■ 弘憲寺の歴史
弘憲寺は今から1300年前の天平時代、現在の香川県綾歌郡飯山町に法勲寺というお寺がありました。その後現在の高松に移された。法勲寺では、白鳳期から平安時代にかけての瓦が出土するとともに、「吾妻鏡」に見えることから鎌倉時代までは確実に存在していた。その後、縁起によれば廃寺となり、本尊、霊宝を近くにある島田寺に移したという。天正15年(1587)生駒親正が讃岐に国主として入ることにより、大きな転機を迎えた。
縁起では、「生駒親正は、讃岐が空海の誕生地であることから、密教に帰依するとともに、島田寺の良純を敬って、法勲寺を再建して良純上人に寺務を執らせた。
慶長8年(1603)2月13日に親正(謚弘憲公)が没すると高松西浜(現在錦町)に葬られる。同年、親正公の息子一正により、法勲寺が親正公の塚上に移され、弘憲寺と称するとともに、良純を住職とした。この時、島田寺領50石を弘憲寺に付すとともに、古画、名器をうつし、島田寺を弘憲寺の末寺とした。この時より、良純上人を初代住職として弘憲寺が開山される。
良純上人没後、二代目の住職となったのが 宥遍上人である。縁起によれば、大力の持ち主として知られ、高野山浄菩薩院の住職であった。嵯峨大覚寺法親王が高野山に遊学したとき宥遍上人を師と仰いだ。これを縁として寛永13年に上人の号を授かるとともに、法親王が後水尾天皇の皇子だったことから、宥遍上人は天皇から七条袈裟を賜っている。寛永19年生駒家は出羽国(秋田県)矢島に国替えになり、寛永19年、新藩主として松平家に入封する。弘憲寺は松平家から領内で弘憲寺のみに降雨の祈祷が命じられ、郡奉行や郷方役人が寺に詰めたと記されている。また、一群一ヶ寺のみ選ばれる五穀成就の祈祷も仰せつけられ、松平政権下においても、重要な役割を担っていた。
現在の住職で17代を数える 。
■ 生駒家について
高松城を築城し、城下町の開府に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正
(1526-1603)である。親正公は美濃国土田(岐阜県可児市土田)の出身、親正が記録上に土田甚助の名であらわれるのは斎藤道三の死後に起きた明智城の攻防戦である。その後に豊臣秀吉の配下の武将として活躍することになる。このころから縁ある関係から生駒の姓を賜ったとされる。
その後、秀吉の臣として全国各地を転戦し、多くの戦陣にあって武功をたてた。その武功によって、大名としての道を歩む。天正6年には近江で二千石を与えられ、伊勢神戸で三万石、播磨赤穂で六万石と順調に加増し、秀吉軍の中堅武将としての地位
を確立していった。
生駒親正が讃岐を与えられたのは、天正15年(1578)のことである。以前の讃岐の領主であった仙石秀久、尾藤知宣などがいずれも、九州平定の際に軍事上の失策を咎められ、讃岐一国を除かれた後を受けて入府した。その後、天正16年に高松城築城の普請開始され、「野原」と称していた地名も「高松」になった。そして商人や町人が近隣に集まり、町割りもなされて高松繁栄の一途をたどり、生駒家は4代54年間続き、4代目高俊のとき、生駒騒動が起こり、この騒動にたいし幕府は裁決を下し、藩主の生駒高俊は讃岐一国は没収、出羽国由利郡矢島一万石に転封する。現在高松市と秋田県矢島町とは友好親善都市として相互に交流し、400年ぶりの友好を深めている。
現在の高松市は32万人の瀬戸の都として繁栄を続けている。
|