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心の講話


■ 心の講話バックナンバー 2007年分
     

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      こころのはなし(第111回)2007.12.16

15日の晩、高松駅近くのシンボルタワー30階にあるフランス料理の店「アイルス・イン・タカマツ」という所でNHK文化センター高松の主催で、全日本作法会教授の講師の方が本格フランス料理のデナーによるテーブルマナーの講義を頂きました。
 講師の方は私の知人ですので、家内と共に出席をいたしました。
私は西洋料理は結婚式とか、色々な食事会などで食していますが、正式なテーブルマナーは初めてのことでした。
 
 食事の前1時間30分はテーブルマナーの講義を受けました。先ずテーブルマナーの概要、着席の仕方、ナプキンの扱い方、
そしてフルコースのいただき方です。
 はじめにアミューズこれは先付けです。これは簡単に言いますと食欲を起こさせる前菜とでも言ったらよいでしょうか、飲み物はシャンパンのような食前酒です。次にだされたのが前菜、大根の上にフォグラを載せた物、フォグラは世界の三大珍味ですよね、
因みに世界の三大珍味とはフォグラ、キャビヤ、トリフだそうです。また世界の三大料理というと、フランス料理、トルコ料理、中国料理だそうです。日本料理も遜色ないと思うのですが如何でしょうか。
 次に出されたのが魚介類のスープ料理、瀬戸内の魚介と香川県野菜、これが終わるとお口直しでシチリア産レモンのグラニテです。要するのレモン味のシャベットです。
次がメインデッシュの肉料理、和牛フィレ肉のソテー、後はデザートとコーヒーが出て終わりました。
 それぞれの料理ではソムリエの方や、講師が説明をしてくださり、生まれて初めて西洋料理の講義を受けたわけです。

この講義を受けて感じたことは、やはり西洋、ヨーロッパの食文化と東洋の食文化の違いです。
西洋は遊牧民、羊を追って生活する民です。東洋は農耕民族ですその違いが食生活の違いにはっきりと出ることがわかりました。
遊牧民は羊、牛などの動物を食しますから、どうしてもナイフ、ホークを使用します。正式に西洋料理のフルコースを味わうと、陶器の上にある料理を必ずフォークとナイフを使って食べなければなりません。どうもそれが違和感があるのです。日本料理では決して金属を使いません。木とか竹の箸だけです。だからやさしい。料理も自然の食材に合わせて調理します。ここが大きな違いです。
 
 次の講師が「あなたがテーブルに着いているのは、皆さんを楽しませるためです。愉快に振舞って、貴方の役割を果たしてください。陰気はご法度です!」といわれました。
ここも日本の食事と西洋の食事との大きな違いではないでしょうか。日本の食事方法は仏教の教えや、さらに儒教や道教の考え方が色濃く反映しています。まず、仏教では不殺生を固く禁じています。自分の欲望で食べたいからといって、生き物の命をむやみに殺してはならない。と戒めてきました。また食事中におしゃべりをすることを戒めてきました。これは御蔭様の心が働いています。
食事しながらいま食べようとしているものは多くの人の手がかかっている。その来処を考え、感謝しようと教えられてきました。そうした中で、食事中にお話をすることは、多くの人に心を及ぼすことが出来ないからとの理由からです。このように食事の場で、躾としての生活習慣を身につけ、社会性を身に付けていったのです。いま日本文化中で精神性、特にこの食教育が大きく崩れていっています。

 

       
      こころのはなし(第110回)2007.12.01

ウドンの話は一応終わりにして、話を替えたいと思います。
先月10月の中ごろ、高松市の保健センターから高齢者の大腸ガン検査の受診券が送られて来ました。
 掛かりつけの病院に行き、診察券を渡すと先ず検便をしてくださいという。その日の夕方に一度、次の日の朝に一度です。看護師さんから採取用の道具というか、器具というのかわかりませんが渡されました。
 私の小学校の頃は昭和20年代でしたから、検便の道具も今のようなスマートなものでなく、マッチの空箱を使ったように思います。その後小さなブリキの缶を渡されたことを覚えています。
 さて、今回便を採取して病院に持参しましたが、自分は先ず大腸ガンではないと思っていましたから、何の不安も無く提出しました。
 後日、夜8頃病院の主治医から電話があり、「便を検査したところが、便に出血が見られます。紹介状を書きますから総合病院で消化管内視鏡検査をしてください。」とのことでしたので、総合病院と検査日の打ち合わせをしました。その検査の日が11月29日です。検査日まで約一ヶ月あります。今まで自分は腸の中に内視鏡を入れた経験がありません。出血が認められるということはどういうことだろうか。もしかしたらポリープが出来ているのだろうか?出血をしているのだからポリープではなくて、若しかしたら大腸ガンなのかもしれないと、悪いほうばかりを考えるのです。そうすると一層不安が増大し、あまり食欲も湧きません。
どうしても気分が晴れないのです。
 しかし、一ヵ月後の検査ですので、その間の予定は消化して行かなければなりません。仕事をしている時は忘れるのですが、何かにつけて思い出し、不安になるのです。

11月26日から28日まで全真言宗教誨師研修大会が京都の洛北にある大覚寺において行われます。これにも参加しなければなりません。朝6時09分の瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、京都に8時過ぎに着き、そこからバスで渡月橋を渡り、天竜寺前を通り、9時過ぎに大覚寺に到着しましたが、京都は紅葉の時期ということで、どこへ行っても観光客で大変な人です。私の乗ったバスより一便遅れて乗車した友達は、天龍寺の前で車の渋滞で大覚寺まで一時間半かかり、「研修会の開会式に間に合わないかと思ったよ」と言っていました。そんな状況下でもふと大腸ガン検査のことが心をよぎり、また不安になってしまいます。
私は普段からあまり物事に動じないところがあると思っていましたが、ことが自分の体のことになると、この不安が断ち切れません。
 いよいよ検査の前日の晩下剤を4錠飲みそのまま就寝、次の日に10時に総合病院に行き、検査の説明を聞き、次に2リットルの水を2時間かけて飲みました。この水は薄い塩分で、下剤が入っているのでしょう。何遍もトイレに行き、腸にある排泄物を出してしまい午後から内視鏡を入れて検査が始まりました。自分が緊張するのがよくわかります。モニターテレビを自分も見ながら 
腸内の様子を見ることが出来ます。
 2、30分かかったでしょうか、ドクターは検査の終了を告げ、腸内の状況を説明してくださいました。
 お蔭で異常なしということで、一度に緊張が解け、不安もいっぺんに吹き飛んでしまいました。
 人間は不安な事柄に執らわれるとその不安が増大し、苦しみになってきます。苦しみとは自分の思うようにならない感情です。
この執われ、難しくは執着といいます。この世の中には思うようにならないことの方が多いのです。この世の中は思うようにならない世界なのだと知って生きていかなければいけません。
 執らわれない心を説いているのが般若心経というお経なのです。


       
      こころのはなし(第109回)2007.11.15

讃岐うどんの話も連続で7回続きました。うどんの話はいくらでも続けられますが、8回を持って終わろうかと思いますが、讃岐うどんも美味しいからと言っても麺だけ食べたら毎食食べられるわけでもありません。やはり出汁が重要な役割を果たします。
 讃岐では出汁もかけずに麺だけを食べる人もいますが、それはまれなことです。前にも話しましたが、うどんは蕎麦と同じように出汁はかけて食べるかつけて食べるかのどちらかです。
ですからうどんの出汁が美味しさの重要な要素になります。
老僧から昔はうどんはどのようにして食べていたのですかと聞きますと、「讃岐は昔は醤油と味噌は自家製、茹でたてのウドンに自家製の醤油をかけて食べた」という答えが返ってきました。それは美味いはずです。醤油にはその家その家の特徴があり、今市販されているものとは一味も二味も違うと思います。
 今でこそ鰹節や昆布だしを使って出汁を出しますが、昔はそんな材料は贅沢品だといいます。讃岐うどんは今よりもっとシンプルだったといっています。主としてイリコ、(煮干)が使われていました。
讃岐はイリコの生産地です。特に観音寺市沖にある伊吹島のイリコは上質で、今も全国ブランドになっています。
伊吹島のイリコは脂がまわらないといわれ、上等の出汁が出ます。
ところが同じ讃岐でも東讃に位置する引田方面のものは脂が回りやすい。要するに脂が出るとイリコが変質して味が落ちるのです。昔からイリコを買うと必ず紙の袋に入れてくれたものです。
これには理由があります。イリコから脂が出ると紙袋につきます。
脂が付くともう既にイリコは古くなっていると判断できるからです。
 最近うどん屋さんに「出汁の材料は何を使っているんですか?イリコですか、鰹節だけですか」と尋ねましたら、「イリコは使わずカタクチイワシをつかっています」とのことでした。
後は何を出汁として使っているか、どのぐらいの割合で入れるのかは教えてもらえませんでした。これは企業秘密ですよね。
やはりウドンの旨みには出汁は欠かせません。
 これも老僧に聞いた話ですが、出汁はトラハゼを使うという話でした。トラハゼを焼いて天日で干してそれを出汁に使うというのです。ただし、これは漁師所(りょうしどころ)しかしないということでした。老僧は漁師町にあるお寺さんです。
ではトラハゼとはどういう魚でしょうか。島根県太田市静間町和江311上野蒲鉾店ホームページでしらべてみると次のようです。上野蒲鉾店はこのトラハゼを使って蒲鉾を作っているそうです。この上野蒲鉾店のホームページを引用させていただくと次のように書いています。
トラハゼの標準和名は、トラギスまたはクラカケトラギスで、銀白色のキスとは明らかに違い、一見ハゼに似ているために、関西、四国、九州ではトラハゼと呼ばれ、広島ではシマハゼと呼ばれています。
分類 スズキ目トラギス科
別名 トラハゼ、アカハゼ、オキハゼ、シマゴチ、シマハゼ、マダヨソ、ロウグイ
このトラハゼは白身で淡白な味、秋から冬が食べごろ。新鮮なものは天ぷら種にするとよく、塩焼きや酢の物、椀種、フライ、開き干しなどにもされると書いてあります。いずれにしてもまだ食したことがないので、何ともいえませんが、淡白な上品な出汁が出るのではないかと想像します。

さて、最近家庭では椎茸を使って出汁をとりますが、昔は椎茸は贅沢品であったので、ウドンの出汁には使わなかったそうです。現在は昔と違って生活が豊かになり、口も肥え、より美味しくという志向から出汁も贅沢になってきました。


       
      こころのはなし(第108回)2007.11.15

 (1)卓袱台(2)卓袱  この二つの漢字をなんと読むのでしょう。1番がちゃぶだい2番がしっぽくと読みます。1の漢字の台を抜いてしまうと1と2は同じ漢字です。ところが1はチャブ2はシッポクと読むのはなぜでしょうか。
(1) の卓袱台は中国語で矮脚食卓aijiao fanzhuo(アイジアオ・フアンズオ)といいます。矮は背の低い食卓をいいます。
(2) は卓袱 シッポクと読みます。卓は食卓の卓、袱は袱紗(ふくさ)の袱です。これは中国式の食卓を言います。もう一つは八仙卓といって大きな正方形のテーブル、一辺に二人ずつ8人かけられるテーブルを指します。
このシッポクにはもう一つ米の粉、小麦粉を主材料として作った食品という意味があります。これは主としてあんかけそばを指します。この「しっぽく」は現在のベトナム付近の方言であるという説もあります。

讃岐うどんには「しっぽくうどん」があります。これはうどんの中に大根・ニンジン・里芋・あぶらあげを入れた煮込みうどんです。しかし、うどんの上にこれらの具をのせて熱い出し汁をかけたものもあります。本来卓袱うどんの出し汁は関東の濃い味付けではなく、本当に味が薄い出汁です。ですから具に入れた野菜の香りが良くわかります。これを讃岐では卓袱うどんといい、冬の期間食します。ある地区では大晦日の年越しの時だけ作るというところもあります。

この讃岐の卓袱ウドンに対し、江戸では卓袱蕎麦というのがあります。ホームページに麺類雑学辞典があります。このページは日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会
http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/47_01.html

に「しっぽく」の由来が出ています。それによると、江戸時代、蕎麦の種もののなかでもっとも早く登場したのが「しっぽく」である。寛延4年(1,751)脱稿の『蕎麦全書』によれば、寛延ないしその直前頃の延享(1,744〜48)頃に、日本橋の「近江屋」というそば屋がはじめている。また同じ頃、人形町の「万屋」というそば屋もしっぽくをだしているが、これはあまり流行らなかったようである。 

しっぽくとは「卓袱」。元禄(1,688〜1,704)頃から長崎で盛んであった和風中華料理の卓袱料理のことであるこの卓袱料理のなかに、大皿に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上に色々な具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、蕎麦を台に売り出したのが「しっぽくそば」ということになっている。

ただ、幕末ならともかくこの時代に、開港場という特殊な地域で流行った料理を遠く離れた江戸のそば屋が直接取り入れたというのは、少々無理があるといえなくもない。実際、しっぽく料理そのものは享保(1716〜36)頃に京都に移植され、それが大阪をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大阪はいうまでもなくうどん文化圏だとすれば、京・大阪のうどん屋がいち早く卓袱うどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになったと考えるのが自然のようである。とこのように書いてあります。

 さて、それでは讃岐のしっぽくうどんは何時ごろから言われるようになったのかは不明ですが、讃岐では京や大阪よりうどんを食べるの早かったのではないかと思います。しかし、ウドンに野菜を入れて食べるのを「卓袱うどん」と呼ぶようになったのは畿内に伝わってからであろうと思われます。

       
      こころのはなし(第108回)2007.11.01

 讃岐は年間の降雨量が少なく、その上、川が少ないので旱魃になる。また耕地面積が少ないのでお米が取れません。そのような事情からお米は貴重品であったのです。そしてお米には年貢がかかり、麦には年貢がかからなかったから代用食としてウドンが発達し、毎日食べても飽きないように塩加減をしながら打ち込み、腰の強いウドンが出来上がってきました。
 
 最近はオリジナルのウドンが食べられるようになってきました。「釜玉ウドン」といって、釜から揚げたてのウドンに生卵を入れて醤油をかけてよくかき回して食べる。またある店では大根と降ろしがねとを置き、客に大根をすらせ、それを出し汁に入れて食べる「降ろしウドン」。天ぷらを自由にトッピングして、食べるウドンとか、秋の季節になるとマツタケを載せて食べる「松茸ウドン」というのもあります。またセルフで丼にウドン玉だけを入れてもらい、出し汁は自分でかけて、あとは削り節(鰹節)をかけて食べる人や、ウドンの上に天カスを載せて食べる人もいます。讃岐のウドンの食べ方はさまざまです。
 しかし、煮込みウドンは「シッポクうどん」だけです。このシッポクうどんは前にも少し触れましたが、大根、里芋、ニンジン、などを入れて煮込んだうどんです。このシッポクうどんは非常に味が薄いのです。関東の人でしたらこのシッポクうどんを食べたら、「これ味がついているの」といわれるほど薄味です。出し汁にほとんど色がついていないのです。それだからこそ野菜の香りが分かりますし、うどんそのものの味がよく分かるのです。
このシッポクという意味は何でしょうか。
 私の知人に聞いてみますけれどわかりません。そこで広辞苑を引いて見ますと次のように書いてあります。漢字は「卓袱」と書きます。卓は食卓の卓、袱はふくさです。袱紗とはお茶で使う袱紗のことです。なぜこの漢字を「しっぽくと」読むかというと、これは唐音(とういん)です。唐音というのは日本漢字の一つで、宋・元・明・清の中国音を伝えたものの総称です。禅僧や商人などの往来に伴って主に中国江南省地方の発音が伝えられたものです。このシッポクの意味は、中国で食卓の被いのことで、転じて、その食卓の称。卓袱台といいます。もう一つの意味は、蕎麦・うどんの種に松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などを用いた料理をいいます。

 

       
      こころのはなし(第106回)2007.10.01

 前回麦打ち法要のお話を致しました。この法要は浄土真宗だけのものかと思っていましたら、東讃(香川県の東の地域)では真言宗の寺院でも行われていたようです。現在東かがわ市の寺でも行われています。真言宗では麦打ち法要と言わず、麦たたき法要と言われていました。昔は動力がない時には麦の穂を筵の上に広げ、竹竿の先に太さ10センチぐらいの丸太をつけ、それが回転するようになっています。その木の部分を回しながら麦の穂の上に打ちつけ麦粒をとります。この道具をなんと呼ぶのか知りませんが、麦打ち法要の麦打ちの語源になり、麦たたき法要の語源となったのではないかと思われます。真言宗の寺院では麦の穂をたたく時に法要が勤まる。そしてウドンの接待が行われていました。また小豆島では夏場に麦そのものをお寺の本尊にお供えしました。
 
ある老僧にお話を聞くと、「本来讃岐ウドンは太くて短いので、煮込みウドンであった」と言われました。その煮込みウドンが短く太いところから「泥鰌ウドン」と言われていました。ウドンが泥鰌の形に似ていたからでしょう。この泥鰌ウドンが少々なまって、「ドンジョうどん」と讃岐の人は発音します。
現在、泥鰌うどんを出す店を何軒か知っていますが、生きた泥鰌を入れて食すのは後のことと思われます。しかし、泥鰌を入れることによって、よい出汁が出ますし、滋養にもなることなので食べられるようになったのでしょう。その泥鰌も最近讃岐産ではなく台湾や中国から輸入しているものを使うらしいのです。讃岐は川が少ないために多くの溜池があります。そのため池にフナや泥鰌がいましたので、農家の人たちは何かの行事には集まっては泥鰌を獲り、泥鰌うどんを作りました。私も二三度呼ばれたことがありますが、食べるのには少し勇気が要ります。それこそドジョウが丸太(まるた)で入っているのです。この丸太と言うのはドジョウがそのままの姿で入っていることを讃岐ではこのように表現します。
 

また讃岐の郷土料理として、「鮒のてっぱい」があります。「てっぱい」と言うのは「鉄砲和え」から来た言葉でしょう。鉄砲和えはぶつ切りにしてゆでたネギを魚介類・野菜を加えて酢味噌などで合えて料理ですが、讃岐ではこのフナのてっぱいは、大根の千切りに溜池で獲れたフナを用いて、からし味噌で和えて食べる料理です。これが絶妙な味で、本当に美味しく日本酒によくあいます。昔は法事の席に必ずこのフナのてっぱい、醤油豆、ウドンが出されたものです。醤油豆とはやはり郷土料理で、乾燥させたソラマメを焙烙(ほうろく)で煎り、醤油ベースのたれに漬け込み、軟らかくして食べるのです。この醤油豆は作る家々で味が違い、お酒の席にはもってこいの料理です。このような郷土料理も法事の席から姿を消し、家庭でもほとんど作られなくなってしまいました。うどんも家庭で打つということがなくなり、近くのうどん屋でウドン玉だけを買ってきて食べるようになりました。


 

       
      こころのはなし(第105回)2007.09.15

 讃岐ウドンの話も4回目となりました。
私が弘憲寺の住職に就任した昭和43年の夏、お盆経のためにバイクの免許を取得し、盆参りのために檀家参りに行きました。高松に生活してまだ3ヶ月あまりですから、檀家の所在がわかりません。地図を見ながら訪ね歩き、一軒一軒読経してまいりました。
 ちょうど高松の西郊外に鬼無町(きなしちょう)というところがあります。この鬼無町は松の盆栽の生産地で、米、みかん栽培を行っている農村地域です。この鬼無町藤井という集落に寺の檀家が数十軒あります。一軒の檀家さんのお婆さんが、一軒一軒檀家を案内してくださり、大いに助かりました。そのおばあさんは親切にも読経が終わるまで家の外で待ってくださり、また次の家に案内をしてくださいました。このおばあさんは既になくなられましたが、その親切を今でも忘れることができません。
 普通檀家参りして、読経が終わるとお布施を用意してあり、お布施を頂いて次の家に参りますが、この鬼無地区の集落では夏のお盆経に行ってもお布施が出ないのです。始めは家の方が忘れているのだろうと思っていましたら、何件廻ってもお布施が出てこないのです。自分からお布施がありませんよと催促も出来ず、その集落の檀家参りで一軒もいただけなかったのです。
 ところがその集落の最後の家で読経を済ませた時に、その家の主人が、「院主さん、ご苦労様でした。今年も夏初穂(なつばつっお)を近くの製粉所に預けてあるから、粉でもよし、冷麦でもよし、好きな方をお持ちかえりになってください」というのです。
 ところが私はこの意味がわかりませんでした。寺に帰って義母に聞くと、それはこのような意味だよと教えてくれました。
 「昔からこの集落では夏のお盆経は現金のお布施はなく、御布施の替わりに物納でお初穂(はつほ)を頂くのです」。というのです。このお初穂というのはよく神社でお初穂料(はつほりょう)と書いてあります。その年に収穫した麦、お米またその年に取り入れた穀物、野菜、果物などの称です。これを「おはつほ」と読みますが、讃岐では「ばっつお」と発音いたします。夏に収穫する小麦を初初穂を「はつばっつお」発音するのです。
要するに夏に収穫した小麦粉をお布施として頂くことを意味いたします。この習慣も鬼無町にあった製粉所がなくなって終わってしまいました。
 この讃岐は弘法大師生誕の地です。ですからお寺も真言宗が多いと思われるのですが、実は讃岐は浄土真宗の寺院が倍以上あるのです。この浄土真宗の年中行事というのは、親鸞聖人がなくなられたご命日である11月28日の前の21日から28日、浄土真宗東本願寺の寺院では報恩講が勤められます。もう一つは夏に行われる「夏祭り」という行事です。これは11月28日の報恩講を夏の7月28日に行う行事で、「夏祭り」と称し、また別名讃岐の寺院では「麦打ち法要」といっています。
 このときに門徒の方々は、お寺に参拝する時に、夏に収穫した小麦の粉(夏初穂 なつばっつお)を持ち寄り、門徒の方々の手でウドンを打つのです。門徒の人(注1)の手で打ちますから、本当の手作りのウドンです。
 このウドンは先ず太さが不ぞろいです。現在のウドン店のウドンは実に細い、だいたい割り箸を割った一本の太さです。
ところが寺で打つウドンはひどいのになると親指ぐらいの太さのウドンになります。その太く短いウドンが喉を通る時引っかかる。
少し細くなるとのどをすんなりと通っていきますので、これを「喉越しがいい」と表現いたします。現在でも香川県では東の方の地域、(東讃)の浄土真宗寺院で行われていると聞きますが、今ではほとんどの寺院で夏祭りの行事は行っているものの、ウドンを打って接待する寺院はほとんどないと聞いています。
(注1)門徒とはその寺の檀家を指します。特に浄土系では門徒といい、真言宗や禅宗では檀家といいます。

 

       
      こころのはなし(第104回)2007.09.15

前のページで触れた智泉大徳についてお話をしたいと思います。智泉大徳は789年(1218年前)平安時代前期の僧、真言宗を開き、和歌山県高野山を開創した空海の甥に当たります。
父は讃岐滝宮(現在の綾歌郡綾川町)の官使(太政官の使者)で菅原氏です。母は佐伯氏の出身で空海の姉です。

智泉大徳は奈良大安寺を本寺として出家しました。この大安寺は現在でも続いていますが、空海が大学を離れ、山岳修行をしている時に勤操大徳(ごんぞうだいとく)より虚空蔵求聞持法を伝授された方で、この奈良大安寺を拠点としていたお寺です。大同年間の末年ころに空海の室に入り金剛界、胎蔵界両部の大法を受け、弘仁3年(812)12月、京都高雄山寺の三綱となりました。
以後常に空海の側近にあって苦楽をともにして、唐より伝えた真言の教えの宣布の事業を助けました。

天長2年(825)2月14日、高野山東南院でお亡くなりになりました。一説には5月15日滅、37歳の若さでございました。
智泉大徳を大法師とも伝燈大法師ともいいます。
このとき智泉大徳の死を悼んで書いた空海のたっしん文はあまりにも有名で、性霊集八にございます。たっしん文とは法事の際に唱える願文のことです。
このたっしん文を一部紹介いたしましょう。

前略
思うに、今はなき弟子、金剛密教の教えの後継者たりし智泉は、出家以前は、わたしを舅(おじ)とよぶ関係にあった。仏道に入ってからは、私の教えを受け継ぐ最初の弟子となった。親に仕える心をもってわたしにつかえて二十四年。つねにつつしんで、法を習いおさめた。金剛、胎蔵両部にわたり密教の奥儀をあますところなくおさめた。つつしみ深き口に人の欠点をあげつらうことがなかった。人の悪口を言わないのはただ阮嗣宗(げんしそう)だけに限っているのでないことは、この智泉を見ても明らかであった。心の怒りを顔にあらわさず、あやまりを二度と犯さないのは、顔回のみでないことは、この智泉を見ても明らかであった。

きびしく修行をするときも、むつまじく一つ家に住むときも、また王宮に仕えるときも、山中に修行する時も、光と影がよりそうように、常に離れることがなかった。(中略)

文中につぎのように空海は二度にわたって悲しみを表しています。
ああ哀しいことよ。哀しいことよ。この上の哀しさがまたとあろうか。ああ悲しきことよ。悲しきことよ。悲しみのどんぞことはこのことであろう。
さらにまた、ああ哀しいことよ。哀しいことよ。哀しいといってかえらぬこととは知りながら哀しい。
ああ悲しいことよ。悲しいことよ。悲しいといってかえらぬこととは知りながら悲しい。

智泉大徳が亡くなられことが空海にとっていかに大きな悲しみであったかがこの文章からわかります。
空海の手足となってつかえた智泉大徳は空海から真言密教の教えは言うにおよばず、日常生活の事柄、すべてを伝えたのではないでしょうか。そういう意味で、ウドンの製法も伝えたのかもしれません。


 

       
      こころのはなし(第102回)2007.08.15

ウドンはどこから来たのか。こう考えると麺は中国だろうと考えます。さらに辿って行くとシルクロードを西に向かい、ローマに行き着くかもしれません。ここで元高野山大学講師岸田先生の書かれた「うどんはどこから来たのか」を調べてみたいと思います。 
元高野山大学講師でいらした岸田知子先生は主に中国文学をご専門としておられ、私が以前高野山大学の非常勤講師を務めているとき、中国空海ロードをご一緒に旅行したことがございます。
中国空海ロードとは空海上人が32歳のみぎり、中国に密教の教えを求め入唐した際、暴風のために乗船した遣唐使船が漂流し、福州長渓県赤岸鎮(現在福建省)の海口に到着しました。空海はその赤岸鎮から長安(現在の西安)まで2,400キロを走破しました。その空海和尚が歩まれた道を空海ロードといいます。

 そのようなご縁から岸田先生から一冊の本を頂戴いたしました。その本のタイトルが「来た 見た 食った さぬきうどん」です。その中の寄稿として掲載されているのが岸田知子先生の「ウドンはどこから来たのか」です。この本の著者は北野チッパーズUSAです。この著者を説明すると長くなりますので省略いたしますが、岸田先生の文章を引用させていただきます。

 
「そもそも麺という字は麪の俗字で麦の粉を意味する。漢代の文献に「餅は并(へい)なり、麪を溲(こ)ねて合并せしむるなり」とあるように、中国では昔から小麦粉で作る食品を総称して餅(ピン)といった。字は同じでも日本のモチとは違う。現在の食品で言えば、饅頭(マントウ)包子(パオズ)餃子(ギョウザ)焼売(シュウマイ)などはみな餅(ピン)で、中身や形状、調理法によってさまざまな種類がある。餅(ピン)をひも状に伸ばして、ゆでて食べるのを麺条というのが、これは水餃子や?飩(こんとん)「これは日本でいうワンタン」から発達したものと思われる。現代中国の南の地方では、麺条を麺と呼んでいる。」
 
とあるので、麺と言ったら日本人は普通そば、ウドン、ラーメンなどの細長いひも状の麺を想像するけれど、基本的にはどうも違うらしい。しかし、麺といったら麦の粉で作ったものを麺と考えればいいのではないかと思う。

 香川県の人はウドンを弘法大師空海和尚が帰朝したときに日本に伝え伝えたと信じている。しかし本当に空海和尚が伝えたのかというと、甚だ疑問である。だが空海和尚が伝えたのではないと否定する根拠もないのです。ところが岸田知子先生の寄稿文の中で、次のように書かれています。

 「中国の北部ではかなり昔から穀類の粉を材料とした食品を食べていた。しかし、粉を挽くのに人力や牛馬が必要であったため、実は裕福な階層しか食することがなかったのである。ところが、唐代に西方より水車による製粉法が伝わり、大量の製粉が可能になった。また、小麦の栽培面積が拡大し、小麦の価格が下がり、粉食が庶民にまで流行するようになった。唐代後半には都長安のみならず地方でも餅(ピン)を売る店が流行したという。」と書いてあります。これを見ると、長安(西安)に滞在していた空海和尚が餅(ピン)を食していたことは考えられるが、果たして現在の讃岐ウドンのようなものを食していたとは考えにくい。

さらに岸田先生は「日本の麺文化の中で、そばは江戸で発展し普及したため、これに関する本も多いが、ウドンやそうめんの歴史についてはわかっていることが少なく、書かれたものも少ない。そもそも日本では固い小麦を粉にする石臼が発達せず、農家に石臼が発達するのは江戸時代中期以後であるといわれている。」とあるので、これを見る限り空海がウドンを伝えたという説は遠ざかるのではないか。また讃岐では空海和尚の甥に当たる智泉大徳がウドンを伝えたと主張するお寺さんがいらっしゃる。
 


       
      こころのはなし(第101回)2007.08.01

先月法話を頼まれて兵庫県に参りました。法話で開口一番に聴衆に向かって自己紹介から始めて、「讃岐といったら何をイメージしますか」と尋ねました。私は聴衆に期待したのは「弘法大師空海上人生誕の地」と答えていただきたかったのですが、豈図らんや、「讃岐うどん」と答えられました。
 予想していなかった答えなので咄嗟に「讃岐はお大師さまのお生まれになったところです」と話し始めましたが、今や讃岐うどんは全国区になりました。
 私は生まれが神奈川県の藤沢ですので、ウドンというというと代用食というイメージが強いのです。お米が足らないときの代用食です。私が生まれ育った年代は食糧難の時代、お米が足らない分、蕎麦を細かく切って、お米と一緒に炊きこんだ時代でした。それでもこれはまだよい方で、サツマイモを乾燥させ、それを粉にしてお団子状にして蒸かして食べる芋団子を主食にした時代です。
 うどんは煮込んで食べるもの、煮込みウドンと思っていました。私は生まれてから大学を卒業して高野山に登り、修行して高松の弘憲寺に住職として入るまでウドンは煮て食べるものと思っていました。
弘憲寺に入山すると昼の食事は決まってウドンです。寺の門前に中浦というウドン屋があって、ここはウドン粉を練るのに讃岐ウドン本来の作り方である「踏む」やり方を現在まで行っている正調讃岐ウドンの店です。門前にある店ですから昼時になると中浦に飛んでいって、食べる分だけ買ってくる。要するに出来たてのヌクヌク(あたたかい)ウドンです。
讃岐ウドンの基本はウドン、つけ汁、すり生姜、細ネギです。これを基本として丼に入れたうどんにだし汁をかけるか、蕎麦猪口にだしを入れ、ネギ、すり生姜を入れてつけて食べる方法です。ところが藤沢育ちは蕎麦が主で、ウドンを食べる習慣があまりなかったものですから、先ずウドンを蕎麦のように蕎麦猪口で汁をつけて食べているのに驚かされました。「ヤー・ウドンを蕎麦のようにたべているよ」ということでした。
ところがお寺ではほとんど昼食はウドンです。昼の忙しいときは料理を作る手間が省け、だし汁だけ作っておけばすぐ間に合います。讃岐の人はウドンさえあれば他におかずがなくても文句を言わないところが凄いのです。毎日ウドンを食べても飽きないのかといわれますが、それが飽きないのです。
 お寺では毎年春の彼岸法会やら色々な行事を行います。その時に参拝者にお接待をいたします。そのお接待はウドンだけです。そのウドン接待が何十年続いていても誰一人「お接待の食事がウドンだけなのか、とか粗末な食事だ」といったような苦情を聞いたことがありません。本当に讃岐の人はウドン好きです。
 特に讃岐のお坊さんはウドンが嫌いでは務まりません。それは法事のたびにウドンが出るからです。それも法事を営む家に着いたとたんに、「うどんが出来てます」。といわれ何の抵抗もなく頂くのです。うどんを食べてから法事を勤め、終わると今度は正式なお膳が出るのです。

これから暫く「こころの講話」ではウドンシリーズで「讃岐ウドンとは何ぞや」をお届けいたします。お楽しみに。


       
      こころのはなし(第100回)2007.07.15

こころの講話シリーズがちょうど100回目を迎えました。毎回間際にならないと文章が書けません。時間の余裕があって原稿を前にして書こうとしてもなかなか書けるものではありません。               
ホームページのこころの講話も一日,十五日の締め切り間際に追い詰められないと、文章が浮かんできません。私はよく説教や講演を依頼されます。ほとんど私が所属している高野山真言宗の寺院からですが、早いところは一年前から頼まれることがありますが、どんなに早く依頼されても原稿を書き始めるのが一ヶ月前、これでも早い方で、普通は一週間前ぐらいにならないと火がつきません。自分を追い詰めないとよいアイデアーが出てこないのです。
100回目のこの原稿も15日の締め切りにパソコンに向かっています。本当は14日に書く予定でしたが、兵庫県宍粟市で行われた高野山真言宗播磨支所9区参与会研修会の講師を依頼され、講演が終わり帰宅してから原稿を書こうかと思っていました。ところがあいにく14日は大型台風4号が九州に接近中です。早朝テレビのニュースを見ますと、すでに九州では台風接近ために各地で川の増水や、土砂崩れの様子を放映しています。私は一抹の不安を抱きながら朝9時に家を出て、車で瀬戸中央自動車道を通り、山陽道、さらに中国道を通り、折から台風の余波で通行途中の岡山市、備前市、竜野の山間部は猛烈な雨で、揖保川は増水し、濁流が渦巻いています。揖保川沿いに車を運転し、やっとのことで12時半に会場である宍粟市波賀町にある市民センター波賀に到着しました。午後2時半から1時間半の時間を頂いて「真言宗の教えてなに?」という演題で講演を致しました。
会場には雨にもかかわらず300人近い会員の方が研修を受けられました。この参与会というのは主として各寺院の檀信徒を中心に組織されていて和歌山県高野山が主管しています。毎年各地のブロックごとに研修を行っていて、この講演が終わり帰宅してから心の講話の原稿を書こうと思っていましたが、会場を出る頃には強い雨が降り続いています。無事に帰宅できるかなと不安になってきました。なぜなら風速20メートルになると瀬戸自動車道の瀬戸大橋が前面通行止めになってしまうからです。
通行止めになると岡山か倉敷あたりで一泊しないといけません。とにかく瀬戸大橋までは行ってみない事にはどうにもなりません。山陽道など高速道路はすでに50キロ規制です。それでも大型トラックなどは100キロ近くのスピードで私の車を追い抜いていきます。追い抜きざまに水しぶきが立ち、前方が一瞬見えなくなります。運転が恐ろしくなり、ハンドルを硬く握り締めて
極度の緊張を強いられます。途中パーキングエリヤに立ち寄り、しばらく休憩した後ふたたび運転を再開し、やっとのこと瀬戸大橋に近づいてきました。道路脇にある電光掲示板に自動二輪通行止めと表示されています。やれやれ車は通行可能ということで、時速50キロで大橋を渡りかけました。ところが瀬戸内海の上に架かっている橋ですので、風をさえぎるものが何もありません。まともに強風を受け、車は横揺れするしハンドルは取られるしで、
このまま車は横転するのではないかという恐怖が過ぎりました。
夜8時近くに寺にたどり着きすぐにテレビを着けてみると、ニュースで瀬戸大橋が強風のため通行止めになったことを報道していました。この日は本当に疲労困憊でそのまま寝入ってしまい、やはりこころの講話の原稿は15日になってしまいました。また101号から頑張ろうと思います

       
      こころのはなし(第99回)2007.07.01

二十数年間も高松刑務所に宗教教誨師として訪問させていただいておりますと、色々なことを体験します。昨年、明治以来施行されていた監獄法が大きく改正され、「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が施行され、行政改革の実現に向けて歴史的な一歩を踏み出しました。
この法律の目的は、刑事施設の適正な管理運営とともに、受刑者の人権を尊重しながら、その受刑者の状況に応じた適正な処遇の仕方を行うことにありますが、特に受刑者の改善更正の意欲を呼び起こし円滑な社会復帰を図るための処遇をより一層充実させることに重点が置かれ、特に民間協力者である宗教教誨師、篤志面接員の役割がさらに重要になってまいりました。
私は月に一、二度刑務所に赴き、教誨を希望する受刑者に法話や道徳的なお話や、また受刑者から希望して読経願いが出されると、仏壇の前で供養のための読経をし、精神講話を致します。
また特殊なものとしては棺前教誨も行います。棺前教誨とは、受刑者が病気のため刑務所内で亡くなり、遺族がいなかったり、遺族が遺体の引取りを拒否したとき、刑務所内で葬儀を執行いたします。
今年に入ってから私は二件、葬儀の導師を勤めました。今年の初めに刑務所から電話を頂き、「刑務所内で受刑者が亡くなり、刑務所で葬儀を執り行わなければならなくなりました。つきましては本人は家の宗教が真言宗なので、先生に導師をお願いいたしたいのですが」ということでしたので葬儀の日程を相談して、翌日施設に赴きました。到着するとすぐに刑務官の方と打ち合わせをしました。その席で刑務官が亡くなった受刑者には妹さんが一人居り、電話でお兄さんの死亡を告げたところ、「私は葬儀にも行きません。お骨も引き取りません」ということでした。
そこで刑務官の方が「そう言わず、あなたのただ一人のお兄さんではないですか。もう最後ですから、一度顔だけでも拝んでくれませんか」と再三説得し、やっとのことで妹さんは承諾し、次の日早朝に刑務所に来て面会だけ済ませて、遺骨の引き取りを拒否してそのまま帰っていかれたそうです。

葬儀の執り行われるところは、刑務所内に6畳ぐらいの小さな建物があり、そこに仏壇が祀られ、その前にお棺が安置してあります。定刻に私が導師となり引導を渡し、所長、部長、四、五人の刑務官が参列し、焼香をして葬斎場に向かって出棺して行きました。この後、四十九日間施設内に安置し読経をした後、高松市内にある刑務所の墓地に埋葬されました。

考えてみると誰にもほしまれることなく旅立って行った受刑者は、本当に寂しい人生の終焉であり、ただ一人の妹にも愛想をつかされ、家族の墓にも入ることを拒否され、もちろん墓石に名前が刻まれることもなく土に返っていく、これは自業自得といってしまえばそれまでですが、なんとも心空しい葬儀でございました。

       
      こころのはなし(第98回)2007.06.15

先月、教誨師会の会議が京都であり、出席のため高松駅から瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、一路京都を目指しました。途中坂出駅手前で電車が急に減速し、一時停車をしてしばらく経ってまたゆっくりと走り出し、瀬戸大橋を渡るときには平常に走っていましたが、岡山駅近くで車内放送があり、マリンライナーが遅れ接続の「のぞみ」に乗れないので後続の「のぞみ」に乗車してくださいということでした。急いで改札を通り、新幹線ホームに上がると既に自分が乗るべきのぞみは発車した後でした。ホームに立っていると放送があり、「瀬戸大橋線の遅れでのぞみに乗車できなかった方は後続ののぞみ12号車、13号車にご乗車下さい。座席は確保してあります。」とのことでしたので、安心して後続を待ちました。
 
 20分ぐらい待ちますとのぞみがホームに入ってきました。指定された通り、12号車の空席に座って発車しました。のぞみは姫路駅に停車、乗車してくる客がそこは私の席ですからどいてくださいというのではないかと一抹の不安を覚えました。
姫路駅ではどうやらパスし、次の新神戸駅ではどうだろうかと落ち着きません。ところが新神戸では乗車してきた客がやってこられて、「そこは私の座席です。」といわれますので、座席を立ちましたが、車内を見渡すとほとんど空席がありません。私は車掌のところに行き、今までの経緯を説明し、座席の確保をお願いしましたところ埒が明きません。仕方がないので特急券なのにこのまま京都まで立ったつことになったらどうなるのですか。特急券を払い戻してくれますか?と聞いたら、車掌は到着駅で聞いてくださいという。仕方がないので、「では京都まで立ったままだったら、立っていたままでしたという証明書を出してくれますか」と尋ねたら、それは出せませんというのです。「ではどうしたらよいですか」といいますと、「グリーン車に行って座ってください」といいます.
グリーン車両に行き空いている所に座っていましたら、グリーン車の専属の車掌がきて、「グリーン券を拝見します。」といいます。再び岡山からの顛末を説明しましたところ、「それならばこのグリーン車にお座りいただいて結構です。」というので、やっとのこと座席にゆったり座ることができました。既にその時はのぞみが新大阪についていました。グリーン車の満足感も一区間だけのものでした。しかし、余禄もありました。座席の前にポケットがありその中に新幹線社内誌が二冊入っています。一冊の「ひととき」を手にとって開いて見ますと、「温かい巡礼」自分の癒し八十八箇所霊場巡り、の特集を組んでいます。私は四国高松ですので、四国霊場、小豆島霊場、などはよく知っていますが、伊豆に八十八箇所霊場があるとは少しも知りませんでした。
この霊場は天城湯ヶ島に近い嶺松院から始まり、伊豆を一周して修善寺が打ち止めです。伊豆の霊場はまだまだ知名度も低く、それゆえに四国八十八箇所と違った素朴な霊場です。
 この雑誌に、宗教評論家のひろさちやさんが、「巡礼とは、自分の中に仏を見つける旅である」と定義されています。
当にその通りで、せせこましい生活を離れて、一度自分の中の仏を見つけに歩いて見たいですね。

       
      こころのはなし(第97回)2007.06.01

いま讃岐平野は麦秋のころ、一面に黄色く色づいた麦畑が一面に広がっています。麦畑を見ると子どもの頃を思い出します。
私の生まれたところは神奈川県藤沢市辻堂というところです。
辻堂は隣町が鵠沼、茅ヶ崎という湘南真っ只中に位置します。
 今は湘南といえばサマースポーツのメッカで夏の海水浴には人、人で埋め尽くされてしまいますし、冬でも若者がサーフインを楽しんでいますが、子どもの頃はそれほど人出も多くなく、葦ずばりの海の家が4、5軒建っているぐらいでのんびりしていました。

お寺の屋上から見ると松林の向こうに江ノ島が見え、西の方角には富士山が見えます。子どもの頃はお寺の隣近所がみな農家ばかりで、主に薩摩芋や野菜、麦を栽培していました。冬になると近所のおじさんから麦踏の手伝いを頼まれます。私は小学校の頃はよく借り出され、麦わらぞうりを履いて着いていったものです。
 辻堂は砂地で麦をまき、芽が5〜6センチに伸びるとちょうど厳寒の頃ですので、朝霜柱が立ち、麦の根を持ち上げてしまいます。そのため一度か二度は畑に行って、藁ぞうりを履き麦を踏んで押さえつけるようにするのです。藁ぞうりは麦を傷めないために履くのです。約半日麦踏を手伝うと農家の叔父さんは「ご苦労さん、また頼むよ」といって私の手のひらに50円を乗せてくれました。子どもの頃の50円は大金で、急いでポケットに仕舞い込み、手でポケットを押さえながら家に帰った思い出があります。
 5月から6月になると冬に麦踏をした麦が撓わに実り、本当に麦秋そのものです。
いよいよ麦刈りになり、おじさんの呼び出しを受けて畑に出向き、おじさんが鎌で刈った麦を畝に並べていきます。それを私は纏めて束にするのが仕事ですが、途中でおじさんが私を呼ぶので、近づいていくと「ほら、ここを見てご覧、雲雀が巣作りをして雛がいるよ」というのです。麦の間を見ると小さな巣に雛が口をいっぱいに開き鳴いています。
 しばらく巣を見ているとおじさんが、「可愛そうだからこのままのして置くか」といって、巣のところの麦を刈らずに次の畝に移って行きました。
 それから一週間ほど経って雲雀の巣を見に行くと、そこのはもう雛の姿はなく、空になった巣だけが残っていました。青い空を見上げると雲雀が上空で一生懸命ないています。
 それから50年以上も経ちましたが、黄色くなった麦畑を見ると今も巣の中で鳴いていた雲雀のことを思い出すのです。

 夏雲雀微熱の午後の照り曇り    草 城
 

 

       
      こころのはなし(第96回)2007.05.15

お寺の木々はすべて新しい葉に換わり、眩しいほどの新緑が輝いています。このところ晴天が続き、本当に初夏を思わせる日々です。私はこの五月の晴天を五月晴れ(さつきばれ)と思っていましたらどうもそうではないようです。旧暦の五月は梅雨の季節で、元来、五月晴れ,五月空(さつきぞら)という言葉は、梅雨の間の晴れ間を指し、また梅雨明けの晴天のことをさした。(注1)

芭蕉の句で 
五月雨や流れて早し最上川
がありますがこの句は旧暦の五月梅雨の頃ということがわかります。
太陽暦でいうと6月が梅雨の季節に入ります。
この月は田植えが盛んで、讃岐平野も一斉に田植えの時期となり、弘法大師が約1200年前修築した満濃池のユル抜きが6月15日に行われます。ユル抜きとは満濃池の水門を開いて田畑に水を流し込むことをいいます。因みに6月15日は弘法大師空海のお誕生日です。讃岐は現在でも旧暦の五月に田植えを行うところが多いのでしょう。
最近は農家では秋の収穫時に台風に遇うことが多いのでこの時を避け、一月以上も早く田植えを致します。この頃は早いところでは8月にお米の収穫をするところもあるそうです。しかし、こんなに早く収穫すると何の風情もなくなってしまいますね。稲刈りは晩秋であり、収穫したお米の束を干す風景は日本のふるさとの情景であったのですが、今はこのような日本の風景を見るのは難しくなっているのかもしれません。  
農家も機械化が進み、コンバインで刈り取り、籾だけを袋詰めにして、乾燥機に掛けてしまいます。高齢化が進んでいる日本の農業は労働力の軽減ということは大切なことかもしれません。
 
さて、五月のことをサツキと読みますが、この月は田植えが盛んで、早苗(さなえ)を植える月の意味で早苗月といっていたのを略してサツキとなったといい、またサツキのサは、神に捧げる稲の意味で、そこから稲を植える月の意味になったといわれます。
 私は五月(サツキ)は皐月の字を当てるのが本来のものと思っていましたら、「万葉集」「日本書紀」では「五月」をサツキと訓(よ)ませていて、早月、皐月の字を当てるようになったのは後世のことであると書いています(注2)
 和風月名を見ると、日本人は四季おりおりの自然界の移り変わりを観察しながらそれを月名に織り込みながら、敏感に季節感を感じとり、自然界の営みに逆らわずに生活をしていたことがうかがえます。
注1、2 現代こよみ読み解き辞典 編著者 岡田芳朗 阿久根末忠 柏書房

       
      こころのはなし(第95回)2007.05.01

 ゴールデンウイークが始まり29日30日は天候にも恵まれ、多くの人が行楽地に行かれたのではないかと思います。逆にお寺はこの期間に法事が集中します。そのような中で30日にお伺いした檀家さんで、法事を済ませて衣を着替えているときに、短冊が一枚柱のところに掛けてありました。その短冊にはこのように書かれています。
 
合掌  腹が立ったらたったまま
    悲しかったら泣いたまま
    そっとこの手を合わせます
 
良い言葉なので手帳に書き写してきました。この言葉は何を言おうとしているのでしょうか。手を合わせて間を持ちなさいよと言っているのでしょうか。それとも自分を振り返りなさいよと教えているのでしょうか。合掌は素晴らしい表現方法だと思いますね、相手に向かって合掌したら相手方も心和みます。

合掌とは手を合わせるという行為です。インドでは古くからの礼法の一つで、南アジア諸国では挨拶にもこの礼法を用いています。合掌をすることは、相手に何も危害を与えませんという姿かもしれませんし、相手を尊ぶ基本的な姿でもあると思います。
インドの国花は蓮の花です。インド人は蓮の花を見て合掌を考え出したのでしょうか。合掌とは基本的には蓮の蕾を形作ります。蓮は泥の中にあっても泥に染まることはありません。蓮は清らかな心の象徴です。その清らかな心を表現して手を合わせはすの蕾の形をとるのが合掌です。ですから合掌は胸のところで手を合わすのです。
手には五指があります。この五指にはそれぞれに意味があります。小指から地、薬指は水、中指は火、人差し指は風、親指は空です。地水火風空はこの宇宙を構成する五つの要素です。これを五大といいます。この地球が誕生して45億年、そして38億年前に太古の海に初めて誕生した命は私たちの祖先です。その命の素になったものが地、水、火、風、空の五つの要素です。この五大が途切れることなく受け継がれているのが現在の私の命なのです。
この五大を表現しているのが五重塔です。五重塔は屋根が五層になっています。この五層が五大である地水火風空を表し、大宇宙を表現しています。またお寺で使う卒塔婆も大宇宙を表現しています。またお墓に立てる五輪塔も大宇宙を表しています。
この五大を表す五本の指も合掌することによって大宇宙を表現しています。要するに合掌することは、大宇宙から頂いたかけがえのない命だということを象徴的に表しています。
お互い合掌しあうということは、相手のいのちを尊重することにつながります。

 

       
      こころのはなし(第94回)2007.04.16

 春本番となり、お寺に一本ある桜も風が吹くたびに舞い、地面に花筵を敷いています。一昨日車を走らせているときに、一本の桐の木に目が止まりました。綺麗な紫色をした花が開いています。
 普段桐の花に目を留めたことはないのですが、木々が芽吹きだしたその中に、桐の紫色が際立って美しく見えました。昔は女の子が生まれると桐の木を植え、娘が嫁ぐときには成長した桐に木で箪笥を作り持たせ嫁がせたという話を聞いたことがあります。
 私の寺では、息子が生まれる時に、裏庭に桐の木を植え、成長して製材に出し、しばらく板にして乾燥させ、その板でお茶の台子を作り、いま家内が茶道で使用しています。桐の木は成長が早いので、このようなことができるのでしょう。
新潟県南蒲原郡田上町大字田上に「桐蔵KIRIZO 」があります。
http://www.1kirizo.com このホームページに「私たちは子どもの誕生を記念して桐の木を植えます」があります。ここにも次の代のために植樹をしている話が出ています。
 
 前に聞いた話ですが、中国には老酒という酒があります。老酒も娘が生まれると、甕に原料を仕込み封印して、地中に埋め、娘が嫁ぐときに甕を掘り出し、お祝い酒として飲んだと聞いています。要するに20年近くも寝かせて置くので古酒ということで老酒(ラオジュウー)というのだと聞いた事があります。

さて、話を元にもでしますが、桐の木の花は家紋の意匠に用いられています。豊臣家の紋が桐紋です。高野山の金剛峰寺の寺紋がやはり桐と巴を使用しています。金剛峰寺は豊臣秀吉が母の菩提のために寄進した寺ですので桐紋を使い、巴は高野山の地主の神様である高野明神の紋です。「桐紋はもともと菊とともに天皇家の紋である。しかし、将軍家に下賜され、その将軍家がさらに武将功臣に再下賜され、広まった。菊紋は規制が厳しかったが、桐紋はそれほどでもなかったので、あこがれの紋として広まったのである。」とホームページ「家紋world」に出てまいります。

私はこの家紋について素晴らしいと思うことがあります。それはデザイン(意匠)の素晴らしさです。家紋は既に平安時代にさかのぼるそうですが、日本人の祖先たちが家の象徴として、デザインして使用したということは素晴らしいことだと思います。家紋は約一万ほどあるそうですが、これを誰がデザインを考えたのでしょうか。
やはり家紋を考える専門のデザイナーがいて、そのデザイナーに依頼したのでしょうか。
 家紋のデザインはそのモチーフ(図案、柄)がほとんど植物であり、また動物でもやさしい小動物に限られています。例えば
鳩、馬、ウサギ、こうもりなどです。
 植物では茄子、三つ葉、唐辛子、夕顔の花、桃、胡桃、葵、梅花、柿の花、蕪、スミレ、夕顔、栗、などです。これらを丸型や四角やひし形の中に描き収めています。本当にやさしい動植物ばかりです。それに比べ西洋の家紋は、荒々しい鷲やライオンやハゲ鷹などです。西洋の家紋は戦う、闘争の象徴なのでしょう。ここが西洋と東洋の違いだと思います。東洋人は大自然と共生して生きていく智慧を持っています。これは農耕民族の特徴です。西洋は狩猟民族です。この違いが家紋にはっきりと出ています。
 最近日本人も家の家紋を知らない人が出てきました。檀家の方でお墓を建てなければいけなくなり、墓石に家紋を彫りこみたいが家の家紋を知らない。石材店の人が家紋全集を差し出し、それならばここから選んでください。すると、これが格好いいからこれにしますと決めていました。世も変わるものですね。

   
こころのはなし(第93回)2007.04.01

 3月29日、早朝の4時から車を走らせ日帰りで、和歌山県の高野山に行ってまいりました。お山では真言宗の布教師会研修会があります。布教師というのは真言宗密教の教え、弘法大師の教えを広めるために活躍する専門職のような役割です。高野山真言宗では布教師として活躍している人は約400人近くいます。それらの布教師の方が、新年度から新たに活動する活動方針や目的を再確認し、研修するのが毎年この時期なのです。ですからこれら400人もの人が一同に会することは年に一度ぐらいですので、高野山に登るということは旧知の人や友人とお会いする楽しみもあるのです。
 3月25日に能登半島地震があり、死者1、全壊121戸、重傷者23、軽傷者232、避難者1127、(29日午後2時半調べ、朝日新聞)という大災害がありました。被災した方々に心からなるお見舞いを申し上げます。
 私は、報道で地震を知ったときに、先ず頭に浮かんだのが、能登地方に居る友人は無事なのだろうかということでした。高野山布教師の中で被災地に住んでいる方がいらっしゃいます。その布教師の友人も29日には高野山の研修にこられるはずです。
朝10時近くに研修会場に入り、会場内を見渡して見ますと、被災したにもかかわらず友人が既にこられているのです。
「ああ、無事であったのだな、」と胸をなでおろしました。
友人は私の手を握り、「心配を掛けたな、有難う、君も元気で活躍しているか」と逆に心配をしてくれました。
よき友を持つということは本当に大切です。真の友人というのは、困っているときだけでなく、喜びのときはともに喜んでくれる人であり、色々な知識,智慧を与えてくれる人だと思います。


釈尊は法句経78番で次のように説かれます。

悪しき友と 交わるなかれ

いやしき人をも
侶(とも)とせざれ 心清き友と交わるべし
まされるものを とも侶(とも)とせよ


という詩です。釈尊は折りあるごとに、友達を選べと仰っておられます。昔から類は友を呼ぶという言葉がありまが、
善い人交われば、自然と善い事が身につき、悪人とばかり交わっていると、自然にこちらも悪いことばかり考えるようになり、悪の道にと陥りがちになる。悪を廃し、善につけと釈尊は説かれています。
先月高松刑務所で一人に被収容者がなくなりました。この人は8回も刑務所に入っていました。家の宗教が真言宗ということで、私が施設内で引導を渡しました。この人には妹さんがいて、妹さんに連絡しますと、最後の顔だけは見に行くけれど、葬儀には出ませんし、遺骨も引き取りません。ということでした。あとは刑務職員のみの立会いのもとで、葬儀を行いさびしく葬祭場に向かいました。家族は兄に今まで大変苦労させられてきたといいます。だから遺骨は引き取れないというのです。妹さんは今まで散々苦労を掛けられた私は兄を許すことはできない、だから遺骨を引き取らないということが、妹さんの精いっぱいの兄に対する抗議なのでしょう。自業自得といえばそれまでですが、本当にさびしい終末です。
釈尊はいくどともなく繰り返し、さとされています。
悪を廃して善につくことにより、人にも容れられ、世にも容れられ、この世で人並みな生活が営めることになりますと。

寺の檀家にお伺いすると一枚のカレンダーに目が留まりました。 
それが今月の言葉、「よい友達をつくろうよ」です。

花が蝶を呼ぶのでしょうか/ 蝶が花によってくるのでしょうか
ひとりぼっちはつまらない/ よい友達をつくろうよ/
花が咲かなければ蝶もこないし/ 蝶もこなければ花もつまらない/ よいともだちをつくろうよ。

やさしい詩ですが、私たちに善い友達を作ろうよと呼びかけています。自分が正しい道を歩まないと人は依って来ない、そして自分を高めることによってそれに相応しい真の友人を得ることできるのです。

 

       
   
こころのはなし(第93回)2007.03.15

 今年は暖冬と言われながらこの一週間は真冬に逆戻りです。気象庁が桜の開花予想を発表し、静岡などは3月13日に開花すると発表しました。私の住んでいる高松は3月17日と発表されましたので、寺の境内にある染井吉野のを見ますと、その時期に咲く気配は全然ありません。蕾のさきが赤みも帯びていませんので、今年も平年並みだろうと思っていましたところ、3月17日の開花予想が気象庁の入力ミスであったと訂正がありました。
 昔から、花の咲く順序は、梅、桃、桜と言っていましたが、いくら暖冬でも、桃を飛び越してまでは桜は咲かないでしょう。花屋さんの店頭に並ぶ桃は、開花を早めるために、室に入れて出荷したものです。

 中国の大衍暦(たいえんれき)の72候によると、新暦3月11日から10日ごろの言葉として「桃始めて華(さ)く」とあります。これは桃が花咲く時期という意味です。暦では今頃から桃の花が咲き始めるというのです。
さて、中国の大衍暦を作られた方は、唐のお坊さんで一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)という方です(683〜727)。またの名を大慧禅師といいます。
インド、中国、さらに日本に密教を伝えた空海まで、8人の祖師がいらっしゃいます。普通八祖大師といいます。その密教の教えを伝えた系譜(系統関係を図式に記したもの)があります。
その真言密教には二通りの系譜があります。一つの流れが付法(ふほう){教えを弟子に授けて後世に伝えること}の八祖と、もう一つ伝持(でんじ){仏法,戒法を受け伝えて護持すること}の八祖です。付法の八祖とは「広付法伝」に説く八祖、大日如来、金剛薩?、龍猛(りゅうみょう)菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、恵果和尚、弘法大師。の8人の祖師たちです。
伝持の八祖とは付法の八祖から、大日如来と金剛薩?が除かれて、善無畏三蔵と大衍暦を作られた不空三蔵が入ります。
龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏(ぜんむい)三蔵、一行阿闍梨、恵果和尚、弘法大師の8人です。
 
 この大衍暦を作られた一行阿闍梨は生粋の中国人で、姓は張、名は遂といいます。河北省の生まれ、幼少から聡明で、記憶力に優れ、21歳の時に父母を失い、荊州(けいしゅう。今の中国湖北省、湖南省の大部分)の景禅師について出家、天台の布算から数学と暦学を学んだ。後に大衍暦52巻を著します。善無畏三蔵、金剛智三蔵から密教を学び、大日経疏(だいにちきょうしょ)を撰しました。特に一行阿闍梨は算法、暦法、天文学者としても有名な方です。現在中国の切手に肖像が描かれていると聞いています。
 今回の「心の講話」は大変難しい話になりましたが、真言密教ルーツ知るには適当かと思います。

       
   

● こころのはなし(第92回)2007.03.01

 先月17日から23日まで家内と、私が習っている中国語の張 先生と一緒にオーストラリアのシドニーに行ってまいりました。
この旅行はシドニーに在住している私の弟子で、ウイリアム・和證斉藤師のお寺を訪問するのが目的です。お寺の名前は三鈷山、遍照光院、青山寺といいます。お寺を建立する時に、私がオーストラリアの名所であるブルーマウンテンから名を取って青山寺とし、山号の三鈷山とはブルーマウンテンにある伝説に因んで聳え立っている三つの奇岩、スリーシスターズから三鈷山と名づけました。
院号の遍照光院は弘法大師のご宝号である南無大師遍照金剛の遍照を頂き、お大師さまの教えのみ光があまねく照らす。という意味で付けさせていただきました。
 
張先生の参加は、先生の娘さんが昨年北京大学を卒業し、今年2月にシドニーの大学院に入学しました。張先生としては一度どのような下宿か見てみたいし、大学の様子をも知りたい。そこで私たち夫婦がよいチャンスだから一緒にどうですかとお誘いしたのです。娘さんをウイリアム・斉藤氏を紹介すれば、困ったときに相談もできるし、何か力になってくれるのではないかと考えました。
ウイリアムはシドニー在住29年になり、オーストラリア国籍を取得しているので何の心配も要りません。
 シドニー空港にはウイリアムのお弟子さんたちが私たちを迎えに来てくれています。丁度2月の18日は旧正月です。皆でシドニーのチャイナタウンに行き、張先生の友人でシドニーの中国大使館に勤めている方たちとともに招待を受け、中華料理をご馳走になりました。店の前では爆竹がなり、獅子舞が舞い正月らしさを演出していますが、日本と違ってオーストラリアは今真夏なので、正月の雰囲気がもう一つです。
 ホテルはハーバービュウホテル、ホテルからハーバーブリッジが一望でき、それは素晴らしいロケーションです。
実は私と家内と張先生は英語が全く駄目、旅行会話の本を持ち、ページをめくりながらの珍道中です。家内は案内してくれる外人に平気で英語訛りのような日本語で話しかけていきます。しかし、以心伝心というか、なんとなく理解しあえているのが不思議です。

滞在中、シドニー水族館、シドニータワー、またタロンガ動物園でコアラ、カンガルーを見たり、ブルーマウンテンに行き、スリーヒスターズという奇岩や、ユウカリの原生林から放出されるガスのために山全体がブルーの色に染まっています。何か神々しい山にみせられ帰路に着きました。
 
帰国の二日前には、かの有名なオペラハウスでのコンサートに招待を受け、ハウス内のレストランで食事、その後コンサートを鑑賞しました。ところが私たちは英語が分からないものですから、オーケストラの演奏曲目が何か、コーラスグループが何を歌っているのかさっぱりわかりません。他の観客は熱心に耳を傾けていますが、私と家内は眠気をこらえるのが精いっぱい、コンサートも終わりやっとのことで外に出ますと、ロックスの湾内に豪華客船クインエリザベス号と少し離れたところにクインメリー号が停泊しています。オペラハウスに入場する前にクインエリザベス号が湾内に入港してきました。
ロックスの岸壁は多くの市民で埋め尽くされ、その雄姿に見とれておりました。わが人生で二度とこの豪華客船と出会うことはないだろうと思います。ほんとうに幸運なことでございました。

帰国前日には青山寺でバーベキュウーパーティを開いてくださいました。シドニー日本人会の会長宮下さんご夫妻や、ウイリアム・和證斉藤のお弟子さんたちが集まり、ワインを傾けながら楽しい一時を過ごしました。この度の旅行中、和證師には本当にお世話になり、入国から帰国まで、本当に心を尽くしたお接待を受けました。彼はオーストラリア在住29年とはもうしますが、言葉の苦労はかったにせよ、この間並々ならぬご苦労があったと思います。生活習慣や考え方の違い、それを克服してオーストラリア人に真言宗の教えを流布することは並大抵の努力ではないと思います。人知れず海外で弘法大師の教えを広めるために命をささげている人がいるのです。昨年、高野山から海外開教の指定を受け、海外開教に対する助成を受けるようになりました。その助成はわずかではありますが、それが彼の今後の開教活動の少しでも励みになってくれることを祈りつつ帰国の途に着きました。


ホテルからダーリングハーバーを望む

ホテルからダーリングハーバーを望む

ハーバーブリッジ
ハーバーブリッジ
   
夜のオペラハウス
夜のオペラハウス
  ブルーマウンテン・スリーシスターズ
ブルーマウンテン・
スリーシスターズ
   
クイーンエリザベス号
クイーンエリザベス号
  家内・張さん 斉藤氏の子息とともに
家内・張さん
斉藤氏の子息とともに
   

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● こころのはなし(第91回)2007.02.15

2月1日の心の講話で釈尊の涅槃のことに触れました。この涅槃のことをもう少し詳しくお話したいと思います。

俳人松尾芭蕉は「涅槃会や しわ手合わせる 数珠の音」と歌っています。
太陽暦の二月十五日は釈尊が涅槃に入られた「涅槃会」の日です。今年の陰暦を見ますと、四月二日が「涅槃の日」です。

普通各宗派では釈尊が入滅された日に遺徳をたたえて勤める法会を「涅槃会」といいますが、高野山では「常楽会」と申します。
常楽会とは悟りの境地である「常、楽、我、浄」という四っの徳に由来いたします。
「常」とは永遠ということ「楽」は安楽ということ、「我」は絶対ということ、「浄」とは清浄、清らかということを意味しています。
つまり悟りの境地は、永遠の苦しみを超越した安らかな精神を有し、他のものに影響されず煩悩にも突き動かされない、絶対的に清らかなものであることをあらわしています。

釈尊はヒマラヤ山の南のふもと、チベットの釈迦族のご出身です。
釈迦族の王、浄飯王とその妃である摩耶夫人との間にお生まれになられた王子様で、ご両親がつけられたお名前がシッタルータ(悉達多)「すべての願いが成就した」という意味です。
釈尊には色々なお名前がございます。この釈尊というのは、お生まれになら
れた釈迦族の尊いお方という意味がございまして、この外に仏陀、とも申し
ます。この仏陀という意味は、目覚めた人、さとりを得た人、という尊称で
す。また無上覚者ともお呼びします。無上とは最もすぐれたさとりを開かれ
た人、という意味があり、次は釈迦無牟尼如来ともお呼び致します。また世
尊ともお呼び致します。
人間が生きていることは人間は何かを求めて生きています。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいことを求めることの二つがあります。
誤ったものを求めるとは、自分が老いと病と死を免れるようにと願うことです。何人もこの老いること、病にかかること、死ぬことは免れることはできません。しかし、人は若くありたいと願い、病気にならないようにと願い、死なないことを求めていることです。
では正しいものを求めるとは、この誤りを覚って老いと病と、死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることであると考えました。
私はいま、誤ったものを求めているに過ぎないと思い悩むようになり、日々心悩ます日々が続き、二十九歳のときについに出家の決心をされ、住み慣れた宮殿を後にしたのです。
そして、尼連禅河の林の中で激しい苦行を続けられたのですその苦行というとそれは激しい修行であったようであります。釈尊は自らの修行をこのように回想しています。
 「私は、過去どのような修行者よりも、現在のどのような修行者も、また未
来のどのような出家者よりも、これ以上のくぎょうをしたものはなく、またこれからもないであろう」と後に言われたほど世にもまれな苦行であったのです。
しかし、そうした苦行も得るところは何もなく、太子は六年の長きにわたった苦行を捨てたのです。太子は尼連禅河で沐浴し、身の汚れを洗い流し、スジャータという娘から乳粥の供養を受けて健康が回復したのです。

その後、静かに菩提樹の根方に座禅して、瞑想に入られました。
そして七日目の夜明けを向かえ、明けの明星を仰いだときに、忽然とおさと
りをひらかれ、仏となられたのです。これより太子は、仏陀、無上覚者、如来、
釈迦牟尼、如来、釈尊、世尊の名で知られるようになりました。それは太子三
十五歳、十二月八日の朝のことでありました。
お悟り開かれた釈尊は、六年間一緒に苦行した5人の出家者教えを説き、彼らを強化し、釈尊の弟子となりました。

このようにして、釈尊は伝道のたびを続けること四十五年、八十歳を迎え、旅の途中で病を得て、「三ッ月の後に涅槃に入るだろう」と予言されました。
釈尊はなおも旅を続ける途中、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、病を押してクシナガラに入りました。
釈尊は城外の沙羅樹の林に行き、沙羅の大木が二本並び立っている間に横になりました。その時頭は北向き、右肩を下にして、顔を西向きにして横臥され、弟子たちに最後の教えを説かれました。そして静かに涅槃に入られたのです。
涅槃とはすべての煩悩が吹き消されたという意味があります。すべての煩悩を解脱し、最も安らかな境地に到ったのです。


 

       
   

● こころのはなし(第90回)2007.02.01

1月15日のホームページで、釈尊の涅槃について触れていますが、その前に釈尊のお名前についてお話いたします。
ここでは釈尊と言っています。釈迦族の尊い御方というので釈尊といいます。またお釈迦様ともお呼びします。これは釈迦族の出身の方という意味があります。この他にブッタという呼び方をします。ブッタとは覚られたお方という意味があります。では何を覚られたのかともうしますと、真理を覚られたということです。真理とは永久不変に変わる事のない教えです。例えば「この世は諸行無常である」。この世に存在するすべてのものは刻一刻と姿を変えて一瞬たりとも同じ姿をとどめるものはありません。これは真理です。
ですから、世の中の真理を覚られたという意味の「ブッタ(buddha)」と梵語(サンスクリット)でお呼びします。
さて、インド各地を巡って布教活動をされた釈尊は、体調を崩され北インド、クシナガラの沙羅林の中で頭を北に、顔を西向きにされて、手を頭の下にあてがわれて、弟子たちに最後の教誡(きょうかい)をされました。

釈尊が最後に弟子たちに説かれた戒めの言葉を紹介を致しましょう。経典には次のような描写から始まります。

時に夜はようように更けてきた。月明かりに星は澄み、風やんで流れ静かに、林の中は寂静として声もない。世尊は、あまね普くもろもろの弟子たちのために、また略(つづ)めては法の要を説きたもうた。
「弟子等よ、なんじ汝ら等は私が滅度(亡くなること)に入るのを見て、正法はここに永久に絶えたと思ってはならない。私はこれまでに汝等のために戒(いまし)めを制(とど)め法を説いてきた。汝等は私のなくなった後においては、必ずこれを敬って、闇で明かりにあい、貧しい人の宝を得たように尊ばねばならぬ。これこそ汝等の大師(おしえのきみ)である事を知って、私の世にあるときと同様に守るがよい」
このように呼びかけ、釈尊は入滅後の弟子たちの心構えを諄々とお説になり、安らかに涅槃に入られたのです。多くのお弟子さんは悲しみのあまり泣き、動物たちも、虫までもが悲しみにくれています。しかし、涅槃絵に描かれている釈尊だけが、いちばん安らかなお顔をしていらっしゃいます。それはすべての煩悩がなくなった状態。あたかも煩悩の炎が吹き消された状態なのです。これを涅槃といいます。そして釈尊は寂静(じゃくじょう)の世界に入られました。その日が2月15日です。

       
   

● こころのはなし(第89回)2007.01.15

 朝日新聞の1月13日、be on Saturday(ビーオンサタディ)に興味深い記事が掲載されていました。
 記事は茨城大助教授・磯田道史が、昔も今もの欄に「なぜ猫年はないのか」書かれていたので紹介させていただきます。
 十二支の動物は、国・地域によって異なる。日本では猫は入らないが、タイ、ベトナム、チベットでは猫が兎の代わりに、ちゃんと入っているらしい。
 子どもの頃、猫が十二支からもれた理由を聞かされた。「昔、十二支を決める動物集会が開かれた。その時、猫は鼠にうその日程を教えられたため、集会に参加できず、十二支に入れなかった。以後、猫は鼠を追うようになった」でも、これは非科学的だ。真実の理由は、猫の家畜化が遅かったから。干支の始まりは古代中国。2300年前にはもうあった。干支や十二支ができた時点で中国に猫を飼う習慣はなく、猫は十二支に採用されなかったのではないか。
 猫の家畜化に初めて成功したのは、古代エジプト人だが、彼らは、猫を大事にするあまり輸出を禁止。国外に密輸された猫は、古代エジプトの役人が諸国を巡って連れ戻したという。(平岩由伎子「猫のなった山猫」)。そのため、飼い猫は世界に広がらず、中国にも入れなかった。つまり猫が干支に入るのを邪魔したのは、鼠ではなく、古代エジプト人だったといっていい。
 東南アジアやチベットで猫が十二支に入っているのは、猫の家畜化が干支の普及より早かったためだろうか。新春、庭先の白猫を見ながら、ふと、そんな空想をした。と書いておられます。
 この記事を拝見して、ふと思いついたことがあります。それはお釈迦様が亡くなられた姿が描かれた涅槃図(ねはんず)があります。沙羅の林の中で息を引き取られたお釈迦様が、一段高い檀のようなベットに身を横たえています。頭は北向きに、顔を西向きにされています。そのお釈迦様の周りを多くのお弟子さん、天女、や神々が取り囲み悲しみにくれています。また沢山の動物や虫までもが描かれ、同じように悲しみにくれています。
その動物の中に猫が描かれていないのです。やはり2500年前にはインドにも猫が家畜化されていなかったのでしょうか。そのために涅槃図に描かれなかったのでしょうか。

 涅槃会や 猫は恋して 寄り付かず  という川柳があります。

旧暦の2月15日涅槃会の頃は猫は発情期だそうです。恋に狂った猫は遠出していたのか、お釈迦様の亡くなられた時に間に合わなかった。だから涅槃図には猫の姿が描かれていないのだというのです。
 さあ、どちらの説が正しいのでしょうか。やはりインドでも猫は家畜として飼われていなくて、あまり知られていない動物だったのかも知れません。
因みに涅槃とはサンスクリットでニルバーナといい、貪りと怒りと、愚痴を三毒といいますが、この三毒は我々の心を滅ぼす毒となりますから三毒煩悩といいます。この三毒がすべてなくなった状態を涅槃といいます。
亡くなられたお釈迦様がいちばん安らかなお顔をしています。それはすべての煩悩が吹き消された状態だからです。

 

       
   

● こころのはなし(第88回)2007.01.01

 新年明けましておめでとうございます。
弘憲寺ホームページにいつもアクセスしてくださる皆様には恙無く新年をお迎えのことと慶賀に存じます。
 先日、車を走らせながらラジオを聞いていました。アナウンサーが「皆さんお正月に見る夢を初夢といいますが、何時見る夢を初夢というのでしょう」とクイズを出していました。

「大晦日の晩、正月にかけて見る夢でしょうか?または1日の晩から2日にかけての夢でしょうか?」というものでした。
皆さんはどちらだと思いますか。広辞苑を引いてみると、元旦に見る夢。また正月2日に見る夢。とあり、古くは節分の夜から立春の明け方に見る夢。とあります。
 山家集に「年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢」とあります。また、山本健吉編の最新俳句歳時記によると、正月元旦から二日に見る夢、とあります。獏枕(バクマクラ)といって、獏を描いた紙を枕の下に敷いて寝ると、凶夢を見ないという。獏は形は熊に、鼻は象に、目は犀に似て、尾は牛に、足は虎に似ていて毛は黒白の斑で、頭が小さく、人の悪夢を食うと伝えられ、その皮を敷いて寝ると邪気を避けるという想像上の動物です。 
獏枕子のよき夢をつゆ知らず     兜子
があります。私は朝起きると夢をほとんど覚えていません。ですから私は夢を見ていないのではないかと思いますが、実際はちゃんと見ているのだと思います。一度でいいから好い夢を見てみたいものだと思いますね。
 この初夢にほかにも次のような言い伝えがあります。、七福神を乗せた順風満帆の船の絵に、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」上からよんでも下からよんでも同じ歌が、書き添えられているものを枕の下に敷いて寝ると吉夢を見るといいます。
宝舟目出度さ限りなかりけり    虚子
  
新しき年の初春を迎える喜びが伝わってきます。正月を迎えたら素直に新年を喜び、家族揃ってお祝いをすることが大切だと思います。
 釈尊の説かれた法句経292番に次のような詩があります。

なすべきことを、なおざりにし、
なすべからざることをなす。
遊びたわむれ放逸な(今の瞬間にきずかない)者には、
煩悩が増大する 
             (法句経292)
真になすべきことというのはいったい何でしょうか。私たち人間は今この瞬間の連続で生きています。この一瞬、一瞬の積み重ねがその人の人生を形作っていくのです。あなたが今何をなすべきかをよく考え、実行することの大切さをお釈迦様は説かれているのです。正月を迎えたら素直に新年をお迎えしてお祝いをする。今なすべきことをよく認識してそれをきちんとやることです。
つねに今なすべきことに意識を向けてゆけば充実した今を生きることができるのです。

     
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