか。むしろ私など居ないほうが周りに迷惑をかけないのではないか。そんなふうにもし思うことがあったら、水野さんを思い出していただきたいのです。私一人が生きるために、多くの人が沢山な思いを込めてくれております。
お父さんお母さん、おじいさん、おばあさん、友達、先生方、先輩達、それから奥さんや子どもたち、誰の世話にならず生きてきた人は居ません。
自分がつまらない、役に立たない者だと思った時、是非、水野さんを思い出してください。

 

       
   

● こころのはなし(第43回)2004.11.18

11月15日のホームページ書き換えが大幅に遅れました。と申しますのは、丁度15日から大和長谷寺に行っていまして、自坊に帰ったのが18日の夜でしたので今になってしまいました。

このたびの参拝は、全真言宗教誨師(きょうかいし)大会が長谷寺で開催されました。この全真言宗教誨師会と申しますのは、真言宗には多くの宗派がございます。因みに真言宗には29もあります。特に18の大本山が横のつながりと親睦を深め、18本山共通の事業を主宰するために結束しています。

そうした中で、教誨師会も各派バラバラに収容者の教誨に当たるのではなく、弘法大師様のみ教えを頂いて、被収容者のニーズに答える教誨を目指しています。そのため毎年それぞれの本山をお借りして研修と親睦を深めています。
今回の研修会はそうした意味合いから、真言宗豊山派(ぶざんは)の総本山であります長谷寺にお邪魔いたしました。

長谷寺は山号を豊山(ぶざん)といい、寺号を長谷寺といいます。お寺は奈良盆地の西、万葉の時代から神が舞い降りるとされた信仰の山、三輪山の東に、初瀬山と与喜山の穏やかな渓谷が広がる。その山間をはうように流れる発瀬川、この山と川にかこまれた穏やかな地に建つのが長谷寺です。

この寺は奈良時代の僧、道明上人と徳道上人によって創建されたといわれています。ご本尊は十一面観世音菩薩さまです。
この十一面観世音菩薩様は1018、0センチで日本最大の木彫で、楠の木造り、右手に錫杖、左手に水瓶をもって方形の台座の上に立っておられます。この本尊様は室町時代の1538年に大仏師運宗らによって造立されました。
十一面観音様とは、サンスクリット語でエーカーダシャ・ムカで十一の顔をもつものを意味しています。私たちがお唱えする観音様のお経は「観音経」です。このお経は妙法蓮華経(法華経)の普門品が「観音経」として流布しています。この「普門」のサンスクリット語の原語はサマンタ・ムカといいます。意味はあらゆる方向に顔を向けたもの、という意味です。この意味はあらゆる方向に顔を向けて、苦しむ人々を救ってくれるということです。ですからあらゆる方向に顔を向けなくとも、顔を沢山もっていればいいわけで十一面観世音菩薩様が十一のお顔を持っていらっしゃるのはそのような訳があるのです。

長谷寺のお慈悲あふれるお姿を拝し、御足に触らせていただき
ゆっくりと回廊を下りてまいりますと、回廊の周辺に牡丹の苗木が所せましと植えられています。来春この牡丹が一斉に咲き始めると、さながら浄土のようであろうと思いながら、紅葉の始まった寺を後にいたしました。


       
   

● こころのはなし(第42回)2004.11.01

毎月の第1日曜日に阿字観による坐禅会を開いています。名づけて「密教禅塾」といいます。密教禅塾というぐらいですから、密教の坐禅、密教瞑想です。この坐禅の特徴は大宇宙との融合、言い換えれば大いなる命(大宇宙)と自心と融合し、一体になるための瞑想法です。これを阿字観(あじかん)といいます。また月輪観という瞑想法を用います。
この瞑想法はインド、中国、を経て弘法大師空海によって日本にもたらされました。なぜ禅宗の禅のように大衆に知られていないのかというと、ほとんどが僧侶の修行法の一つとして組み込まれていたことと、師から弟子へ伝えられたために、一般に知られることがなかったわけです。
昭和40年ごろから当時高野山の管長様であった、四国屋島寺の住職であった故中井龍瑞貎下が一般の人にもこの阿字観禅を広めようと努力されました。ちょうど修行を終えた私に、坐禅布教のために全国を巡わる中井貌下のお付きをしなさいと言われ、お付きをしながらこの阿字観を学びました。
一カ寺の住職になったら是非ともこの阿字観禅を広めようと考え、月に一度の密教禅塾を開設し、今日に到っています。
この坐禅会の特徴は、約30分の坐禅の後、朝粥を出し仏様の教えに叶った食事をいたします。これを食事作法(じきじさほう)といいます。配膳された食事を前に、偈文を唱え、配膳されたお膳にあるお粥、煮付け、香の物、お茶を作法に則って食していきます。その基本はすべての生きとし生けるいのちと恵みに感謝することです。それには食事そのものに集中して、自分の口に入る食事がどれだけの人の手を経て私まで来たのか、果たして今自分がこれらの食事を食すだけの資格があるのだろうか、などなど思いをめぐらしながら頂くのです。
最近はどの家庭でも、食事は楽しく雑談をしながら頂く家庭が多くなりました。昔は食事をしながら食べると親に「話をするな、静に食事をしなさい」とたしなめられたものです。
これは食事の時は心を散乱させず、食事に集中して感謝の心を忘れるなという教育の一つだったのでしょう。それは仏教の食事方法の教えが根底にあったものと考えられます。

このように食事に集中しますと、口に入れたものはよく噛みますし、粗食であっても十分に栄養が取れるわけです。逆に小食でも体を十分に維持できるわけです。

今は逆に栄養価の高いものを摂取します糖尿病が増えているのです。
10月23日の朝日新聞ビーオン・サタディにドクターの日野原重明先生は「粗食で上手に年をとる」で次のように書かれています。
寿命を延ばす研究で唯一確実と考えられているのは、食事の摂取カロリーを制限する方法だといいます。ネズミやハエなどさまざまな生物で、カロリー制限により寿命がのびることが証明されました。またアメリカのウィスコンシン大学では15年も前から、人に近いアカゲザルを使って実証実験が行われています。ビタミンなどの栄養素は充分に保ちながら摂取カロリーを30%減にすると、皮膚のシワや白髪も減少して若々しく見えるようになったそうです。摂取カロリーを減らすと、細胞内のミトコンドリアで作られるエネルギーや活性酸素が減り、老化のスピードが遅くなるといわれています。因みに厚生労働省から年齢に応じた日本人のエネルギー所要量が発表されています。男性では50〜69歳が一日当たり1750`カロリー
70歳以上が1600カロリーだそうです。
 日野原先生は今年93歳になられます。日本人は昔から腹八分といわれてきましたが、先生は腹7分目にした生活を送りながら10月4日で93歳にお成りになられたそうです。
これからは「仏教的食事法」粗食・小食・感謝の心の三本柱で実行していきたいと思っています。

       
   

● こころのはなし(第41回)2004.10.15

先週、宗教教誨師(しゅうきょうきょうかいし)の全国大会が仙台で行われ、それに参加するために雨の高松空港を飛び立ちました。出発前から仙台空港は天候が悪いため、岩手県の花巻空港か山形空港に下りるか、最悪の場合高松空港に引き返しますとの放送があり、不安なまま離陸しましたが、幸にも仙台に下りることが出来ました。
仙台は大雨で、レンタカーを借りてその日の宿泊地である秋保(あきう)温泉に泊まり、翌日大会会場である仙台駅前のホテルに入りました。
全国から教誨師の先生方430名が集まり、第30回全国教誨師大会がスタートいたしました。記念講演に小説家の五木 寛之氏による「慈のこころ,悲のこころ」と題してお話くださり、感銘を受けました。このあとそれぞれの研究部会にわかれ、研究討議がなされました。このように隔年に全国大会が開かれ、その間に地方での研修会がもたれます。

皆さんにはこの教誨師(きょうかいし)という仕事をご存知でしょうか。この教誨師という仕事は本当に地味な仕事で、一般の方々にはほとんど理解されていないと思います。
教誨の教とは「おしえる」「さとす」「みちびく」という意味がありますが、誨は「おしえる」物事をよく知らないものをおしえさとすの意味があります。

具体的にいうと、刑務所に入っている被収容者(受刑者)を訓(さと)し、善に立ち返らせるために、刑務所におもむき宗教的な導きによって受刑者の改善更正を期待するものです。

この宗教教誨は完全なボランティアで行われています。現在の行刑施設(刑務所、少年刑務所、拘置所)などで教誨に当たっている宗教教誨師は約1600人です。この中には少年院、医療刑務所、少女の家、交通刑務所なども含まれています。
私の所属している刑務所は高松刑務所ですが現在14名が奉仕しています。大きく分けますと仏教、キリスト教、神道、に所属している宗教家がその信条にしたがって活動しています。

 この教誨師の活動の歴史は古く、天慶元年といいますから西暦938年、今から1066年前といわれています。また徳川時代には心学者寺島堵庵(てらじまとあん)の高弟である中沢道二が約80年間講義を行っています。

明治に入り、明治5年にロンドンで第一回万国監獄会議が開かれ、刑務所は宗教と教育と労働が基本をなすものと決定されました。
日本も徐々に西洋の知識を取り入れだし、その後各宗の志あるかたが教誨事業に協力し、教誨師という名称が用いられたのは明治14年からです。

その後、幾多の変遷を経ながら今日に至っています。本当に教誨師の方々は民間の宗教家であり、奉仕で行われ、ほとんど一般の人の目に触れられることはありませんが、地道な活動によって
罪を犯した人たちが少しでも心情が安定し、更正の道を歩んでくれたらと思い、活動を続けています。


 

       
   

● こころのはなし(第40回)2004.10.01

9月28日は中秋の名月でした。あいにく台風21号の影響で月を見ることができませんでした。少し淋しい気がいたします。
 毎年この中秋の名月の前日、宵待ち月にはお寺で宵待ち月コンサートとを18年間も続けてきましたが、8月の30日に台風16号が四国を通過し、高松では高潮と満潮が重なり、水害のために多くの家が浸水の被害を受けました。お寺も海に近かったこともあり、水害の難に遭いました。
 
夜中に寝ているとどこからともなく水の音が聞こえてきます。何だろうなと電気を点けようとしましたが停電です。玄関まで出て行きますと既に水浸しです。履物などは水に浮いています。しかしどうすることもできません。まあ水が引くまで待たなければと思い、そのまま寝てしまいました。

翌朝10時ぐらいには水が引きましたので、庭に出てみると、近所の漂流物がお寺の庭に散在しています。また車も海水に浸かり修理が効かず廃車することになりました。エヤコンも室外機が外にありますからこれも使い物にならず、大きな被害を受けました。しかし、お寺の床は民家と比べて高く造ってあるものですから床上浸水まではいかず、安堵した次第ですが、檀家の方々の内何軒かは床上浸水の被害を受けました。 そのようなわけで今年はコンサートでもあるまいということで中止にいたしました。

今年は台風21号の影響で満月を見ることが出来ないことは本当に淋しい限りですが、十五夜はお月見・名月・中秋の名月と呼ばれ、古くから観月の好季節とされ、月下に酒宴を張り、詩歌を詠じ、ススキや月見団子・里芋・枝豆・栗などを飾り、神酒を供えて月を眺めたものです。
現在では家庭で月見をすることが少なくなりました。古来から行われてきた行事が廃れていくことは残念なことです。
昔の暦は旧暦・陰暦を用いていました。そしてこの暦は人々の生活にはなくてはならないものでした。例えば暦を見てその日のお日柄や、農作業や婚礼などの生活設計をいたしました。暦で八十八夜を見て農作物の晩霜の被害に気をつけたり、二百十日を見ては台風に備えました。古来から日本人は月の満ち欠けによって、凡そ月日を知り、十五夜の満月の夜には祭儀が行われる大切な節目であった訳です。

中秋の名月を鑑賞するようになったのは、中国では唐の時代だといわれていますが、日本では平安時代貴族の間で行われるようになりました。唐の時代には日本から遣唐使船が行き来し、その頃の日本はすべて唐の文化の模倣でしたから、当然名月を鑑賞するのも中国からの輸入であったと思います。その後武士や町民へと広がっていったものです。特に農民の間では農耕行事と深く結びつき、収穫祭の意味合いを持つようになったと考えられます。

中秋の名月はまたの名前を「いも名月」と呼ばれています。この頃に、里芋とか薩摩芋など収穫できてその感謝祭が中秋の名月と結びつき、「いも名月」といわれるのではないかと思います。
四国の愛媛県や香川県の西のほうでは河原で「芋焚き」を行う行事がが現在まで残っています。それが中秋の名月の頃です。
笑い話ですが、祖母がこんな話をしてくれたことがあります。
蛸を捕るには中秋の名月の時が一番いいというのです。
蛸は里芋が大好物で、その里芋を食べに浜辺に上がり、畑までやってきて大好物の里芋を食べるのです。月明かりの中で里芋を食べている蛸を難なく捕ることが出来るというのです。
蛸が里芋が大好物という証拠に、里芋と蛸を一緒に炊くとこれがほんとうに美味しいということです。
また密教の世界では、にごりのない清らかな仏の心を満月で表現いたします。これを「心月輪」(しんがちりん)といいます。

       
   

● こころのはなし(第40回)2004.9.15

よく「禍福はあざなえる縄の如しといわれます。人間の一生の中で順風満帆の人生なんてめったにあるものではありません。
幸せの人生を送っていても、いつ何時災難や不幸がやってくるかもわかりません。また不幸は何時までも続くものではありません。吉事と凶事とは常に入れ替りながら転変するものだと古人は説いています。
このような人生の中で私たちに一番大切なものは何かというと、それは心のあり方です。苦しみがあれば苦しみをつくるところの心の原因があり、幸福なときには幸福が生まれる心の原因があります。すべての幸不幸は自身の心に起因するのです。

石川洋さんの詩に「自戒」があります。

辛いことが多いのは
感謝をしらないからだ

苦しいことが多いのは
自分に甘えがあるからだ

悲しいことが多いのは
自分のことしかわからないからだ

心配することが多いのは今をけんめいに
いきていないからだ

いきずまりが多いのは
自分が裸になれないからだ

この詩を読ませていただくと自身の心のありようによって世界が変わるということがおわかりいただけると思います。
先年、高野山に南正文(まさのり)さんという日本画家が講演をされました。
 南さんは昭和26年9月に大阪堺に生まれました。父親は製材業をしており、両親は朝早くから夜遅くまで一生懸命に働いておりました。子どもなりにも正文さんは親の姿を見ていると手伝わざるをえません。
嫌々ながらも仕事を手伝っていました。
 始めの内は、危ない機械が沢山あり気をつけてやっていましたが、しかし、だんだんと慣れてくると、危ないことが危ないと感じなくなっておりました。嫌々ながら手伝っている時、ふと、ベルトが廻っている機械のところに片手を持っていきました。するとあまりにも動力が強いものですから、片手を取られて、その手を取ろうとして、両方の手を肩から無くしてしまいました。
 
 たまたま家の前にトラックが止まっていて病院まで運んでくれました。運ばれた時には九分九厘出血多量でだめだろうと宣言されましたが、九時間かけて手術を受けました。
 そして、二週間生死をさ迷い一命を取り留めました。それから少しづつ快方に向かいましたが、自分の手はどうなっているのかと母親に聞きますと、「両手を怪我して、後ろ手に縛って治療しているのだよ」といいます。そのときは納得したのですがだんだん日が経つに従っておかしいなという思いがでてきました。

ある日自分の手はどうなっているのか、目隠しの間に隙間を作り治療を受けました。すると、肩から両手がなくなっていて、血と膿と肉とが目の前に現れたのです。そのときの正文さんは目の前が真っ暗になりました。次の日には、これはきっと夢を見ているのだ、次の日にはきっと手がついている思っても、やはり同じ光景が現れます。そのときは言葉に表せない程のショックを受けましたが、無事に退院して家に帰るとトイレに行きたくてもできない。食べたいな飲みたいな、服を脱ぎたいなと思っても何もできない。皆さんだったらどうでしょう。汗が流れてきても普通に拭けたり、鼻の先がかゆいと思ってもすぐに手でかけます。南さんはトイレに行こうと思ってもなかなかできない。できないできないということが次々でてくる度にイライラして、不満を親にぶつけて困らせるのです。また友達の前に出て行くと上から下までジロジロと眺めながら「手無し人間」「手無しロボット」とからかって逃げるのです。その悔しさ、惨めさは口では言い表せません。
 手のある状態と手が無くなった状態で環境も心も全てが変わったのです。それを心配した母親が買い物に引っ張りだしてくれますが、通りすがりの子どもずれの人が南さんを見るなり「あんた、言う事を聞かなかったら、あんな子になるんやで」という言葉が聞こえてくるのです。いよいよ家に閉じこもって死んでしまいたいと考え、本当に足で包丁を持って、喉に突き刺そうとしたこともありました。

 そうしているうちにあまりのショックが大きいものですから、学校の担任の先生が養護学校を勧めてくださって、二年遅れで四年生から行くことになりました。そして通学するうちに足で鉛筆を持ち字を書くことを覚え、口と足、肩を使って勉強と生活訓練に励みました。

 十四歳の時、近所の方から「京都に大石順教さんという尼さんがいるから訪ねてみたら」と勧められました。自分と同じように両腕を失いながらも立派に僧侶となって多くの人を救っている大石順教尼のもとを訪ねました。
 順教尼は明治21年大阪道頓堀に生まれ、本名を「妻吉」といい、17歳の時、舞踊の修行を指導していた養父の中川万次郎が狂乱の末、一家5人を斬殺。巻き添えとなり両腕を失う受難に遭いましたが奇跡的に生還します。そして絶望と周囲の好奇の目に耐えつつ巡業芸人生活を始めます。
芸人生活はじめたある日、仙台の旅館で、軒下で飼われているカナリアの親子を見てくちばしで雛を育てている姿に目覚め、これをきっかけに口に筆をくわえて字を書くことを始めます。その後、画家と結婚し2児を出産、離婚などを経て高野山で金山穆韶(かなやまぼくしょう)師により得度を許され「順教」となります。48歳の時、京都山科勧修寺(かんしゅうじ)に日本で初めての身障者厚生施設「自在会」を設立し、73歳の時には「宗教法人仏光寺」を建立いたします。福祉活動に貢献する一方、口で筆をとり絵画、所に励み、口筆般若心経で日展に入選し、昭和37年には世界障害者芸術家協会会員として東洋初の認証を受け、従六位勲六等宝冠章を授与され、昭和43年八十歳にて死去されました。

南さんはその大石順教さんに師事し、口に筆をくわえて必死になって日本画を学びました。それと同時に心の師として指導を受けられました。順教尼は「それこそ体はいくら障害があっても、それはいたし方がない。手を付けろといっても付けられない。それはいたし方がないけれども、心の障害者になってはいけないと諭されました。
 また「形ある財産よりも形のない財産を作りなさい」とよく言われましたと南さんは語っています。形ある財産は物や金、名誉、地位、いろいろあります。それを貯めれば貯めるほど、人はつい守りに入って、人を蹴落としてでももっともっとというよくがでてきます。またかねの、ある間は名誉がある間は人にちやほやしてもらえますが、それがなくなると、みな蜘蛛の子を散らしたようにいなくなります。また泥棒や火事に遭ってしまったら、すべてなくなります。。
 しかし、心の財産は積めば積むほど、人は喜び、豊な生活ができる。自分のことはそれぞれ大事ですが、人の立場に立って、その人のことを思うと、かえっていろいろなことを教えていただけたり、また、本当に幸せだと感じることがあるわけです。泥棒や火事があっても、誰も盗る事はできないわけです。
貯めれば貯めるほど、人は喜び、自分も豊な生活ができるのです。

南正文さんは両手を失ったことが不幸の条件ではなくて、両手を失ったことが幸せの条件になるように頑張りたいとお話くださいました。

先ほど順教尼の言葉の中に、心の持ち方で幸せになったり、不幸になったりすると言われましたが、人間は不幸に遭えばそれこそ下を向いて、自分ほど不幸な人間はいないと、そんなことを思ったりします。しかし、そうゆう苦しみを乗り越えた中で、そうじゃないんだ、今、自分はこうゆう事を与えられて、もっと強くなれといっていたんだと、心の切り替えをしますと、また新しい道が開け、そして、そのことが幸せになってしまう。心の持ち方で、幸せにも不幸にもなるとお話くださいました。
 どうかこころの世界を大切にされ、希望を持ち、さらに心豊に過されますことを願っています。


 

       
   

● こころのはなし(第39回)2004.9.01

今月偈文は法句経の54番目にある言葉です。

華のかおり香は風に逆らっては行かず
栴檀(せんだん)も多掲羅(たから)も
末利迦(まりか)また然り
されど
よきひと善人の香りは風に逆らいつつもゆく
善き士(ひと)の徳は
すべての方(かた)に薫る

先月26日から29日まで秋田県由利郡矢島町に生駒高俊公の墓参に行ってまいりました。町村合併のため由利郡矢島町は来年から由利本庄市になりますので、合併前にということで高松友好親善団として訪問をいたしました。
その途中秋田大曲市花館の長福寺へ参拝いたしました。このお寺には香川県出身の奈良専二(1822〜1892)が祀られています。彼は現在の木田郡三木町で生まれ日本の三大老農家といわれた一人です。老農家というのは経験を積み、精通した大家という意味です。
彼の業績は農業改良、増産の改良に尽力して県の勧業係になり、品質改良に尽くしました。少年時代から今源内といわれるほどの発明・考案好きだったといわれています。とくに少年の頃から稲の品種改良に力を入れて種の選別が重要だと綿密に交配いたしました。これによって奈良稲、奈良麦を作りました。
明治10年第1回内国勧業博覧会にさい砕どき土器を作り出品し入賞しています。砕土器は堅い土地の開発に威力を発揮いたしました。
奈良専二の発明品には糸引車、精米機の改良、害鳥虫獣捕獲機、猫車などがあります。猫車とは土砂運搬機で箱の前の部分に車輪が一個あり、後部の2本の柄で押していく車です。私たちは一輪車といっているかもしれません。また盗難よけのセンサーのようなものを作っています。
この他鳩麦の栽培法の著作があり、コンニャク、クワイ、麻、砂糖黍の普及にも尽くしています。他に著作に食用兎の普及、誘蛾灯の理論も表し、砂糖締め機は平賀源内のものを改良したといわれています。
奈良専二はある日ちょっと神戸に行くといって出て行ったまま帰郷せず、上京して千葉、茨城で活躍し、その後秋田に赴き、おおまがりはなやかた大曲花館に行って農業改良に当たりました。この時種籾を持参、サツマイモの栽培も指導しました。現在でも秋田農業の大功労者として知られています。また稲を植えるとき定規を使う正条植えというのは讃岐(香川県)が発祥の地とわれ短冊植えや定規植えを普及させました。
秋田の地にこれだけ農業指導した人はおらず大曲市花館の長福寺には墓碑、顕彰碑があります。故郷の三木町に池戸八幡にブロンズと顕彰碑があります。
(文・高松短大津森明)三木専二のことは今香川県ではほとんど知る人がいないと思いますが、秋田の地でいまでも語り継がれていることにただただ驚くばかりです。
お釈迦さまは次のように説かれています。花の香りというものは風に乗って流れます。決して風に逆らっては流れません。これと同じように道をおさめた立派な徳のある行いは風に乗って流れるだけでなく、風に逆らっても遠く四方に広まっていくものだとお釈迦さまは説かれました。


       
   

● こころのはなし(第38回)2004.8.13

残暑お見舞い申し上げます。
 七十二候の新暦の8月13日から17日頃は「白露降(くだ)る」といって秋の気配がやや強くなり、朝きらきら光る露が降り始めている時節といわれています。ところが今年は殊のほか暑く、猛暑が続きます。この時期は檀家を一軒一軒巡り、仏壇に向かいその家のご先祖にお経を読誦して回向いたします。これを棚経(たなぎょう)と言ったり盆経(ぼんぎょう)と言ったりします。地方によっては言い方が変わるかもしれません。ただただ霊よ安らかにと成仏を祈ります。
 この時期ほど故郷の郷愁を誘う時は他にはありません。都会に出ている方が里帰りし、先祖のお墓参りをし、花を手向けて、香煙漂う中で一心に祈る姿は美しいものです。

またこの時期に何年ぶりかで同窓生と会えるのも帰省の楽しみの一つです。お互いに竹馬の友ゆえに遠慮なく話し合えることは素晴らしいことです。職場仲間ではこうはいきません。利害関係や上下関係があり、お互いに遠慮する部分があってもう一つお互いに踏み込めないところがあります。

また故郷は夏祭りの季節。四国では高松の高松祭り、「一合まいた」という郷土民謡を振り付けしてそれぞれの連がメインストリートを会場として踊ります。この「一合蒔いた」と言う歌は本当にローカル色豊です。「一合蒔いた籾の種、その桝有り高は、一石、一斗、一升、一合と一尺」と言う歌です。皆さんはこの歌の意味がわかりますか?
これは一合蒔いた籾の種から1石、1斗、1升、1合と1尺収穫できると言う歌なのです。 本当にお米はそれほど取れるのでしょうか。確かなデーターではないかも知れませんが、本当は1石3斗収穫できるといいます。

皆さんは一粒の籾を春に蒔いて、秋の収穫で何粒の籾が収穫できると思いますか。
答えは1300粒です。その1300粒の籾を二年目の春に蒔いて、秋収穫すると169万粒になります。この169万粒を3年目の春に蒔き、秋に収穫すると21億9千7百万粒になります。この21億9千7百万粒の籾を4年目の春に蒔き、その年の秋に収穫すると2兆8千5百61億粒になるといいます。

讃岐の民謡である「一合蒔いた」の歌は水不足であえいだ農民が
一粒の米でも無駄にしないようにと唄ったものかもしれません。

今年は台風のお蔭で讃岐(香川県)では水は満水状態です。そして連日の猛暑です。このまま災害がなければお米は豊作でしょう。

このお盆は釈尊の弟子である目連尊者が、自分を苦労して育ててくれた母親が死後、餓鬼道に落ちて苦しんでいる。何とか母を助けようと釈尊に相談すると、「雨季の間多くの僧侶が修業している。その修行が終る7月15日に僧侶達に供養の品を布施しなさい」と教えます。
 目連尊者はその通りに実行すると苦しみの世界に堕ちていた母は救われたのです。またこの様子を固唾を呑んで見守っていた大勢の僧侶達は、目連尊者の母が救われたことを喜び、小躍りしたといわれています。これが盆踊りのもとになったのです。

このお盆をサンスクリット語でウラバンナーといいます。逆さに吊るされた苦しみと訳します。死後地獄の世界に堕ちた者の苦しみは、あたかも逆さに吊るされた程の苦しみだと説きます。この旧7月13日から15日に果物や季節の野菜を供え、今はなき人を供養する日になったのです。

       
   

● こころのはなし(第37回)2004.8.01

エルニーニョ現象とかで異常な暑さが続きます。皆さんにはお変わりはございませんか。連日の暑さのためダムの貯水量が見る間に減少し、第一次取水制限が出される寸前に、大型の台風10号が伊豆諸島から西よりのコースを辿り、四国を直撃する様相を見せ始めました。どうか逸れてくれるように祈るばかりです。

さて、8月に入ると忘れてはならないのが終戦記念日です。1945年8月15日、今から59年前になります。NHKのラジオ放送は天皇陛下の肉声によって日本国民は日本の敗戦を知りました。この日を太平世戦争の終結として終戦記念日といたしました。

太平洋戦争で亡くなられた戦病死者は155万人、一般国民の死者は30万人といわれています。弘憲寺がある高松はその頃、B29の度重なる空襲によって町全体が灰燼に帰し、見るも無残な姿になってしまいました。

奇跡的にも弘憲寺は寺の門の前まで焼けてきましたが火災を免れ、今に昔の姿を留めています。戦後戦地で亡くなられた戦死者の遺骨が遺族の下にお帰りになられます時に、空襲で焼け残った弘憲寺に一旦遺骨が安置され、そして四国4県の遺族の方々に引き取られていきました。そうした中で引き取り手のない遺骨が百体余り残されました。

これを哀れんだ先代の住職が、これはなんとかしなければいけない。日本の平和の礎になられた方々の遺骨をこのままにしてはいけないと思い立ち、何とか慰霊が出来ないものかと思案していると、ちょうど大正天皇のご即位の記念にと、庵治町の木内さんという方が高さ17メートルの巨大な庵治御影石の五重塔を制作し、この五重塔がもう何年も建たないまま庵治町の海岸にそのままになっていました。
そこで先代住職はこの五重塔を寄贈してもらい、これを建立して
戦没者の霊を祀ろうと決心をしたのです。

しかし、戦後すぐのことでこの巨大な五重塔を建立する資金がありません。先代住職は多くの人に呼びかけ、また阿波踊りの連を呼んでその入場料を建設資金に当てたりして、幾多の艱難辛苦を乗り越えてやっと昭和24年に完成したのです。毎年終戦記念日の次の日8月16日に高松仏教会の僧侶をお招きして、盛大な法要を営みました。その戦没者追悼法会には県下一円から集まった何千という灯ろうを五重塔から吊るし、法要が終ると船をチャーターしてその灯ろうを瀬戸内海に流し、戦没者を供養したのです。
 
 ところがはじめの頃は遺族や一般の人たちは、英霊のため、戦没者のためとそれは真剣に参加してくださいましたが、時が経つにつれて戦没者の遺族の高齢化とともに参拝者もだんだんと少なくなり、戦争に対する考えも風化していきました。もう戦後59年も経ちます。風化するのは当然のことですが、何とか戦争の悲惨さを次世代に伝えてゆき、8月16日には先の大戦で亡くなった155万人の戦病死者と30万人の戦災横死者の霊に正午の時報とともに黙祷を捧げようではありませんか。

 

       
   

● こころのはなし(第36回)2004.7.15

四国は11日に例年より早く梅雨明け宣言をいたしました。
四国の水がめである高知の早明浦ダムは早々と満水になり、これで一夏は水不足の心配はないと喜んでいます。
 面白いもので梅雨明けを宣言したその日から一斉に蝉が鳴き出しました。いまこうしてホームページの原稿を書いていても、うるさいほどに鳴いています。蝉の声で余計暑さを感じます。

最近は子どもたちの蝉とりの姿を見かけなくなりました。どうしたのでしょうね。私の子供の頃は蝉取りに熱中しものでした。
蝉を取り家に帰ると親から「生き物を取るのではないよ、蝉にも命があるのだ、可愛そうなころをするのではないよ、離しておやり」こう言われて渋々逃がした想い出があります。このような一寸した親の注意が心に留まり、自然に命の大切さを学んでいったのではないかと思います。今の子どもにはこうした部分が欠落しているのではないかと思います。

また昔の子ども達はお寺の墓地に入り込んでかくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたりして遊びました。少々の悪さは住職も大目に見ていましたし、時として目に余るときはしかる時もありました。子ども達はそのスリルを楽しんでいるかのようでした。
こうした思い出が大きくなってもお寺に親しみを持ち、何時までもそうしたことを覚えています。

今年も7月盆がやってきました。来月は月遅れのお盆です。このお盆の月はお坊さんにとっては命を削るような思いで炎天下を檀家周りをいたします。一軒一軒お伺いして精霊棚の前でその家のご先祖様を供養いたします。しかし、時代の波で現在ではこの精霊棚を仏壇とは別に祀る家がなくなってしまいました。精霊棚を祀るとお盆が今年もきたなという思いを一層強くするのです。
家の門口には茄子や胡瓜にオガラで(植物で乾燥させて使う)
手足をつけ、馬に見立てて素麺で手綱をつけ、その前でご先祖さんを迎えるための迎え火を焚きます。これがお盆の風物詩でした。こいう伝統や習慣もなくなりつつあるのは寂しい限りです。

お盆はサンスクリットでウラバンナーといい、このウラバンナーを音写して盂蘭盆(うらぼん)といいます。ウアラバンナーは懸倒といい逆さに吊るされた苦しみと訳します。餓鬼道に落ちた者の苦しみは逆さに吊るされた程の苦しみを味わうとされています。 

もともと「仏説盂蘭盆経」という経典がもとになって生れたものです。釈尊に目連という弟子がいて、あるときその目連が「死んで餓鬼道に堕ち、苦しむ母を助けるのにはどうしたらよいか」と釈尊に尋ねたところ、釈尊は「おまえの母親は罪業が深くて、一人の力では助けることが出来ないから、大勢の僧を招いて、沢山のご馳走をお供えし、回向を頼むがよい。そうすればお前のお母さんは餓鬼道から救われるだろう」と説きました。
目連はその教えの通り、多くの僧に供養したところ、母は餓鬼の苦しみから救われたといいます。このお話しから、祖先の霊を家に迎えて供養を捧げ、また仏の世界に返っていただく盂蘭盆の行事が行われるようになったといわれています。普通お盆は13日を「迎え盆」といい16日を「送り盆」といい、その期間、家に精霊棚をかざり、僧侶にお経をあげていただき、お墓まいりをします。お盆には迎え火を焚き、送り火を焚きます。これは精霊が
無事にたどりつくための目印になるものです。讃岐高松周辺では
灯ろうを吊り迎え火、送り火とします。京都の大文字焼きもこの送り火なのです。

       
   

● こころのはなし(第35回)2004.7.01

長野県に長野県立こども病院があります。この子ども病院に長期入院している子どもたちが学ぶ院内学級があります。入院している子どもたちは日々病と闘っています。

この子ども病院で治療を受けた子どもたちや、今も治療を受けている子どもたちの父兄の会である「すずらんの会」が「電池の切れるまで」副題は「子ども病院からのメッセージ」(角川書店)を出版して今話題を呼んでいます。
平成十六年四月から六月まで「電池が切れるまで」というタイトルでテレビ放映されていたので記憶が新しい方もおられると思います。
その院内学級で学んでいた今は亡き宮越由貴奈さんの「命」という詩があります。

「命」  
       宮越由貴奈(小学校四年)
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命はいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
いのちはそう簡単にとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも
「命なんかいらない。」
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたというまで
せいいっぱい生きよう

なんとこころを打つ詩でしょう。宮越由貴奈さんは五歳の時、神経芽細胞腫と診断され十一歳で亡くなりました。この詩は由貴奈さんの遺作になってしまいました。お母さんが言われるのには、院内学級で受けた理科の授業「乾電池の実験」直後につくられたということでした。

私たちは何十年生きていても、自分の命を見つめ、その大切さを自覚することはないと思います。毎日事故や災害や戦争などで多くの人々が亡くなっています。新聞などの記事を見ても、ただ他人の死という捉えで看過してしまいます。宮越由貴奈さんの詩は私たちに命の尊さを教え、精一杯生きようと訴えています。
由貴奈さんは重度の病気によって生死の境をさ迷い、真に命の尊さ大切さを覚られたのです。

また由貴奈さんは病という苦し身の中で、同じ苦しみの人を思いやる慈しみの心を持っておられました。同じ「電池が切れるまで」の本の中で、同じ院内学級のお友達である田村由香(小学校5年)さんが由貴奈さんの詩をつくっています。

ゆきなちゃん  田村由香(小学校五年)
ゆきなちゃんは
合計二年間も病院にいる
治療で苦しいときもある
それなのに
人が泣いているときは
自分のことなんか忘れて
すぐなぐさめてくれる
でも たまあに
夜 静かに泣いていたときもあった
いつもなぐさめていたゆきなちゃんが泣くと
こっちがどうしていいか
わからなくなる
ゆきなちゃんの泣いている姿を
ただ じっと見ているだけだ
ごめんね なぐさめられなくて
ゆきなちゃん ごめんね

由貴奈さんのやさしさが伝わってきます。自分の苦しみのなかで、友人のささえになってあげようとする姿は、まさに仏様の慈悲の心です。慈悲とは人に訴えられないほどの苦しみ呻き苦しんでいる人を自分の苦しみと捉え、無条件で救うという行為をいいます。由貴奈さんは大慈悲の心をもった仏様です。


       
   

● こころのはなし(第34回)2004.6.15

 6月にはめずらしい台風4号から変わる熱帯低気圧が西日本を通過し、その影響で梅雨前線は西から北上し活動が活発になり、11日には四国では激しい雨が降りました。
 ちょうどその折、母の法事で実家に帰郷するため、高松空港に行きましたが、激しい雨のために定刻間際まで状況待ちの状態で出発を待ちました。待ち時間に万が一欠航することを考え、寝台特急サンライズ瀬戸にすべきか、夜行の長距離バスにするか迷いながら不安な一時を過ごしましたが、幸にも出発定刻間際に飛ぶことが確認され安堵いたしました。
 私の実家は神奈川県藤沢市辻堂というところです。相模湾に面し、西に富士山、東南に緑の江ノ島を望むことができる風光明媚なところです。いま湘南の海はウエットスーツを着たサーフアーたちが、太平洋の波を捉えようと懸命に泳いでいる姿を見かけます。
私は土地の小、中学、高校と学び、都内の大学に通いました。卒業してからは和歌山県高野山での修行に入り、縁あって香川県高松市にある弘憲寺に入山いたしました。そしていつの間にか30有余年が経ってしまいました。その間母が亡くなり、今年で13回忌の正忌に当たり、久しぶりの帰郷となりました。
 有難いことに私が帰郷することを知って、小学校時代のクラスメートが他の旧友にも葉書で知らせ、急遽12日の晩に同窓会を開いてくださいました。急な案内にも拘わらず10名の友が出席してくださいました。
 メンバーは私を含め女性5名、男性6名でした。夜7時から11時まで時間が経つのを忘れ、ほんとうに楽しい時間を過ごすことが出来ました。皆それぞれの人生を歩んでこられてきたと思います。苦しんだこと、悩んだこと涙したこともあったと思います。その苦しみの体験はなかなか人に話せるものではありませんが、しかし、還暦を過ぎたいま、クラスメート達が集い何の屈託もなく笑い、談笑する姿を見ていると、全員が物の欠乏した戦後すぐのあの小、中学時代にタイムスリップしています。そして全員の顔が輝き素晴らしい表情をみせてくれました。
 菜根譚にこのような言葉があります。
 「新知を結ぶは、旧好を敦(あつ)くするに如(し)かず」
新しい友人を求めえるよりは、古い友人を大事にしたいという意味です。
 本当に私もそう思います。よき友人がいるということはこの上もない財産だです。法事が終った次の日、久しぶりに鎌倉を巡りました。極楽寺を廻り、次に美男におわす大仏に参拝して、傍らの木立の中を見ると薄紫の紫陽花がひっそりと咲いています。その静寂さに心打たれ鎌倉を後にいたしました。

     紫陽花や帷子時の薄浅黄     芭蕉


       
   

● こころのはなし(第33回)2004.6.01

 22日拉致家族五人の方々が帰国した。多くの日本人がこのたび小泉首相の北朝鮮訪問を注視していたのではないでしょうか。これによって蓮池さん、地村さんの子供らが日本に帰国できたことはなによりも喜ばなければいけないが、蘇我ひとみさんの家族が帰国できなかったのはまことに残念というほかはありません。
曽我さんはこの報をどんな思いで聞いたのかを思うと、心痛むおもいです。

また安否不明の拉致被害者の情報がなんらもたらされなかつたことで、特に拉致被害者家族会の人たちはその成果を一日千秋の思い出待ち望んでいただけに、その落胆振りは殊のほか大きかったのではないでしょうか。
そのことが二十二日における被害者の会のメンバーの発言に如実に表れています。
 特に拉致被害者の会、横田滋さんは「予想していた中で最悪の結果。裏切られたという感じ」
蓮池透さんは「また新たな悲劇が生れた。五人の間を引き裂き、いじめに等しい」
飯島繁雄さん「子供の使いに等しい。既成事実が次々でき、残念」増本照明さん「首相の能力のなさとしか言いようがない。ブルーリボンに前面解決の思いを込めたが通じなかった」
奥土一男さん「家族会には首相に感謝する声はない。孫も帰ってくる。うれしくないといえばうそになる」
などの発言が相次ぎました。このたびの訪朝で拉致被害者に関しては主だった成果がなかっただけに拉致被害者の会の人たちの思いは複雑であろうとおもいます。
この被害者の会の方々の記者会見での模様を私もテレビで見ていたしました。そのとき「あれまで厳しいことばで批判しなくてもいいものを」と感じたのは私だけでしょうか。
予期した通り、26日の新聞に「メール・電話で家族会を批判、首相面会時発言めぐり」という記事が出ていました。メール、電話の四分の三は「首相に感謝の言葉がない」、「拉致被害者の家族の帰国を喜ばないのか」などと批判する声だといいます。

本当にことばは難しいものです。良かれと思い使ったことばで人は喜んだり、怒ったり、傷ついたり、悲しみにくれたり色々です。百人いれば百人の取り方、解釈の仕方があります。だからことばは難しいのです。

釈尊が説かれた教えに法句経(ダンマパタ)があります。
ダンマとは真理または真実という意味があります。パタはことばという意味です。ですから法句経とは「真実の教えのことば」ということになります。その中に次のような詩があります。

粗なることばをはなすなかれ
言われたるもの またなんじにかえらん
いかりより出ずる言葉は げに 苦しみなり
しかえしかならず 汝の身にいたらん

粗(そあら)なる言葉とは暴言のことです。言葉による暴力です。言葉の暴力は人を傷つけ、立ち上がれないほどに打ちのめします。釈尊はみだりに暴言を吐いてはならない。暴言を吐けばかならずその人のもとに返ってくると説いています。日本人は本来思いやりの心を持っていました。その一つが人を傷つけてはいけないという思いやりの心です。
最近は先に言わなければ損をする。先に言った方が勝ちとばかり人を批判し、暴言を吐き、人が傷ついても痛みを感じない人が多くなったのではないでしょうか。もう一度釈尊の法句経の言葉を噛み締めてみたいと思います。

       
   

● こころのはなし(第32回)2004.5.15

 二三日前の新聞に、四国の水がめである早明浦ダムが満水になったと伝えていました。毎年渇水で苦労する香川県の生命線とも言える水がめです。高知県にあるこのダムから吉野川に水を流し、徳島県の阿波池田から阿讃山脈をくり貫いたトンネルで、香川県財田町まで導水し、讃岐の平野を潤しています。

 讃岐には空海が修築した満濃池がありますが、この水は二市四町の田畑を潤します。この満濃池のユル抜きは六月十五日、空海の誕生日に行われます。ユル抜きとは水門を開けることです。

この満濃池のユル抜きが始まると讃岐平野の田植えが始まりますが、最近では田植えは大分早くなって、もう4月の後半に田植えを始める農家もあります。前は暦の半夏生までに田植えを済ませてしまい、この後は田植えをしないとう習慣があったそうです。

この半夏とはもともと仏教の九十日にわたる夏安居(げあんご)の中間である四十五日目を指します。夏安居とは釈尊在世にインド各地に伝道に出ている僧侶が、雨季の期間に祇園精舎に戻り、静に瞑想をし、修行をする期間をいいます。

また半夏とは、水辺に生える「からすびしゃく」というドクダミ科の多年草の毒草のことで、六月頃、緑色をおびた鞘(さや)が出来ます。半夏生とはされが生える時期ということになります。
その塊根は生薬として鎮嘔薬・鎮吐薬に用いられるとあります。
(註)現代こよみ読み書き辞典 岡田芳郎、阿久根末忠編著
   柏書房
丁度五月二十日頃が二十四節季の内の新暦の小満に当たります。旧暦の小満は四月三日です。この小満は立夏後の十五日目に当たります。天文学的にいえば、太陽が黄経六十度のてんを通過するときを言います。また小満とは万物がしだいに成長して、天地に満ち始めるという意味です。麦の穂が成長し、野山の植物は花が散って身を結び、田に苗を植える準備をする頃がちょうど小満に当たります。ですから四月下旬に田植えをはじめるということは、昔と比べたら相当早くなっていることが分かります。

この小満の頃のことばで「苦菜秀(しい)ず」と表現しています。この頃は苦菜(にがな)がよく茂る時節と言われています。
この苦菜というのがどのような植物かは分かりません。「秀ず」とは植物がよく繁茂することと、花が開き実を結ぶという意味もあるといわれています。

このように日本人は四季の移り変わりを敏感に感じ、植物の生態をよく観察して生活設計をしていたことが分かります。
これは日本人の感性の豊かさであり、本来農耕民族であったことの証しでもあると思います。いま私たちは多忙な毎日を送り、心のゆとりが無くなってきました。時の移ろいの中で季節の花々、一木一草の命にも目を向けていくゆとりを失いたくないと思います。

       
   

● こころのはなし(第31回)2004.5.01

現在国会では「年金改革関連法案」が審議されています。難しいことは分かりませんが、与党の主張は年金の掛け金の値上げと、年金支給の減額だそうです。それに反対する与野党の攻防が争点となっているようです。
 このような時に、社会保険庁の広告に起用された女優江角マキコさんの国民年金未納にはじまり、ついに未納が三閣僚とさらに四人の閣僚に及び、それを「未納三兄弟」非難していた民主党の代表も未納であったという笑うにも笑えないことが起こりました。
それぞれ未納の議員の先生方は、釈明とお詫びを繰り返すばかりです。

中国の長江の流れ近くに金山寺というお寺がございます。その金山寺に時の皇帝がご行啓されました。皇帝は長江の流れが一望できる高楼に住寺とともに登り、長江の流れを見ていました。
 突然に皇帝は住寺に質問をいたしました。「この長江に一日どれほどの船が行き来するだろうか」、すると、「ハイ、一日の船の往来はたったの二隻でございます」と金山寺の住寺は答えました。
訝った皇帝は「いま長江を見ているだけで、何十隻という船が行き来しているのに、二隻とはどのようなことかと問いただしました。すると住寺は「一隻は利養の船、もう一隻は名利の船と答えました。
 人間は必ず二つの目的で働いています。一つは自分の利益を得るため、もう一つは自分の名声を得るためのみに働いています。と答えました。
 人間の目的がこの二つのためのみであったら寂しい限りです。
特に公職につかれている方は清廉でなければならないと思います。清廉とは心が清くて私欲がないことです。
十七世紀に中国に洪応明(こうおうめい)という人がいました。
洪応明は道教、仏教を研究し、「菜根譚」(さいこんたん)を著しました。菜根譚の菜根とは粗食ということで、粗食に耐えたもの、要するに苦しい境遇に耐えた者だけが大成するという意味を含んでいます。この菜根譚には人生如何に生きるべきかが示されています。その中に次のような言葉があります。

「官に居るに二語あり、いわく「ただ公なればすなわち明を生じ、ただ廉(れん)なればすなわち威(い)を生ず」

公職にあるときの心得に二つの語があります。一つは「公正であってこそ正しい判断が出来る」次に「清廉であってこそ威厳が生れる」という意味です。今の政治家には耳が痛いことばではないでしょうか。

       
   

● こころのはなし(第30回)2004.4.15

 私は週に2,3回の割合でフィットネス・クラブに行きます。
大分前に、椎間板ヘルニアを患い手術を受けました。椎間板ヘルニアとは、脊柱(せきちゅう)に連なっているつい椎骨と椎骨との間にあにある円板状の組織で、腹筋と背筋のバランスがくずれて円板状の組織が飛び出して、神経に当たるとものすごい激痛がはしり、それはもう耐えられない痛みをともないます。丁度ギックリ腰を想像していただいたらよいと思います。

手術から約50日間入院いたしました。手術は成功し完治したのですが、足の指先辺りに痺れのような後遺症が残りました。
生活には全く支障はないのですが、歳を経るに従ってしびれがひどくなってはいけないと思いリハビリと健康管理のつもりで
フィットネス。クラブに通うようになりました。

フィットネス・クラブはビルの3階にあり、ビルの向かい側は高松中央公園です。もう数年も通っていますと公園の四季の移り変わりがよくわかります。今は公園の樹木は新しい葉が一斉に成長し、見る間に公園一帯が新緑に覆われてきました。特に楠、銀杏、桜の木はつい先日花が散ったと思っていましたら、もう若葉が出ています。 季節がこれから5月、6月と移り変わると淡い緑が段々と濃くなり、真夏には我々に緑陰を与えてくれます。

 このような自然界のいとなみは実は大宇宙の大生命のいとなみなのです。宇宙とは何か考えると、宇宙とは中国の古書に「四方上下、これを宇といい。往古来今、これを宙という」とあります。宇とは限りない広がり、宙はかぎりない時間です。要するに無限の広がりがあり、その無限の広がりの中に森羅万象のすべてを包み込んでいます。その内容は天空にある無数の星座、天体をはじめ地球上に生息する人間や獣、魚類、虫類の生き物、草木などの植物、鉱物、土石類の数々、おおよそ生きとし生けるありとあらゆるものが、網のように連鎖している森羅万象があります。

しかもそのそれぞれが、生まれ変わり死に変わりながら、消滅変化して永劫に続いています。これらのすべてを内蔵している大宇宙は、実は唯一あらゆる対立を絶し、果てしなく広がり、しかも永遠に生き続く無限絶対の大生命体です。この生きている大宇宙は、そのまま仏様として仰ぎ拝むのが真言密教なのです。そしてその宇宙大生命を大日如来と名付け遍照金剛と呼ぶのです。

だいぶ難しい話になりましたが、一本の花も、路傍の草もすべて仏の命の顕われだと言うことです。

 

       
   

● こころのはなし(第29回)2004.4.01

昨年の十月に球根を植えたチューリップの花が開花し、参拝にこられる人の心を和ませています
 昨年「寺花いっぱい運動」と銘打って実行に移しました。この計画を坐禅会に参加しているメンバーに話したところ、私が堆肥を作っているから使ってくださいとトラックいっぱいの花崗土と堆肥を二十袋も持って来てくださいました。

 さー、これでは後に引くことができません。プランタンを買い込み、手始めにチューリップの球根を買い、頂いた堆肥で土作りから始め、出来上がったプランタンを玄関脇に並べ、管理しやすいようにしました。外出するときには必ずプランタンを覗き、土が乾いているようであれば水をやり管理をいたしました。
 すると早くも一月頃には芽を出したではありませんか。寒中なのに芽を出すなどということは今まで知りませんでした。

 春彼岸頃になると急に成長を始め、葉が伸びて花芽が大きく膨らんで、茎も伸び、三月二十七日に開花しました。本当に手塩にかけて育てたといっても過言ではありません。大切に育てますとよくぞ咲いてくれたという感動にも似た喜びがあります。

春はすべての生き物が躍動する季節です。このエネルギッシュな月、四月八日にお釈迦様が誕生されたのです。
 お釈迦様にはいくつかの呼び名があります。釈迦とはご出身の種族の名です。釈迦族です。父はインドに近い現在のネパール南麓カピラ城の浄飯王(じょぼんおう)、母はマーヤ夫人(摩耶)です。

お釈迦様の姓はゴータマ、名はシッタルタといいます。伝説では釈尊(釈迦族の尊いお方という意味)は、はるか昔に燃燈仏という仏様から、将来仏になるという予言を受け、修行のすえいったん兜卒天という浄土に生れ、また兜卒天から降りてきてこの世に生を受けたと伝えられています。マーヤ夫人はある夜、六本の牙をもつ白い象が体内に入るを見て懐妊いたしました。実はこの白象は、兜卒天から降りてきた釈尊なのです。

月満ちて出産が近いことを知り、マーヤ夫人は城を出て自らの実家に向かいました。その途中にルンビ二という公園に立ち寄られました。この公園には今盛りと無憂樹の花が咲き乱れていました。

マーヤ夫人は風に乗ってながれてくる香りに誘われ、思わずその無憂樹の花に右手を差し伸べた時、陣痛がはじまりました。そして花に触ろうとした右手のわき腹から釈尊がお生まれになられたと言い伝えれています。

釈尊がうまれた時、神々は沢山の花を降らせ、竜神は甘露の雨を降らせたと言い伝えられています。日本では四月八日が釈尊の誕生日とされ、誕生日をお祝いするためにお堂を花で飾り、誕生仏に甘茶を潅ぐようになりました。この釈尊の誕生日をお祝いする行事を仏生会(ぶっしょうえ)、誕生会(たんじょうえ)、潅仏会(かんぶつえ)降誕会(ごうたんえ)、浴仏会(よくぶつえ)竜華会(りゅうげえ)などといいます。またお堂を花で飾るので花祭りとも言います。

四月八日にはぜひとも、近くのお寺に歩みを進め、花見堂に安置されている誕生仏に甘茶を潅ぎ、お釈迦様のお誕生日をお祝いしましょう。

潅仏の日に生れあふ鹿(か)の子かな   芭蕉

       
   

● こころのはなし(第28回)2004.3.15

本堂を開ける時、甘い沈丁花の香りが漂ってきます。早朝に起きることのメリットは、季節の移り変わりが肌で感じられることです。夜明けも次第に早くなり、6時にはすっかり明るくなります。

私の起床は冬時間で5時30分です。まだ真っ暗ですが洗面を済ませ、山門の扉を開け本堂や弁天堂の戸を開け、6時の梵鐘を撞く時にはもう夜が明けています。

お寺の起床は伝統的に早いものです。なぜ早いのでしょうか。本来寺には決まられた規則があります。その規則に則って一日の生活を進めていきます。その規則に四威儀作法(しいぎさほう)があります。

四威儀作法の威儀とは作法に叶った立ち振る舞いを言いますから、仏道生活における作法に叶った立ち振る舞いを指します。
その立ち振る舞いは行住坐臥(ぎょうじゅうざが)
(1) 行とは行くこと、
(2) 住とはとどまること
(3) 坐すること
(4) 臥とは横になること(就寝)
の四つの人間の行動をさします。この四つの行動を戒律にしたがって正しく整え、備えることを四威儀作法といいます。

この規則に従って粛々と行っているのは修行道場ぐらいかと思いますが、お寺でもこの四威儀作法を生活の基準としています。
この作法の一番初めに出てくるのは起床の時を知らせる鐘の撞き方です。この鐘は鐘撞き堂(鐘楼)の鐘ではありません。
半鐘です喚鐘(かんしょう)ともいいます。半鐘は基本的にはこれから何をすべきかを知らせる鐘です。鐘の撞き方がそれぞれ違いますので、その鐘の音を聞き分け行動しなければなりません。三通二下とあるのは半鐘の打ち方を定めています。

次に起床は次のように定められています。
「起床は寅(とら)の刻に至って鐘を打つべし、三通二下(さんつうにげ)」とあり、起床は寅の刻です寅の刻は時間を十二支に当てはめています。寅の刻とは現在の午前4時を指します。この4時を暁(あかつき)といい6時を明け、8時を朝としています。ですから暁天坐禅会と看板をかけ、坐禅会を開いているお寺があれば、それは本来なら午前4時を始めといたします。しかしこれだけ早いと一般の方は起きるのが難しいと思います。6時でも暁天としています。今はほとんどの人が夜更かし朝寝方だと思いますが、本来農耕民族である日本人は早寝早起き方でありました。まだ朝薄暗い時に既に田んぼに立ち、農作業し、夕方家に帰り、暗くなりと就寝するという生活でした。このスタイルを今の日本人に求めるのは酷だと思いますが、早起きの習慣をつけるのも健康的でよいと思います。
早朝に起き空を見上げると、北帰行をする鳥の姿を見ることができますよ。

       
   

● こころのはなし(第27回)2004.3.01

2月20日に高松市友好親善訪問団のお誘いを受け、友好都市である茨城県水戸市へ同行させていただきました。
 
今から362年前の寛永19年に常陸の国下館(しもだて)に城主であつた松平頼重(よりしげ)は高松に転封を命じられ、東讃岐12万石を賜わりました。それまでは秀吉の中老であった生駒親正(いこまちかまさ)から4代、54年にわたって讃岐を治めていましたが、4代高俊の時代に現在の秋田県由利郡矢島に国替えとなり、その後を受けて松平家が高松に移封しました。
 
松平頼重は徳川家康の孫にあたり、家康第11男徳川頼房の長子で、同腹の弟に水戸藩主、黄門様で有名な徳川光圀(とくがわみつくに)がいます。この高松と水戸との関係は幕末まで続きます。このようなわけで高松と水戸は友好関係にあります。

 このたびの訪問は友好を深める目的と、2月20日から3月31日まで「梅まつり」にあわせての訪問です。梅祭り初日ということもあって賑わいは想像以上のものでした。天気もよく暖かで絶好の観梅日和です。

三戸の偕楽園は江戸時代末期に造られ、12,7ヘクタールの約2分の1に3000本、100種を数える品種があり、全国のほとんどの品種が集められているといいます。なるほど天下の名園だということを納得いたしました。

偕楽園に到着すると市観光課の方の出迎えを受け、公園を案内してくださるボランティアの方が懇切丁寧に梅園の説明、梅の種類、
梅に纏わるエピソードなどを説明してくださいました。二時間余りの時間嫌な顔一つせず、またこちらの質問にも答えてくださり、
遅れている人にも声を荒げることもなく、笑顔で接してくださいました。お世話になったボランティアの方に頭が下がる思いでした。

このボランティアを辞書で引いてみると、(義勇兵の意)志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人。とあります。現在ボランティアとは奉仕者という意味で使われています。ボランティアの条件は無償であることが一つの条件と私も理解しています。

この奉仕で難しいのは無報酬でありながら一切の見返りを求めないことであると思います。例えば奉仕をしたのにあの人は御礼も言われなかった。これは既に見返りを求めています。

仏教では慈悲を説きます。慈悲とはいつくしみの心と訳しますが、慈悲の悲は「うめく」と訳します。呻くということは苦しみを人に訴えられないほどの苦しみです。その呻くほどの苦しみを察知して、無条件で救うということです。例えば「あたかも母親が子供に対するように、無条件で苦しみを救ってあげよう」とすることです。そこには一切の見返りを求めません。これが真の奉仕の精神であり仏様のこころです。

 

       
   

● こころのはなし(第26回)2004.2.15

忍辱(にんにく)こそ最上の行
苦しさをたえ忍んでこそ
この上もなき涅槃(ねはん)なり
諸仏はかく言いたまえり
まこと 出家して
人をそこなうものなく
沙門にして
他(ひと)をなやますことなし

この言葉はお釈迦様が説かれた詩を集めた法句経(ダンマパダ)の言葉です。
「耐え忍ぶことこそ最上の行」と釈尊は説かれています。

人間というものは本当に弱いものです。苦しい時、悩んでいる時にはどうしても他を頼りとします。本当に苦しんでいる時には友人の言葉が励ましになり、一言のアドバイスのお蔭で立ち直るきっかけを着かんだりいたします。
 しかしどんな状況下にあっても最終的には耐え忍ぶ自分があってこそ、その苦しさを克服することができるのです。

昭和55年に北島三郎が歌い大ヒットした「風雪ながれ旅」(星野哲郎作詞、船村徹作曲)があります。
この歌のモデルは津軽三味線の奏者高橋竹山です。竹山は明治43年に青森県小湊の小作人の二男二次に生れました。二歳の時にはしかにかかり、その影響で半失明になってしまいます。このため苦難の道を歩むことになるのです。

半失明のために差別的に「めぐ(盲人の意味)といじめられ、小学校には二日ほど行っただけで辞め、その後は牛を散歩させたりして家の手伝いをしていました。
やがて坊様(男盲の門付け芸人)になるように勧められました。しかし竹山はこの坊様になるのを嫌いました。なぜなら坊様はさげすまれていました。それまで一緒に遊んでくれた子供も、「おめ、坊様になるんだってな」と急に態度が変わり遊んでくれません。
だが、貧しい小作の家ですから、竹山は自分の食い扶持をもたなければなりません。そして嫌がっていた坊様に14歳の時に入門し弟子になったのです。
しかし竹山は一軒一軒の門口に立ち、生きるために雪の日も、雨の日も門付けの旅は続きますが、行く先々で冷たく追い返させれ、石も投げられ、世の中の悲哀を身にしみて味わうのです。

北海道に門付けに行ったとき、何日も食べるものもなく、行き倒れになったところを朝鮮人の夫婦に助けえられ、貧しい食料からお粥を食べさせてくれました。竹山は涙を流しながらそのお粥を食べ、お礼に三味線を弾くと近所の朝鮮人が集まり、アリランを合唱しました。
竹山は後年、コンサートでは必ずアリランを弾くようになります。そのときの一杯のお粥と、朝鮮人の人情の温かさと恩を三弦に込めて表したのでしょう。

孫の哲子さんは「穏やかで、冗談の好きな面白いおじさんでした」と振り返りながら、三味線奏者として名を挙げるうちに、人間的に穏やかになっていきました」といわれています。
(産経新聞平成15年11月25日 ライバル物語より)

人間の現実の世の中は苦しみの世の中、絶対苦といって、この世に生れたら絶対に逃れられない苦があります。苦しみと意のままにならないことです。この世の中はほとんどのことが自分の思うようにならないのが現実の姿です。
釈尊は耐え忍ぶことこそ最上の行であるといわれています。

       
   

● こころのはなし(第25回)2004.2.01

お釈迦様が説かれた法句経に次の言葉があります。
誹(そし)らず害(そこな)わず
戒(いましめ)におのれをまもり
食(かて)において量(ほど)を知り
閑(しず)かなる所に坐して
しかも易(やす)きに住せざれ
と、かく 諸仏は訓(おし)えたもう

このことばは釈尊在世の時、僧団(僧伽そうぎゃ)の秩序を保つ為に説かれたものと思います。僧侶達のことを和合衆といいます。和合衆とは和らぎ合う仲間、仲良くするものの集まりといいますから僧伽においては秩序を保つ為の規範が存在いたします。
その一つの規範を示されたのがこの教えだと思います。

「誹らず、害わず」誹らずとは他人を悪ざまに言わないこと、害わないとは悪く言わないということです。
テレビのワイドショーや週刊誌を見ますと、毎回のように芸能人の醜聞(聞き苦しい評判)によって、ああでもない、こうでもないととやかく論じています。それがスキャンダラスなほど視聴者はよろこんでいます。芸能リポーターという職業が定着し、それがあたりまえになってしまいました。
芸能リポーターは、これは私の仕事だ。飯の種だと言うかも知れません。しかし、それを受け入れる社会がおかしいのです。
 私たちはことばに無神経であってはなりません。人に愛情を注ぐことができる人は、ことばを大切にいたしますし、逆に他人に対して無神経な人はことばがぞんざいです。
他人を誹るまえに、その人の長所を探し出そうではありませんか。
きっと、欠点より長所のほうが多いはずです。その人の長所を認めることが、人格を認めることになるのです。
つぎに「戒めにおのれをまもり」と説いています。戒めとは戒律を守ることです。戒律というと堅苦しく馴染みにくいものと考えます。しかし、戒律は生活のリズムです。例えば暴走しがちな車をブレーキによって制御するように、欲望によって暴走する自分を戒律というブレーキによって制御すること、これが戒律です。

次に釈尊は「食(かて)において量(ほど)を知る」とおっしゃいました。
 今日ほど食べ物の豊かな時代は過去にはなかったと思います。テレビでは連日料理番組を流し、またグルメをつい供する番組が好視聴率をとる。皆さんは「どっちの料理ショー」という番組をご覧になったことがありますか、全国各地から選りすぐった食材を集め、優秀な料理人が腕をふるい、ゲストは自分の食べたい料理を指名する。
今の日本は糖尿病の患者が増え、糖尿病予備軍は1370万人と言われています。今や痩身のために多くの人が腐心しています。
今こそ飽食を止め「食(かて)において量(ほど)を知る」生活を心がけとうではありませんか。

最後に「閑かなる所に坐して、しかも易きに住せざれ」と説かれました。自己を一度静寂の中に身を置き、正しい呼吸法により肩の力を抜いて緊張から解放しようではありませんか。
大宇宙の中の小宇宙である自分、その存在に気づき、生命の尊さを自覚するはずです。

 

       
   

● こころのはなし(第25回)2004.1.15

一月も既に15日が来てしまいました。先人曰く「人生は白駒(はっく)の隙(げき)を過ぎるが如し」といわれるように、戸の隙間から外を見ると、白馬が一瞬に通り過ぎるぐらい人生は短いというのです。
一月十五日は「小正月」です。これは旧暦の一月十五日をいいますが、元旦を大正月と呼んだのにたいする呼び名です。また元旦の大正月には門松を立てるのに対して、小正月には餅花などを飾りました。これは一年の無病息災を祈る行事だと思います。
昔は医学が発達していませんでしたから、病気は死と隣り合わせでした。ですから何を置いても無病息災であることを祈ったのです。現在でも健康である事が一番の幸福です。

現在世界の人口は2004年1月現在、約63億9300百万人といわれ、日本の人口だけでも約1億2600万人います。
この63億人の人々のほとんどが幸福なりたいという願を持っています。ことに今生きている人だけでなく、大昔から今日に至るまで皆が幸福を望んでいますから、この世の中にはもっと幸福な人がいても良いと思いますが、「私は本当に幸福です」といえる人が少ないですね。それは何故でしょうか?
 
 それは人によって幸福の捉え方が違うのではないかと思います。体の弱い人は体さえ丈夫であったら幸福だと思うでしょうし、お金に困っている人はお金さえあったら幸福だと考える人もいると思います。けれども一面お金ができたために不幸になったり、地位を得たためにかえってストレスがたまって病床に倒れた人もいます。幸福と一口に言っても、その内容は色々とあって、一様ではありません。

幸福には性格の違いがあり、程度の差があり、浅い、深いというように奥行きの差があります。ですから幸福はその内容に立ち入ると、その一人一人の気持ちの変化とをすべてあわせたほど多様だといわなければなりません。

ではその幸福とはなんでしょうか。
幸福そのものは固定した形として外部に存在しているのではなく、目には見えない心に幸福というものがあるのです。
 
亀井勝一郎の著作に「思想の花びら」があります。大和書房から1966年に出版されました。その中に幸福について次のように書かれているので紹介しましよう。

「人間は言葉によって欺(あざ)むかれやすいものだ。幸福という言葉があるおかげで、我々はどれほどの妄想にふけっているか。
仮にこの言葉がなかったら不幸だろうか。私の言いたいことは、幸不幸という観念に惑わされることなく、日々の義務を果たせということだ。一日の労苦は一日にして足れりである。その労苦の中に見出されるささやかな喜びを味わうことができれば幸である。それを味わえない人は、どんな大きな幸福をも手にすることはできないであろう」

釈尊が幸福について説かれた経典に、「大吉祥経」があります。
釈尊は幸福にたいする考えを詩によって説いておられます。その詩を少し紹介いたします。
 父と母に孝養をつくし
 妻と子を扶けやしない
 濁りなきなりわいにしたがう
 これを人間の最上の幸福となす。

広く学び、技芸を身につけるはよく
規律ある生活を習いはよく
よき言葉になじむがよい
これが人間の最上の幸福である

このほかに沢山の詩によって幸福の定義を述べておられます。
何故幸福の定義が一つではないのか、それは前にも述べたとおり、
幸福というのは固定した形をとって外に存在するのではなく、自身の心の中に存在するということです。


 

       
   

● こころのはなし(第24回)2004.1.01

皆さま明けましておめでとうございます。
皆さんにはいかがお過ごしでしょうか。今ご家族そろってお祝いをしているお家も多いことと思います。
 私は寺にいる限り夏は5時に起き、本堂で読経し、6時には鐘楼の鐘を撞きます。冬になると5時半に起床し、山門の扉を開け、鐘楼に登り6時の鐘を撞きその後本堂で読経をします。鐘の撞く回数は9つです。これは苦しみを越すといい、数字の9を苦と捉えて苦しみを離れるという願を込めます。
弘憲寺では大晦日の晩だけ一般の人に開放し、一人3回づつ撞いてもらうことにしています。最近は鐘を撞きに来る方が大変多くなり、長い行列ができるほどです。そのために鐘楼をライトアップして皆さんを迎えていまし、本堂では甘酒を接待しています。
普段お寺と縁のない人が、大晦日の夜だけでも鐘を撞くことによって寺との縁を結んでいただけることは有り難い事です。
除夜の鐘は昔から百八つ撞くのを慣わしになっています。勿論この数は煩悩の数なのです。この煩悩の百八つをグット圧縮すると煩悩の数は三つの煩悩になります。
貪り(むさぼり)瞋り(いかり)痴(おろかさ)です。この三つの煩悩は私たちの体や心の毒となるので、三毒煩悩といっています。この三毒煩悩を広げると百八つの煩悩となります。要するに三毒煩悩があとの105の煩悩を生み出す要因になっています。
痴、(おろかさ)とは真実の教えを知らない。真実の教えとは真理です。どのようにこの世界が変わろうと、絶対に変わることのない教えです。その真実の教えを知らないから直ぐに腹を立てたり、貪るという心の動くままに行動をしてしまうのです。このようでは何時までも心の安らぎを得ることが出来ません。
百八つの鐘を撞くことは、自分のこころを省みる機会を与えているのです。

 

     
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